相模のもののふたち (3)三浦一族と衣笠城(横須賀市)


三浦一族は鎌倉幕府の成立に大きな働きをなし、三浦半島を本拠地に、幕府開設後も頼朝の有力御家人の一人として活躍しました。
三浦氏の系図は、桓武天皇に発し数代をおいて為通(ためみち)(初代)―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と考えられてきました。村岡の為通が前九年の合戦に参陣し、源頼義から三浦郡内の一角を領地とすることを許されて初代となったという説です。しかし最近、為通以前は三浦氏の神話の時代で、後三年合戦に名を表す為継(ためつぐ)から明確であるという考えがとなえられています。(高橋英樹『三浦一族の中世』)。
三浦氏の直系は衣笠城を居館とし、一族は三浦半島の各地を領しましたが、相模国西部にも勢力を伸ばし、義明の弟義実は岡崎(平塚市)に居を構えました。
義村は、同族の和田義盛が二代執権北条義時と勢力を争うとき北条方について、建保元年(1213)に義盛一族の滅亡を招きました。義村の子泰村は宝治元年(1247)、五代執権時頼と安達連合軍の攻撃を受けて自滅し三浦宗家は滅亡しました。宗家滅亡後は、佐原(横須賀市)に居を構えた佐原氏が継ぎました。戦国時代になって、三浦氏に連なる三浦道寸義同(どうすんよしあつ)、義意(よしおき)は北条早雲の攻撃を受けて、小網代の新井城に籠もって滅亡しました。
三浦半島の各地に残る三浦氏一族の遺跡の中には、三浦氏が関係して創設されたと考えられる寺院もあり、鎌倉時代に制作された仏像が伝えられています。
このコーナーではそのような三浦氏の遺跡と文化財を紹介します。
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3-01
衣笠城址(横須賀市指定史跡)(横須賀市衣笠町29)
横須賀市のほぼ中央部の丘陵の中に衣笠城址はある。三浦氏の祖とされる村岡為道(ためみち)が、前九年の役の功によって源頼義からこの地を与えられて三浦を名のり、その後為継(ためつぐ)(次)、義継(よしつぐ)(次)、義明(よしあき)の四代が三浦半島を経営した際の居館だった。(最近は為道を疑う説もある)。
1180(治承4)年、頼朝の旗挙げに呼応した際、ここに平家側の大軍を迎え、時の城主三浦義明は落城とともに討ち死にした。この合戦は「衣笠合戦」と言われている。
その後、鎌倉幕府が開かれてから再び三浦氏の居館となったが、三浦泰村が北条時頼との戦いに敗れて一族と最後を迎えた1247(宝治元)年に廃城となった。

3-02
城跡にある物見岩
城跡の最も高いところにあって、地面から頭を出した巨岩。衣笠合戦の折に、城主義明がこの岩に登って戦の指揮をとったという伝説がある。この巨岩は磐座(いわくら)の趣を漂わせている。

3-03
物見岩のすぐそばにある、出土遺物の碑
「大正八年十二月、陶器二個、銅筒一個、鏡一面、刀剣数口がここから発掘された。古色蒼然としていて衣笠城時代のものであることは疑われず、翌年二月に宮内省に献じた」と書いてある。
なお、これらの出土物のスケッチが、城跡の近くにある満昌寺の御霊神社社殿(宝物館を兼ねる)内に、軸装されて展示してある。撮影禁止。

3-04
衣笠城追手口あと
「追手口」は「おうてぐち」とも読み、大手口(城の正面入口)のこと。衣笠城の追手口あとが、高速道路の横浜横須賀道路と三浦縦貫道路が交差する衣笠インター入口の近くにある。コンクリートで固められた崖の縁の歩道は、進むにつれてゆるやかな坂道となり、城跡の一角にある曹洞宗大善寺に通じている。

3-05
衣笠城追手口跡の碑
巨大なコンクリートの崖の下、歩道の脇に小さな碑がある。知らなければ見落としてしまうような大きさだが、この碑があることによって、ここが城の追手口(大手口)だったことが分かる。碑には「衣笠城追手口遺址」と彫ってあった。

3-06
大善寺の不動井戸 (大善寺 横須賀市衣笠町29-1)
追手口あとから坂道を登っていくと、曹洞宗の金峯山不動院大善寺がある。説明板によると「僧行基が金峯蔵王権現と自作の不動明王を祭り、その別当寺としてこの寺を建てた」とある。衣笠城はこの寺の裏山一帯に展開していた。
寺の入口に「不動井戸」という池があって石造の不動明王が祭ってあった。「お祓いをするときに水がなくて困った行基菩薩が杖で岩を打つと清水がわき出した。衣笠城の生活用水だった」。不動明王は「三浦氏の祖、三浦為継が後三年の役に出陣したとき、敵の矢を防いでくれたので〈矢取不動〉と呼ばれる。今は寺の本尊となっている」と説明板に書いてあった。

3-07
大善寺の文化財 阿弥陀三尊像(横須賀市指定重要文化財)
境内の説明板に次の様に書いてあった。
「大善寺の本尊は不動明王となっているが、それは明治時代以降のことで、以前はこの阿弥陀三尊座像が本尊として祭られていた。像は平安時代末期(12世紀)の特色を示している。三尊像の様式は、死者の霊を浄土へ迎える来迎様式である。阿弥陀信仰は12世紀から一般化するが、この三尊像は三浦半島で最古の遺存例である。指定年月日は昭和60年4月25日」
おそらく三浦一族が、往生祈願のために祭っていた阿弥陀三尊だったのだろう。写真は説明板の写真を複写したもの。

3-08
大善寺の文化財 毘沙門天像(横須賀市指定重要文化財)
説明板に次のように書いてあった。
「製作年代は平安時代末から鎌倉時代初期と推定される。右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下を向く姿は、岩手県の中尊寺金色堂内の増長天立像とよく似ている。頼朝は1189(文治5)年の奥州合戦の折に中尊寺諸院に驚嘆し、それらを模して鎌倉に永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣しており、頼朝同様、平泉仏教文化に影響を受けたことが本像制作のきっかけになったのだろう。平泉の中尊寺金堂様式の仏像は東北・北関東に分布するが、本像はその南限に当たる。」
写真は説明板の写真を複写したもの。

3-09
大善寺門前の庚申塔群
神奈川県は庚申塔の密集地で、茅ヶ崎市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることである。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。
大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来ないが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。
向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れない。

3-10
義明山満昌寺(臨済宗) (横須賀市大矢部一丁目5-10)
山号を「義明山(ぎめいさん)」ということから三浦義明にゆかりの寺だと分かる。境内にある説明板には「頼朝の意思に基づいて三浦義明の追善のために建久五(1194)年に創建された」とある。ちなみに義明は、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの時、衣笠城に平家の大軍を迎えて城とともに討ち死にした。
また説明板には「創建時の宗派は分からないが、鎌倉時代末期に仏乗禅師 天岸慧広(てんがんえこう)が入寺し、臨済宗に改め、建長寺末寺とした。天岸慧広を中興開山とする」とある。

3-11
木像 三浦義明座像(国指定重要文化財)
三浦義明が有名なのはなぜかというと、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの際、平家の大軍が押し寄せると分かっているにもかかわらず、自分の城 衣笠城に留まり、息子の義澄などを逃がし、自分は高齢だからこの城と運命をともにするとガンバッて、落城する中で命を落としたその心意気に引かれるからである。そのとき義明は89歳。
義明の木像は、境内にある御霊神社(義明の霊を祭る。宝物館を兼ねる)内に祭られている。撮影禁止。写真は説明板にあった画像を複写したもの。
境内の説明板には「制作の時期は鎌倉時代後期と推定されている。等身大の像で、没後神格化された武人の像として重要」とあった。

