郷土ちがさき 144号(2019年1月1日発行)

内容

  • 表紙 「謹賀新年」(画像)寿式二人三番叟―県立茅ヶ崎高校文楽部
  • 文久二年の伊勢参宮道中で藤間欽三たちが訪ねた社寺 (芹澤七十郎)
  • 柳島小学校 開校時のこと、五十周年記念式典のこと (羽切信夫)
  • 史跡・文化財めぐり「市内の別荘跡を歩く」
  • 第289回ー中海岸の鉄砲道から南へー (源 邦章)
  • 第290回ーラチエン通りからゆかりの人物館へー (源 邦章)
  • 風(自由投稿欄)
  • シロ、お前もか(中島幸子)
  • 茅ヶ崎郷土会 活動報告
    第46回 茅ヶ崎市郷土芸能大会 (K・K)
    訃報 名和稔雄さんを偲ぶ(羽切信夫)

    • 「郷土ちがさき」143号正誤表
    • 編集後記
    • (画像をクリックすると、PDFファイルが開きます)

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    第46回 茅ヶ崎市郷土芸能大会ひらかれる 2018/11/25(日)晴天

    11月25日(日)、茅ヶ崎市郷土芸能大会が行われた。

    場所は、10月1日にリニューアルオープンした市民文化会館小ホール。
    市教育委員会が茅ヶ崎郷土芸能保存協会に委託して毎年開催しているものである。
    茅ヶ崎郷土会も保存協会の役員を掛け持ちして大会を下支えしている。

    まず、県立茅ヶ崎高等学校文楽部の三番叟で幕を開け、続いて来賓の挨拶、茅ヶ崎郷土芸能保存協会の青木会長の挨拶があった。

    演目は次のとおりだった。
    寿式二人三番叟(またの名を乙女文楽 県立茅ヶ崎高等学校文楽部)
    なんどき橋の幽霊(茅ヶ崎民話の会)
    茅ヶ崎ふるさと音頭(茅ヶ崎レクリエーション民踊協会)
    柳島御座敷甚句(柳島エンコロ節保存会)
    圓蔵ばか踊り(圓蔵祭囃子保存会の岡崎部会)
    芹沢焼米搗唄(芹沢焼米搗唄保存会)市指定重要文化財
    上赤羽根甚句(上赤羽根太鼓保存会)
    南湖餅搗唄(南湖餅搗唄保存会)
    南湖麦打唄(南湖麦打唄保存会)市指定重要文化財
    上赤羽根祭囃子(上赤羽根太鼓保存会)
    芹沢ササラ盆唄(芹沢焼米搗唄保存会)
    圓蔵祭囃子(圓蔵祭囃子保存会)市指定重要文化財
    柳島大漁船上げ唄(市立中島中学校一年生・柳島大漁船上げ唄好友会)
    柳島エンコロ節(中島中学校二年生・柳島エンコロ節保存会)市指定重要文化財
    (画像をクリックすると大きくして見ることができます。)

    終演後、恒例の抽選会(保存協会副会長の小澤勝重さん手作りの野菜十数袋と、元同会副会長の斎藤茂吉さん手作りの宝船三艘)が青木会長の進行で行われ、伝統芸能同様大いに盛り上がった。

    Report K・K
    Photo sakai会員とK・K

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    茅ヶ崎23ヶ村調査勉強会に参加して  2018/11/20(火)

    前回(11月6日)に続き、私は2度目の参加です。
    中島村のまとめの作業が、私を除く7名の参加者による熱心な議論により進められていました。
    第二章「中島の歴史 解説編 01~56プラスα」のうち、「01中島 地名の由来」から「14記録に残る馬入の渡し」までの確認と校正でした。

    地名の「中島村」と「仲嶋郷」の関係、「新編相模国風土記稿」に出てくる相模川のこと、「東海道中膝栗毛」の主人公(弥次郎兵衞・喜多八)の名前のこと、浄林寺にある供養塔は元和九年(1623)の銘を持ち、おそらく中島にある最も古い年号銘であろうこと、「古相模川」と「いかだま」の記載の仕方などが取り上げられ、詰めと方向性が決められました。

    中島村については昨年4月から始まったわけですが、現地探索や聞き取り調査を含め、1年6ヶ月でここまでまとめられました会員の皆様に改めて敬意を表します。
    なお、勉強会の様子を写真撮影したのですが、私の不手際でデータを消失してしまい、写真が掲載できないことをお詫び申し上げます。

      (report:k.k)

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    芹沢の来迎寺で百万遍数珠繰り念仏 2018/10/10(水) (晴)

    浄土宗 芹澤山来迎寺

    平成30年10月10日

    茅ヶ崎市芹沢の来迎寺で百万遍の大数珠を回しながら念仏をとなえる行事が行われました。
    来迎寺は山号を芹澤山といい、茅ヶ崎市芹沢3291にある浄土宗のお寺です。
    芹沢の丘陵地の西の端にあって、西を向いて建てられています。
    『新編相模国風土記稿』には、
    本尊 阿弥陀、開山然誉善芳 永禄七年(1564)二月二十六日卒
    とありますから、450年ほど昔に創設されたお寺です。

    来迎寺から数百メートル離れたところに光照山普門寺というお堂が、平成28年8月まで建っていました。
    『風土記稿』には来迎寺の寮なりと記されています。
    普門寺のことを土地の人たちは下馬落觀音堂(げばらくかんのんどう)と呼んでいました。

    今は無い観音堂(平成28年8月撮影)

    観音堂の跡地(平成30年10月撮影)

    ご本尊の木造観音菩薩立像はたいへん霊験あらたかで秘仏とされていて、このお堂の前を馬に乗ったまま通りかかると、その無礼によって落馬すると伝えられていたからです。
    秘仏ですから33年経たないと拝めませんでした。またその半分の16年目には中開帳が行われてきました。
    このお堂は地元の念仏講の人たちによって維持されてきましたが、世の移ろいとともに講中のメンバーが少なくなり、お堂も老朽化が進んだことから、平成28年9月に取り壊されました。中に祭られてきた本尊の観音様とその御前立の観音様、その他六観音のお像などは来迎寺に移されてお祭りされることになったのです。

    観音堂で行われた最後の百万遍念仏

    同年8月には観音堂で最後の百万遍数珠繰り念仏が行われました。
    次の年、29年10月10日には、来迎寺に遷座して初めての百万遍念仏が行われました。
    そして今年10月10日にも来迎寺で2回目の百万遍が行われたのです。
    10月10日という日が下馬落觀音様のお祭り日だからです。

    来迎寺に移ってからは、希望する人はこの百万遍念仏に参加することができるようになりました。
    始めにご住職の開式があり、次に大数珠を回しました。最後に老僧による法話がありました。

    開式の挨拶

    ご住職の法話

    厨子の前は御前立の観音様。ご本尊は厨子の中。

    ご本尊の次のお開帳は2023年だそうです。

    観音堂には元和3年(1627)から平成18年(2006)までの22枚の棟札が残されていて、これも来迎寺に移されています。
    この中の最も古い年号銘の元和3年(1617)の棟札に、この年にお堂が再興されたと書かれています。
    また、2番目に古い慶安4年(1651)銘の棟札には天文九年(1540)兵火にて失す 本尊は清水谷に安置なり しかるに元和三巳年、今の寺地へ再建とあります。このとおりだったとすると、冒頭に記しましたように来迎寺の開山然誉善芳の卒年は永禄7年(1564)と『風土記稿』にありましたから、観音堂の創建は来迎寺より古いことになってしまいます。

    photo & report 芹澤七十郎

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