3-12
伝 三浦義明の廟所(横須賀市指定史跡)
義明の木像を納める御霊神社の背後にあり、瓦塀で囲まれた中を廟所(墓)と伝えている。
寺内にある説明板「義明山 満昌寺の由来」に、「廟所は奥の院と称し三浦大介義明の首塚という」とある。
『吾妻鏡』建久5年(1194)9月29日条に「(頼朝は)三浦矢部郷内に一堂を建立すべき由の思し召しを立てらる。故介義明の没後を訪れらるため也。今日、中業(なかなり)(中原仲業 頼朝の右筆)に仰せてその地を巡検すと云々」とある。この「一堂」が満昌寺であるとは書かれていないが、前記した説明板には「当寺は、建久五年九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善のため創建されたと伝えられる。」とある。
また、鎌倉市材木座の来迎寺にも義明の墓と伝える五輪塔がある。

3-13
伝 三浦義明の廟所近景
中央に宝篋印塔、その向かって右側に、石灯籠に隠れているが五輪塔、左側に板碑が立っている。
石灯籠については、寺内の説明板に「廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したもの」とある。現地では良くは見てこなかったのだが、後に写真で見ると、その竿石正面に「享和三年四月□日」とあった。写真は「享」が明確ではないのだが、享和三年は1718年である。

3-14
義明を供養する宝篋印塔
義明の供養塔と伝えられている。下方から、基壇・基礎・塔身・笠は一具で安山岩でできている。鎌倉時代後期から南北朝時代のものと思われる。その上の九輪(くりん)は請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)とも後補か別の混入らしい。塔身の種子(しゅじ)は金剛界四仏の、阿閦如来(あしゅくにょらい)をあらわすウーン。
もとより三浦大介義明没年ころのものではない。

3-15
義明の妻を供養する五輪塔
廟所を正面から見ると、石燈籠に隠れて見えないが、説明板によると、義明の妻のものと伝えられるとある。写真で見ると地輪(ちりん)(方形)と水輪(すいりん)(球形)は一石(いっせき)のようである。火輪(かりん)(笠状のもの)は混入かも知れない。時代は分からない。その上の空風輪(くうふうりん)は室町時代末期のもので、混入したものである。

3-16
観音種子(かんのんしゅじ)の板碑
緑泥片岩(りょくでいへんがん)製の堂々とした板碑である。上部に彫ってある種子は観音菩薩をあらわす「サ」。その下の二行に渡る文字は
具一切功徳慈眼視衆生
(一切の功徳を具し慈眼をもって衆生を視(み)たもう)
福聚海無量是故応頂礼
(福聚の海は無量なり是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし)
素人なりに意訳すれば、
「観音様は大きな功徳と優しさをもって私たちに接してくださっています。観音様の救いが余すところなく及んでいる事への感謝を忘れてはいけません」。法華経の観世音菩薩普門品第二十五(観音経)の一節。
しかし、この板碑の製作年代も由来も判断がつかない。

3-17
満昌寺の文化財 木像天岸慧広(てんがんえこう)の座像(横須賀市指定重要文化財)
古い歴史を有する満昌寺にはすぐれた文化財がある。天岸慧広の木像もその一つで、寺の説明板「満昌寺の由来」に、「鎌倉時代末期に満昌寺に入り、宗旨を臨済宗に改め、中興開山」と記されている。
また別の、この像の説明板には「鎌倉円覚寺の第一座、鎌倉報国寺の開山で、建武二年(1335)に没した。像は玉眼、寄木造り像高76㎝。顔面部の個性的な風貌を写実的にとらえており、没後まもないころに制作されたものだろう。」とあった。拝観はしていない。

3-18
満昌寺の文化財 木像宝冠釈迦如来座像 (横須賀市指定重要文化財)
満昌寺の本尊。
説明板に「玉眼寄木造り。像高36.6㎝。高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただく。着衣はひだが太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北朝時代(14世紀後半)の作品」とあった。
このほか、御霊神社社殿(宝物館)内に、石造双式板碑(元応二年(1320)庚申二月日在銘)の板碑がある。また幕末―明治期作成で、雲龍・松虎・山水の絵柄のふすま絵(16面)と、神奈川県内では大変珍しい磨崖仏が、ともに横須賀市の重要文化財に指定されているが、この2件は拝観はしていない。

3-19
満昌寺山門前の庚申塔群
満昌寺の門前にもたくさんの庚申塔がある。大谷石の基壇の上に整然と並べられている様子を見ると、方々から集めたもののように思える。
三浦半島の庚申塔の、青面金剛のある塔を子細に眺めていると、三猿の所作、金剛に踏まれている邪気の苦しそうな顔つき、金剛の持物(じもつ‒持っている物)の違いなどにおもしろさをおぼえる。石工たちの遊び心を感じるのである。

3-20
近殿神社 (横須賀市大矢部一丁目9-3)
「ちかたじんじゃ」と読むようだ。境内の説明板には次のように書いてあった。
「祭神 三浦義村公
三浦義村は、三浦氏代々の頭領、三浦為道―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討ち死にしたと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。」
説明板は為道を三浦氏の祖とする説に立っている。三浦氏は、義村の子、泰村の時に5代執権時頼によって滅ぼされた。それにしても何故、義村が祭神になっているのだろうか。

3-21
清雲寺 (横須賀市大矢部五丁目9-20)
境内の説明板に次のようにあった。
「伝 三浦為継とその一党の廟所(昭和48年 横須賀市指定史跡)
清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏二代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(1939)に円通寺(廃寺=大矢部二丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。」
なお、「石造板碑 文永八年(1271)在銘」および「三浦九十三騎墓」と伝えられる石塔群も同時に移されたそうである。
諸般の事情で、茅ヶ崎郷土会の史跡巡り当日はこの廟所を見ることができなかった。
古い五輪塔や宝篋印塔を歴史上の人物の墓と称することは多くの場所で行われている。しかし実は、古代・中世の墓がどのような形態であったかはよく分かっていない。史跡の名称に「伝」を付す所以である。
文永8年銘板碑も重要文化財に指定されている。この板碑は、造立者銘と造立趣旨を刻するそうだから、特に貴重なものと思われる。

3-22
清雲寺の文化財 毘沙門天立像(神奈川県指定重要文化財)
境内の説明板に次のようにあった。
「この毘沙門天は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保元年(1213)の和田合戦の折、和田義盛のために敵の矢を受け止めたと言われ、〈矢請の毘沙門天〉と呼ばれている。像高70.7㎝の寄木造り、彩色玉眼入り。鎌倉中期以前の優作の一体である。」
清雲寺には国指定重要文化財の木像観音菩薩座像もある。当日は拝観しなかったが説明板には次のようにあった。
中国、南宋時代、江南地方で作成されたもの。京都泉涌寺の観音座像と同一。この地にもたらされたのは三浦氏が領主であった時代で、一族が滅亡した宝治元年(1247)以前。13世紀から鎌倉周辺に宋彫刻の影響を受けた仏像があるが、時代的背景を同じくするものと考えられる。」

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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相模のもののふたち (8)土屋宗遠(平塚市)


土屋三郎宗遠は、相模のもののふの中では比較的に地味な存在のように思われます。
頼朝の旗挙げは、治承4年(1180)8月17日に伊豆国の目代、山木兼隆を襲撃することで幕を開けました。そして20日、頼朝は伊豆と相模国の御家人を率いて、伊豆を出て相模国の土肥の郷を目指します。『吾妻鏡』はこのときの一行46人の名前を列挙していますが、その中に土屋三郎宗遠の名前があります。
また、石橋山の合戦で破れた頼朝が房州に落ちる物語の、謡曲「七騎落」の中にもその名がありますが、謡曲の中では目立った働きはしていません。
平塚市土屋は緑の濃い丘陵の中に位置し、ここに土屋一族の墓所と、屋敷跡と伝える一角があります。また、この地にある真言宗芳盛寺と天台宗大乗院は、宗遠との関わりを伝えています。
土屋に住む方々は、宗遠をしのび、毎年墓前祭を続けています。私たち、茅ヶ崎郷土会の有志数人でこの墓前祭を訪れたところ、鎌倉時代のもののふ同士の付き合いを再現したかのように、墓前祭に、岡崎や真田をはじめ、各地から大勢の人たちが集まっておられ、私たちは驚いたものでした。
このコーナーでは土屋に残る宗遠の遺跡を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

8-01
土屋宗遠(むねとお)の木像(平塚市土屋)
今年、平成29年5月8日、平塚市土屋で相模のもののふの一人、土屋一族の墓前祭が行われると聞いて、茅ヶ崎郷土会の有志数人と出かけた。
場所は神奈川大学の近くだった。まず土屋一族のものと伝えられる墓所で墓前祭が行われ、次に天台宗大乗院に移って供養の法要が行われた。
本堂には写真の土屋三郎宗遠の木像が祭ってあった。いつもは、土屋にある天台宗正蔵院に蔵しているそうである。
一族の墓地に立つ平塚市教育委員会の説明板「土屋の舘跡と土屋一族の墓」に、土屋宗遠について記してあった。
「平安時代後期、中村荘司宗平(なかむらのしょうじむねひら)の三男宗遠は相州土屋の地の領主として舘(やかた)を構えた。土屋宗遠は治承四年(1180)源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府成立に貢献し、その子義清も「随兵役」を勤めるなど、頼朝の厚い信頼を受けた。以来、土屋氏は室町時代の応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで土屋の地を支配した。」
なお、宗平の嫡男は重平(しげひら)、次男は土肥実平(さねひら)、三男が土屋三郎宗遠、四男は二宮友平(ともひら)である。

8-02
土屋の郷を望む
土屋は平塚市の中で最も西に位置し、南は大磯町と二宮町、西は中井町に接している。全体が丘陵地で緑が豊かである。
北側に金目川が流れている。写真は、金目川のほとりから土屋を眺めたものである。
中村宗平が率いた中村荘(なかむらのしょう)は、現在の、中井町中村から小田原市中村原にかけて展開していたと考えられているので、土屋は近いのである。

8-03
土屋一族の墓所(平塚市土屋1167ー44)
二宮町、中井町から続く丘陵が、半島のように北東方向に伸びる先端近くの東側傾斜地の一角に、一族の墓所と伝える所がある。傾斜はかなり急で、下りきった低地を、金目川の支流の座禅川が北に向かって流れている。
墓所は、斜面を段々畑状に、横に長く切り開いて設けられている。鎌倉時代と思われるものもあるが、室町時代の五輪塔や宝篋印塔の残欠が崖にそって並んでいる。
墓地に、「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板があって、
「三郎宗遠は中村宗平の三男として大治三年(1128)、相模国大住郡中村に生まれた。(略)鎌倉幕府樹立に貢献した。幾多の功績を残し、阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建し、又大乗院を再建するなど善行に励み、建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。

8-04
土屋いろはかるた 「土屋一族の墓」
墓地にある平塚市教育委員会の説明板に、「ふるさと土屋いろはかるた」の、五輪塔と墓前祭と土屋氏の舘跡(やかたあと)の三枚の読み札と絵札が印刷してあった。
絵はどれも、子どもたちが描いたものと思われる。
まず、五輪塔かるた。
読み札は「つ」で始まる。 土屋氏の 一族ねむる 五輪塔
絵札の絵は、たくさん並んでいる石塔の中央の比較的大型の五輪塔を描いてある。

8-05
土屋一族の墓前祭
墓前祭を指導されるのは大乗院のご住職。地元で宗遠公を顕彰している会の方々と岡崎、真田、中井など、鎌倉時代の中村党に関係する各地の方々が参加されていた。
中村宗平の子どもたちは各地に散って土着した。また三浦一族から出て岡崎に定着した義実(よしざね)は中村の娘を妻としている。このような関係が、今の時代まで引き継がれているのである。驚いた。

8-06
土屋いろはかるた 「墓前祭」

「く」 供養する 五月八日の墓前祭

8-07
熱心に祈る 茅ヶ崎郷土会の会員
おそらく、土屋三郎宗遠公をしのび、土屋の発展と、我が茅ヶ崎市の進展と、茅ヶ崎郷土会の邁進と、世界の平和と、自らとご一族の安泰と健康を祈っておられたものと思う。

8-08
土屋いろはかるた 「土屋宗遠の館跡」

「も」 武士(もののふ)が 住みし土屋の 館跡(やかたあと)
『新編相模国風土記稿』大住郡糟屋庄土屋村(雄山閣版3巻70頁から)の項に「土屋三郎宗遠居跡 宗憲寺境内なりという、その辺(あたり)の字(あざ)に、下屋敷、屋敷内などの唱えあるのみ、遺形と覚(おぼ)しき所なし」とある。宗憲寺は神仏分離の折に廃寺になっている。
風土記稿にいう宗憲寺はその位置が分からないが、現在は一族の墓所のすぐ下を屋敷跡と伝えている。『平塚と相模の城館』(29頁 平塚市博物館刊)をみても、発掘調査は行われていないようである。
墓所があり、館跡(やかたあと)といわれる一角は、小字(こあざ)を「大庭」と書く。『平塚市郷土誌事典』(91頁)はこれを「おおにわ」と読んでおり、「宗憲寺という寺院があったともいわれている」とする。館(やかた)の庭が地名となって残ったということも考えられるが、発掘調査が待たれるところである。

8-09
土屋いろはかるた 「高神山」

「お」 丘の上 土屋城址の 高神山(こうじんやま)
小字(こあざ)の「大庭」に隣接して「高神山」という小字がある。大庭より一段高くなった平場である。「高神山」は「高陣山とも書くようである。「ふるさと土屋いろはかるた実行委員会」が立てた「土屋城址と高神山(高陣山)」の説明板には
「土屋一族は、鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館(やかた)の裏山一帯を要害として、土屋城(陣地)を築いていたということから、この一帯を高陣山といいます。」とある。
昔は尾根状の地形だったらしいが『平塚と相模の城館』(平塚市博物館)に「尾根は土取り工事によって消滅しており、かつての景観を知る由もない」(29頁)とある。

8-10
天台宗 大乗院 (平塚市土屋200)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項(雄山閣版3巻72頁)には「星光山弘宣寺と号す。天台宗。古碑一基、土屋彌三郎宗遠(ママ)が墓碑と言い伝う」とある。
環境庁と神奈川県連名の説明板には次のように記してあった。
「天台宗延暦寺派の名刹。土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝える。往時は多くの末寺をもつ大寺だったが、建物は第二次大戦(昭和20年)のとき焼失した。再建後の本堂には、瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れて安置されている。相模新西国二十九番観音霊場。」

8-11 土屋いろはかるた
「大乗院」

「れ」 歴史ある 土屋の古刹 大乗院

8-12
大乗院の本堂で土屋一族の供養
墓前祭が終わると、本堂に場所を移して供養の法事が行われた。
法事が終わると懇親会となった。茅ヶ崎から参加した私たち一行も末席に連なった。土屋で宗遠公を顕彰しておられる方々や、各地で、その地のもののふをそれぞれ顕彰しておられる方と話をすることができた。土屋一族の墓前祭は、以前は8月5日に行っていたとのことだった。そう言えば、墓地にあった「宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板には、「建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。かつてタバコの収穫で忙しい時に、5月8日に変えたのだそうだ。5と8を入れ替えて日を定めたのだろうか。
またこの席上で、平塚市真田の「与一顕彰会」の方から、与一公墓前祭が8月23日にあることを聞いたことが、真田にも足を伸ばすきっかけとなったのである。

8-13
宗遠詠む歌と言われているが、実は源実朝の歌

道とほし 腰はふたへにかがまりて 杖にすがりてここまでも来る
歌人であった実朝の歌を集めた『金槐和歌集』にある歌。
「相州の土屋という所に九十歳になるくち法師(朽ち法師)があり、自ら鎌倉まで来て自分と昔語りなどする中に、もう身の立ち居も思うようにならなくなったといい、泣く泣く帰ったときに詠んだ歌」
という前書きのもとに並ぶ五首の歌の中の一首である。
この歌碑が一族の墓所にある。
土屋宗遠が亡くなったという建保6年8月5日の記事は『吾妻鏡』にはない。しかし、90歳まで生きていたというのは本当のことだったようだ。
宗遠に関係する寺社としては、現在も土屋にある芳盛寺を挙げない訳にはいかない。風土記稿は芳盛寺について「土屋山無量寿院と号す、古義真言宗…(略)開基 土屋彌三郎宗遠(ママ) 建保元年(1213)八月五日卒、年九十、法名 阿弥陀寺殿空阿」と記している。宗遠の卒年月日の出典はこれだろうか。
また、『平塚市郷土誌事典』に「宗遠の法名により阿弥陀寺と称したが、大森芳盛の庇護を受け芳盛寺と改めた」とある。

8-14
一族の墓地で、調査と記録に励む茅ヶ崎郷土会の会員
写真は実朝の歌碑の裏面である。歌が作られたいきさつが彫ってある。その内容は前記した。
下調べすること、現地を訪ねること、歩き回ること、汗水を垂らすこと、写すこと、撮すこと、そして書くこと、残すこと。
これは茅ヶ崎郷土会の鉄則である。

8-15
土屋の鎮守 熊野神社 (平塚市土屋227)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項に「村の鎮守なり、神体木像、例祭九月二十九日、神木の杉、回り一丈二尺(3㍍60㌢)、別当持宝院…」とあるが、土屋一族との関係はなにも書かれていない。
この熊野神社は、社殿を飾る彫刻がすばらしい。向拝(ごはい)の水引虹梁(みずひきこうりょう)の上には龍が乗り、菟毛通(うのけとおし)は翼を広げた飛龍、向拝柱(ごはいばしら)などの木鼻(きばな)も龍である。また、屋根の四隅は二重の扇垂木(おうぎたるき)で、これも珍しい。向拝の龍の裏側を子細に眺めたが作者銘は見つけられなかった。一見の価値は十分にある建物である。

8-16
土屋いろはかるた 「熊野神社」

「な」 名高きは 小熊(こおま)に鎮座の お熊さん
「小熊」は「こおま」と読み、熊野神社や大乗院のある地の小字(こあざ)の名である。
このかるたをもって、土屋三郎宗遠ゆかりの土屋の紹介を終わろう。

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (7)岡崎義実・真田与一義忠(平塚市)

横浜市栄区上郷町にある高野山真言宗 證菩提寺(しょうぼだいじ)は、石橋山の戦いの折に戦死した佐奈田 義忠(佐那田・真田とも)の霊を供養するために頼朝が創建したと伝えられています。このことから、この記事の最後に證菩提寺を追加しました。(平成30年7月6日 編集子)


茅ヶ崎郷土会は、平塚市岡崎に岡崎義実の遺跡を訪ね、同真田に真田与一義忠の面影を捜しました。真田義忠は岡崎義実の長男です。岡崎と真田間の距離は近く、義実は実子義忠にすぐ隣の地を支配させたことになります。
もともとこの辺りは相模国の穀倉地帯だったと考えられています。義実が三浦を出て、岡崎の地に居館を構えたのは、この豊穣の地を手中に納めるためだったようです。
しかし岡崎と真田は、その南側にある金目川を挟んで土屋の丘陵地と向かい合っています。その土屋の西側一帯は中村一族が拠点としており、中村宗家の当主、中村宗平(むねひら)は子どもの宗遠(むねとお)を土屋に配置しています。つまり、中村一党が力を及ぼしている地に、三浦から別の勢力が伸びてきたという構図になり、普通には、ここに争いが起こると考えられるところでしょう。しかし、義実、義忠と中村一党との間は穏やかな関係をなし、お互いに姻戚関係も生じています。
真田与一義忠は、石橋山の合戦で初陣を務め、若くして命を落とした話がよく知られています。石橋山古戦場は今は小田原市内ですが、その墓と言われる塚があり、またその霊が祀られています。
一方、平塚市真田にも与一義忠の霊を祀る真誠殿与一堂があり、毎年、与一の慰霊祭が行われています。両方とも、与一は声を発することが出来ずに命を落としたという話を伝え、また平塚真田には、与一の郎党(=家来)で、やはり石橋山で討ち死にした文三家安の子孫と称する家も続いています。
小田原では「佐奈田」と書き、平塚では「真田」と書くようです。このコーナーでは、義実、与一義忠の事跡を、石橋山の合戦も含めて紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

7-01
岡崎義実の像 (岡崎公民館 平塚市岡崎3634)
平安時代末、相模国には各地に武士団が割拠していた。その中で、岡崎義実を語るに際し触れなければならないのは中村党と三浦一族である。中村党は、相模国西部に勢力を張り、中村宗平(むねひら)の家系を宗家とした。三浦一族は、衣笠城に拠って三浦半島に勢力を張り三浦為継(ためつぐ)の家系を宗家とした。
三浦の家系は為継、義継、義明と続き、義明は頼朝の旗挙げのときに城と共に討ち死にしたことはよく知られている。その義明の弟に四郎義実があった。義実は大住郡岡崎(現平塚市・伊勢原市)に移り岡崎氏の祖となった。中村宗平の女を妻として、中村党各氏とも親密な関係を保ち、頼朝挙兵に参加し、御家人として鎌倉幕府を支えた人物である。真田与一義忠(平塚にくると「真田」と書く)と中村党の土屋氏の婿となった土屋次郎義清はその子どもたちである。
義実の岡崎城跡の一角にある市立岡崎公民館の玄関前に、その像が立っている。公民館の北側の小高い丘陵には平安時代末期(12世紀)の城跡遺跡があり、岡崎義実の居館であったろうとされている。(平塚市博物館平成24年刊 図録『平塚と相模の城館』24頁)

7-02
岡崎神社 (平塚市岡崎3650)
岡崎公民館の北側の丘陵上に岡崎神社がある。神奈川県神社庁のホームページで見ると、岡崎神社は、主祭神を大山咋命(おおやまくいのみこと)としている。
『新編相模国風土記稿』(雄山閣版3巻28頁から)には上・下入山瀬村(いりやませむら)の項に「往古はこの辺を岡崎郷ととなえ、岡崎義実この地に住し…」とある。そして、岡崎郷とは先の2村と馬渡(まわたり)、大句(おおく)、西海地(さいかち)、矢崎(やさき)、大畑(おおはた)の7ヶ村をいうとある。現在の岡崎神社はこれら江戸時代の村のどこにあったものかを考えてみた。
風土記稿、西海地村の山王社の説明に「岡崎郷七村の総鎮守なり」とある。山王社は大山咋神を祭神とするから、現在の岡崎神社と同じである。岡崎神社は、江戸時代の西海地村にあった岡崎郷の総鎮守の山王社ではなかったろうか。さらに風土記稿はこの山王社について、「岡崎四郎義実当社を尊信して霊験を得たり、明応三年(1494)三浦義同(よしあつ)(道寸)造営を加えし由、縁起に見えたり」とも記している。

7-03
岡崎神社から見た富士
岡崎地区の文化財めぐりの下見で岡崎城跡を訪ねたのは今年の1月だった。よく晴れた日だったが、終日冷たい北風が吹いていた。おかげで西の方角には雪を被った富士山がきれいだった。
岡崎城に住んだ岡崎四郎義実も同じ富士を眺めたことだろう。約800年昔のことだが。
このとき私は、四郎義実になったような気がした。

 

7-04
岡崎義実の墓 (平塚市岡崎)
平塚市と伊勢原市が接する地の平塚市分にある。平塚市観光協会の説明板には「天永三年(1112)、三浦庄司義継の四男として三浦に生まれた。正治二年(1200)六月二十一日、八十九歳で鎌倉の由比ヶ浜の自宅で亡くなった。ここにある墓は、長男義忠(真田〈佐奈田〉与一)の乳母吾嬬(あずま)を埋葬した場所へ後から葬ったと伝えられている」とあった。
義実の事跡で触れておきたいのは『吾妻鏡』、1181年(養和元)7月5日の記事。知られているように、石橋山の合戦の折、義実の子、与一義忠の首を取ったのは俣野景久の郎党、長尾新五為宗と新六定景である。合戦が終わって捕らえられた新六定景は義実に預けられていた。この間、定景は熱心な法華経の信者となっていた。その読誦の声を聞いて義実の定景に対する怨念はなくなり、もし定景を誅すれば冥土の義忠に障るといい、頼朝にその許しを請うたところ定景は自由の身になったというものである。

7-05
後期岡崎城 ―三浦道寸義同(よしあつ)の城跡 無量寺―
平塚市と伊勢原市が隣接し、北は小田急小田原線、東は小田原厚木道路、南は鈴川で囲まれた台地上には、平安時代末~鎌倉期と、室町時代末期~戦国時代初期(15~16世紀)にそれぞれ城があった。両方とも地名は岡崎といい、両方の城跡とも岡崎城跡といわれていてまぎらわしいが、二つの城跡の時代はまったく違うのである。
平安・鎌倉時代の城跡は平塚市分に入り、地名はふじみ野、赤坂、宮東で、その間に市立岡崎小学校がある辺りと推定されている。
15~16世紀の城は、平塚市岡崎と伊勢原市岡崎にまたがっており、平安・鎌倉時代の城跡の北側に広がっている。
先に紹介したように前者は岡崎四郎義実の居館跡とされ、時代がそれより下った15~16世紀の後者は、宝治合戦(1247年)で北条氏に滅ぼされた三浦氏の系統を引く三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の居館だったとされている。
平塚市と伊勢原市の境目の伊勢原市分にある浄土宗帰命山無量寺には「岡崎城跡」と掲げてある。これは道寸義同の城を指すものである。

7-06
帰命山無量寺 (伊勢原市岡崎5410)
帰命山無量寺は浄土宗の寺院である。
境内の伊勢原市教育委員会が立てた説明板に次のように記してあった。
「後期(室町時代末~戦国時代)の岡崎城は、明応3年(1494)に三浦道寸〈義同(よしあつ)〉が義父三浦時高を滅ぼし、子息義意(よしおき)を三浦の新井城へおき、自らは相模岡崎の城に手を加え居城としたものです。
そのころ、関東進出をはかっていた伊勢宗瑞(北条早雲)は、小田原城を奪い相模平定を狙いましたが、堅固な岡崎城にはばまれ、実に17年間にわたりにらみ合いが続きました。(略)しかし、永正9年(1512)8月、伊勢宗瑞の猛攻により、岡崎城はついに攻め落とされました。」

7-07
三浦道寸義同が毎日眺めた大山の山容
三浦道寸義同の城跡からは北西の方向に大山がよく見える。
岡崎城が落ちた後、義同は本拠地の三浦の住吉城に移ってなおも抵抗するが、最後は子、義意(よしおき)の新井城に落ち、籠城3年ののち、1516(永正13)年の落城と共に自刃したと伝えられている。
道寸義同が大山を眺めるとき、その胸あったのは、戦国期の野望だったろうか、転変する世の不安だったろうか。

 

7-08
真田与一義忠の木像
平塚市岡崎の西南の方向に真田という地名がある。『新編相模国風土記稿』糟谷庄真田村(雄山閣版3巻86頁から)には「往昔、岡崎四郎義實の嫡子、与一義忠、この地に居城し、この地の名をもって氏とす」とある。相模の穀倉地帯である当地を、新たに開発しようという三浦一族の計画をもって移り住んだのが岡崎義実である。義実は隣接する真田の地を与一忠義にまかせる一方、地元の武士団である中村党との間に融和的な関係を結んでいった。
前記したように風土記稿は、真田の地を与一義忠の居城としているが、平塚市博物館の『平塚と相模の城館』(平成23年刊)は「今のところ真田義忠に関係する時期の遺構は確認されていない。」(49頁)としている。
写真の与一義忠の木像は、真田の曹洞宗天徳寺に祭られている。

7-09
天徳寺 (平塚市真田一丁目14-1)
『新編相模国風土記稿』真田村の項(雄山閣版3巻86頁)に次の様にある。
「萬種山と号す、曹洞宗、本尊は如意輪観音。義忠の霊を真田明神と祀り、義忠の木像を置く(甲冑像、長さ二尺)。位牌などに義忠が郎党二人の法名を記す。一つは智勝院保得鉄心、治承四庚子八月二十三日、陶山文三事、今に子孫あり。一つは義勝院一夢是迄、治承四八月二十三日、腰巻文六とあり」
「真田与一義忠墓碑、高さ二尺(略)真田與一義忠之墓と彫れり」
先に見た与一の木像は甲冑を着していたので、風土記稿にある與一義忠の像のことと思われる。
この寺の周囲は与一義忠の城跡といわれているが、『平塚と相模の城館』には、天徳寺の周囲にある明確な堀跡は15~16世紀の遺構で伊勢宗瑞(=早雲)のころのものとある。(48頁から)

7-10
真誠殿で与一公大祭
『新編相模国風土記稿』真田村の天徳寺の項に「義忠の霊を真田明神としてまつる」とあった。今、天徳寺の境内には真誠殿(あるいは与一堂)という建物があって与一の霊を祭っている。真田明神は真誠殿の前身と思われる。「与一の郷づくり協議会(与一の会)」が出しているパンフレット『真田の郷』には「真誠殿には墓石と位牌と甲冑姿の義忠の木像が安置され、毎年1月23日と8月23日が大祭である」と書いてある。今年の8月23日に、茅ヶ崎郷土会会員有志はこの祭礼を訪ねた。
祭礼は、夕方から始められた。まず平塚謡曲連合会によって謡曲「真田」が奏され、法要(墓前祭)、「竹灯籠」まつり、「与一神輿」の渡御と行われた。

7-11
与一大祭の与一義忠と文三家安と文六
謡が奏されている間、義忠、文三、文六の三人が甲冑姿で控えていた。
風土記稿には、天徳寺に真田明神があって、与一義忠の像と陶山文三、腰巻文六の位牌があると書いてあった。その位牌には郎党二人の命日があって、8月23日になっていた。『源平盛衰記』『吾妻鏡』などでは文三家安はこの日、石橋山で与一と運命を共にしているが、腰巻文六の名はない。文六の登場は何に基づくものだろうか。

7-12
与一神輿
大祭の場に夕闇が迫ってから与一神輿が登場した。提灯をふんだんに飾った新形式の神輿だった。
パンフレット『真田の郷』には「与一の800年祭を記念して作られた。宵闇の雨の中で死んでいった与一、せめて神輿は明るく照らしてやろうと、提灯を取り付けた万灯神輿。関東一を誇る〈与一甚句〉を歌いながら担ぐ」とある。
神輿の四面には真田与一公、陶山文三公、腰巻文六公の三人の肖像と、与一 俣野五郎景久組み合いの図があった。

7-13
神輿にある与一義忠公の図
与一は石橋山で命を落としたとき25歳だった。
『源平盛衰記』には、戦いを始める前、頼朝が「武蔵、相模に聞ゆる者どもは皆在(あ)りと覚ゆ、中にも大場(ママ)、俣野兄弟、先陣と見えたり。これ等(ら)に誰をか組すべき」といったとある。敵の大将、大庭景親と俣野景久兄弟に先陣切って組み付くものはいないかと聞いたのである。すると岡崎四郎義実が、我が子与一義忠の名をだしたと記してある。
神輿にある絵は、若々しい与一義忠の様子を表している。

7-14
神輿にある陶山文三公の図
文三家安は、真田では「陶山文三家安」といわれている。風土記稿の天徳寺の項の陶山文三を紹介した中に「今に子孫あり」とあった。これは江戸時代のことだが、今も真田には陶山姓を名のる家があって、文三家安の子孫と伝えている。

 

7-15
神輿にある腰巻文六公の図
腰巻文六の名には「六」がつき、文三家安の名には「三」がつく。二人は兄弟とされているのではないだろうか。相模風土記稿の天徳寺の項に「城跡の北に腰巻という字(あざ)(地名)あり」ともある。しかし、腰巻文六は架空の人物のように思えるのである。

 

7-16
神輿にある与一・景久組み討ちの図
組んずほぐれつして、ついに上になった与一が、景久の首を掻かんと刀を取って鞘から抜こうとするが、血糊のために抜けない。このために若い命を落とすことになってしまった。

 

7-17
真田神社 (平塚市真田一丁目4-36)
境内に立つ説明板に、「主祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)、別名 牛頭天王宮(ごずてんのうぐう) 八坂神社、創建年代は不明」とあり、さらに次のような説明が続いている。
「真田与一義忠の郎党 陶山(すやま)文三の子孫が京都の八坂社を勧請したという。この陶山家は代々牛頭天王社の神主を天保十三年まで勤めており これらの所蔵文書を今も保存されております。神仏習合により天徳寺が神社を管理しておりましたが明治元年の神仏分離令により明治五年より 三宮比々多神社が神主を務めております。」
また説明板には、最後の時に声が出なかった与一は、ホオズキの根を煎じて喘息(ぜんそく)を治そうとしていたので、神社の祭礼にはホオヅキ市が立ったとか、高さ5㍍の花崗岩製の鳥居は、「文久癸亥(3年=1863)六月」の年銘と、「石工 大阪炭屋町見かげや(ママ)新三郎」の刻字があり、大阪から船で浦賀、須賀と運び、村送りで届いたものだとも書いてあった。

8-證菩提寺 (横浜市栄区上郷町1864)

2018年7月6日追記
鈴木克洋さんから、コメント欄(下記)にご意見を頂きました。
編集子も2013年8月に證菩提寺を訪ねており、数枚の写真も撮影しておりました。
岡崎義実・真田与一義忠の記事をこのホームページ中に作っているときは、そのことをまったく忘失しておりました。鈴木さんからのコメントをいただき、ハッと気がつきましたので、ここに画像を加えて證菩提寺について追記しておきます。なお、真田与一義忠の表記は、それぞれ参考にした文献の書き方に依りました。

證菩提寺でいただいたパンフレットには、寺の創建について二説が紹介されています。
その一つは、文治5年(1189)という説。
この説は、今は無くなっているが文保2年(1318)に作られたという梵鐘の銘によるというもので、『新編相模風土記稿』(巻之百 鎌倉郡之三十二 證菩提寺の項 雄山閣版は5巻96頁)にその鐘銘が引用してあります。
「文治五年剞劂終功、素律八月供養整儀…」

もう一つは、寺に残る古文書、天文11年(1542)の勧進状によるもので、文治5年に開基し、建物は建久8年(1197)にできたという説です。
この勧進状の文面も『風土記稿』(鐘銘と同頁)に載っています。
「寺則文治五年之開基也、当初右大将頼朝治承四年楯籠于石橋山(佐那田与一義忠の戦死の記述―省略―)…、君感其忠功為被菩提、造阿弥陀三尊建此伽藍、號証菩提寺、建久八年遂供養…」
石橋山の戦いで戦死した与一の忠功に感じてその菩提を弔うために、源頼朝は阿弥陀三尊の伽藍を建て、證菩提寺と号した。それは文治5年に開基し、8年後の建久8年に建物が完成したと読めます。

この二番目の説は、『吾妻鏡』の次の条と共通しています。

建長2年(1250)4月16日の条 證菩提寺の住持が訴えている同寺の修理について、速やかに進めるようにとなった。この寺は右大将家(頼朝)の時に、佐那田余一義忠の菩提を弔うため、建久8年に建立した後、雨露のために損傷していたが、まだ修理ができていなかったという。(『現代語訳吾妻鏡』13巻30頁)

證菩提寺では後者を重要視しておられます。

『吾妻鏡』に證菩提寺が出ている所を調べてみましたところ次のようにありました。
建保3年(1215)5月12日の条 将軍家(源実朝)が證菩提寺に参られた。これは内々のことという。 『現代語訳吾妻鏡』8巻 17頁 吉川弘文館
建保4年(1216)8月24日の条 相州(北條義時)が(実朝の)命により證菩提寺で故佐奈田余一義忠の追善を行われたという。(同書34頁)

岡崎義実の墓と称する五輪塔。最近の作。

 

 

 

 

 

 

 

 

覆い屋に入った五輪塔のそばに室町期の五輪塔・宝篋印塔が散在する。

 

 

 

 

 

 

 

横浜市教育委員会の説明板に、『風土記稿』所載の図がある。

 

 

 

 

 

 

 

また、『風土記稿』には次のようなことも書いてあります。
「寺の後ろの山の上に、大日堂があって岡崎堂とも呼び、弘法大師の作という大師像を祭っている。与一の父、岡崎四郎義実は正治2年(1200)6月21日が命日で、法名を證菩提寺という。命日には法華経の転読が行われている。この大日堂(岡崎堂)は四郎義実の造建であろう。
境内に義実の墳墓があるが詳しいことは分からない。その辺りに五輪塔などが散在している。」

そして、『風土記稿』には義実の墓と伝える図が掲げられており、その図が説明板に転載されているのです。

与一やその父四郎義実の霊を弔うためにこの寺を建てたのなら、平塚市の真田や岡崎に建てるのが筋だと思うのですが、なぜこの地だったのかということについて、パンフレットには次のように書いてありました。
ここが鎌倉の東北―鬼門にあたるからであって、頼朝は当寺を鎌倉の守りとしたのだった

このパンフレットは、重要文化財指定の阿弥陀三尊坐像、寺の本尊で県指定重文指定の阿弥陀如来坐像などのことや、源平盛衰記にある余一義忠戦死の場面、寺の歴史も書いてあって大変参考になるものです。
左の画像は、證菩提寺で発行しているパンフレットです。

 

 

 

 

                                                                               

 

 

〈report & report 平野会員〉
           
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相模のもののふたち (6)土肥実平と石橋山の合戦(湯河原町・小田原市)

相模国の各地に勢力を張っている豪族たちは、平安時代末からさらなる勢力拡大を図って、息子たちを本拠地以外の地におもむかせます。三浦義明は本貫の地を義澄に継がせ、四郎義実を岡崎におきます。また、相模西部に勢力を張っていた豪族の中村宗平(むねひら)は次郎実平を土肥郷に、三郎宗遠を土屋におき、中村党をなしました。このような豪族たちは、頼朝の旗挙げに参加し、御家人となって鎌倉幕府を支えました。
土肥実平は、頼朝の旗挙げのとき、景親に破れて敗走する頼朝のそばを離れず、勝手知ったる土肥郷の山中を案内し逃げ回りました。
『吾妻鏡』、治承4年(1180)8月24日の条は、頼朝が石橋山の合戦で破れ、山中を逃げる様子を詳細に記しています。景親が三千騎を率いて襲いかかる中、付き従う者たちは次第に数を減らし、北条親子をはじめ一党はちりじりになります。そこに突然6人の味方の武士があらわれ、頼朝の元に駆けつけたいと言ったところ、北条時政は「早くそうしろ」と命じます。そして彼らが嶮岨(けんそ)をよじ登って頼朝のそばに着いたとき頼朝は喜びますが、土肥実平が言ったことは「おのおの無事で参上したことは喜ぶべしといえども、これだけの人数を頼朝が率い給わば、この山にお隠しすることは出来ないだろう」と。しかし、それでも同行したいと6人は主張し、頼朝も許しそうだったため、実平はさらに言葉を継ぎます。「今、分かれて逃げることは後のためには大きな幸いとなろう。生き延びて、さらに考えをめぐらせば、ここで破れたことの恥をいずれ晴らすこともできよう」と。
このコーナーでは、土肥実平ゆかりの湯河原町の史跡などや、石橋山合戦の場を紹介します。
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6-01
実平夫婦の銅像(湯河原町 湯河原駅前)
湯河原駅前に立つ土肥次郎実平夫婦の銅像。像の由来書きには「頼朝旗挙げ800年と土肥会創設50周年を記念して、実平公とその夫人の遺徳を伝えんがため建立した」とある。
甲冑に身を固めた実平の横に控えるのは実平夫人だが、夫人が両手で持つ包みは何か分かりますか?
その答えは弁当。大庭景親に破れた頼朝は、この地を知り尽くした実平の手引きで杉山の山中を逃げ惑う。『源平盛衰記』には、もはや最後と覚悟した頼朝主従が、山中で「小道の地蔵堂」にたどり着き、そこの上人法師に助けられる場面がある。地蔵堂に潜む彼らに実平の女房が、花かごに見せて食い物を運ぶ。「心さかしき土肥次郎が女房は、あじか(容器のこと)に御料(食糧)をかまえ入れ、上にシキミ(植物)を覆い、桶に水を入れて、上人法師の花摘む由にもてなして、忍々に(ひそかに)送りけり」
それにしても銅像ではあるが土肥次郎の女房の、なんと美人であることか。

 

6-02
城願寺とビャクシン (湯河原町城堀252)
曹洞宗、萬年山城願寺は湯河原駅の近くにある。寺のホームページの文章を、途中を省略しながら引用すると、
「約八百数十年前、この地(相模土肥郷)の豪族土肥次郎實平が、萬年の世までも家運が栄えるように“萬年山”と号して持仏堂を整えたことからその歴史は始まる。その後衰退していたが、南北朝時代に土肥氏の末裔の土肥兵衛入道が再興。もと密教寺院だったものを臨済宗に改めた。やがて土肥氏が失脚し、小田原大森氏の時代になると再び衰退するが、戦国時代に大州梵守〈1525:大永5年卒〉が再興、曹洞宗に改宗し現在に至る。」
参道の石段を登り切ったところにビャクシンが聳えている。国の天然記念物であり、神奈川の名木100選に選ばれている。説明板には「樹高20㍍、胸高周囲6㍍、土肥実平手植えと伝え樹齢推定800年」とある。

6-03
城願寺の土肥一族の墓所 (神奈川県指定史跡)
檀家墓地の奥に土肥一族の墓所と伝えられ、五輪塔、宝篋印塔、層塔などを集めた一角がある。湯河原町と「土肥会」が連名で立てた説明板に次のように記してある。
「五輪塔はどれも銘がなく建立年や施主など不明。中央が実平、向かって左は実平の妻、同右は遠平(長男)、そのさらに右は遠平の妻と伝える。
幕府成立後、実平は広島県三原市の沼田荘に遠平と移住し亡くなった。三原市米山寺にも墓があるが、山形県鶴岡市井岡、静岡県静岡市安養寺、小田原市谷津鳳巣院などにもある。」
また、町教育委員会の説明板には、これらの石塔の中に「嘉元二年(1304)七月銘の五層の層塔、永和元年(1375)六月銘の宝篋印塔がある」と書いてあった。

6-04
土肥祭 武者パレード①
湯河原町では毎年4月第一日曜日に「土肥祭」が行われている。祭りの中心は武者行列で、土肥実平などの武者が所々で名乗りを上げる。今年、土肥祭を訪れ、その様子を撮影してきた。
土肥氏は、相模国西部で平安時代末期から勢力を張った中村党に属した。淘綾郡(ゆるぎぐん)中村荘(現小田原市・中井町)に拠った武士に中村宗平(むねひら)がおり、その子実平(さねひら)は土肥郷で土肥氏を、宗遠(むねとお)は土屋郷(平塚市)で土屋氏を、友平(ともひら)は二宮氏をなした。宗平の女は、三浦一族で岡崎(平塚市)に勢力を張った岡崎義実の妻となった。
また、湯河原町には「土肥会」という団体があって、土肥実平公の事跡を顕彰し後世に伝えるとともに土肥祭の武者行列を全面的に支えている。(土肥会のホームページから)
写真は甲冑武者たちが名乗りを上げているところである。

6-05
土肥祭 武者パレード②
パレードの中で、騎馬武者が二人いた。どちらかが実平で、もう一方は頼朝だろうか。あるいは、実平、遠平の親子だろうか。扮しているのは町長さんと町議会の議長さんではなかろうか。

 

6-06
石橋山古戦場 (小田原市)
1180年(治承4)6月、平清盛は幼い安徳天皇を伴い福原に遷都した。その福原へ9月2日、相模国の大庭三郎景親から早馬をもって報告が届いた。『平家物語』(巻5早馬)に、
「去ぬる八月十七日、伊豆の流人頼朝、舅(しゅうと)北条四郎時政を使わして伊豆の目代兼隆を山木の館(たち)に夜討ちす。その後土肥(次郎実平)、土屋(三郎宗遠)、岡崎(義実)をはじめ伊豆、相模のつわもの三百余騎、頼朝にかたらわて相模国石橋山にたて籠もって候ところに、景親三千余騎を引率(いんぞつ)して押し寄せ攻め候うほどに、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=頼朝)七、八騎に討ちなされ、土肥の杉山に逃げこもり候いぬ。」
写真の向かって右側の斜面の奥が石橋山の古戦場。今はみかん畑が点々とする。

「遠くからみかん畑にときのこえ」 “フーテンの熊”詠む

 

 

6-07
古戦場の碑
みかん畑の一角に「石橋山古戦場」の碑があって「源頼朝挙兵之地」と彫ってあった。『吾妻鏡』8月23日の条に、前日は「夜にいりて甚雨(じんう)いるがごとし」とある。
「今日寅の刻(午前4時ころ)、武衞(頼朝)、北条殿父子、盛長、茂光、実平(土肥)以下三百騎を相率して石橋山に陣したまう。この間、件(くだん)の令旨(りょうじ)(以仁王の令旨)をもって御旗の横上に付けらる。
ここに同国の住人大庭三郎景親、俣野五郎景久…平家被官の輩(やから)三千余騎、精兵を率して同じく石橋山の辺にあり。両陣の間、一谷(ひとたに)を隔つるなり。また伊東祐親(すけちか)法師、三百余騎を率して、武衞の陣の後の山に宿してこれを襲いたてまつらんと欲す。」
頼朝の元に駆けつけた三浦の衆は増水した酒匂川に阻まれた。それを見た景親は、
「すでに黄昏(たそがれ)に臨むといえども合戦を遂ぐべし。明日を期(ご)せば三浦の衆馳せ加わりて定めて喪敗しがたからんか。群議終わりて数千の強兵武衞の陣を襲い攻む。」

6-08
城願寺の七騎堂 (湯河原町)
城願寺の境内に「七騎堂」と呼ぶ六角形の建物がある。説明板には、
「謡曲“七騎落(しちきおち)”は鎌倉武士の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。石橋山で破れ逃げる頼朝主従八騎は、船で房総に向かうことになった。頼朝は、八騎は不吉として、七騎にせよと土肥実平に命じた。我が子遠平を犠牲にして下船させたが、遠平は和田義盛に救われ、歓喜のあまり宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。七騎堂には七騎の木像が納められている。」
ちなみに七騎とは、謡曲の中では田代信綱、新開荒次郎、土屋三郎宗遠、土佐坊昌俊、土肥次郎実平、岡崎四郎義実と頼朝である。

6-09
佐奈田与一と俣野五郎の一騎打ち (小田原市石橋山)
石橋山合戦の山場は、頼朝の敗走と佐奈田与一義忠の最後を語る場面である。『源平盛衰記』は与一落命時を「弓手(ゆんで)は海 妻手(めて)は山、暗さは暗し雨はいにいで降る、道は狭し」と書く。景親の平家軍と対峙した頼朝から「今日の軍(いくさ)、先陣つかまつれ」といわれて、与一義忠は、景親かその弟俣野五郎景久を倒そうと思って捜す折、暗い中で組みついてきた岡部弥次郎を討つ。その後、狙うところの五郎景久と出会う。両者馬から落ち、組み合ったまま上になり下になり転び回る。ようやく景久を組み伏せて、その首を掻かんと郎党の文三家安を呼ぶが、文三は遠くにいて声が届かない。そこに景久の家来長尾新五が来て「どちらが敵か味方か」と問う。ばれるのを恐れた与一は信吾を蹴飛ばし、その隙に景久を突こうとするが、岡部を討ったときの血糊が災いして刀が鞘から抜けない。そして長尾新五と新六兄弟のために首をとられる。文三家安も敵方の稲毛三郎の郎党に倒される。
写真の浮世絵は平塚市真田の天徳寺境内に立つ説明板の複写。鞘から抜けない刀を持つ与一を描いている。

6-10
ねじり畑 (小田原市石橋山)
みかん畑に立つ標柱に「佐奈田与一義忠 討死(うちじに)の地」とある。この畑はどういう訳か「ねじり畑」と呼ばれている。何でもない、横に細長い段々畑で、みかんが植えてあって、訪れたときはまだ若い実がたくさんついていた。
与一を祭神とする佐奈田霊社の説明板に「ねじり畑は与一が組み討ちしたところと伝えられ、この畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる」とある。上になり下になって組み討ちしたことの連想から「ねじり畑」といわれるようになったのだろうか。『新編相模国風土記稿』早川庄石橋村の項(雄山閣版2巻143頁)には「ねじが畑 義忠、景久を組み伏せしところという」とある。

6-11
佐奈田霊社の与一塚 (小田原市石橋420)
石橋山古戦場はかなり広い範囲を指すものと思われる。古戦場の碑の近くに佐奈田霊社があり、境内に「与一塚」がある。「石橋山古戦場と佐奈田霊社」という説明板には「与一討ち死にの地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた」とある。
『吾妻鏡』によると、1190年(建久元)1月15日、頼朝は伊豆山權現(現熱海市の伊豆山神社)と箱根權現(箱根神社)を参拝する二所詣(にしょもうで)に出立した。そして鎌倉に帰着した20日の記事の中に次のようにある。
「路次石橋山において、佐奈田與一、豊三(ママ)らが墳墓を見、御落涙数行に及ぶ。件(くだん)の両人、治承合戦(石橋山の合戦)の時御敵のために命を奪われおわんぬ。今、さらにその哀傷を思(おぼ)しめし出さるるが故なり。」
今の与一塚が、頼朝が詣った与一の墓だったのだろうか。

6-12
佐奈田霊社の全景
写真の佐奈田霊社の建物はどう見ても寺院の作りである。小田原版タウンニュースのホームページに「佐奈田霊社は寶壽寺が管理している」とあった。宝寿寺は石橋の集落の中にあり、佐奈田霊社は古戦場の近くにある。宝寿寺は『新編相模国風土記稿』足柄下郡石橋村の項(雄山閣版2巻142頁)に「石王山地蔵院、古義真言宗、天正15年建、本尊不動、寺宝に與一義忠の肖像一軸あり」とあった。そして、風土記稿には宝寿寺の記事の次に
「佐奈田與一義忠墳」の記事が「熱海道の側より石段四十二段を登り、丘上に老椙樹あり。丘は圍(まわり)一丈八尺、高さ六丈。是を與一塚と呼ぶ。樹前に碑あり。長さ六尺、幅二尺。佐奈田與一義忠墓 治承四庚子八月二十三夜、と題す。こは稲葉美濃守正則の臣、田辺権大夫信吉建つるところ也。碑上に覆屋を設く」
とある。要するに、江戸時代には宝寿寺が石橋山山中の与一塚を管理していて、塚の上の覆い屋がその後、佐奈田霊社になったのだろう。

6-13
佐奈田霊社の効能書き
『源平盛衰記』に、与一は組み討ちの時、大声で文三家安を呼んだのだが、郎党たちは遠くにいて来ることができなかったとある。しかし、今に伝わる話では、のどに痰がからんで呼ぶことが出来ずに敵に命を奪われたという。
痰がからんで不幸がもたらされたというのに、お詣りすれば「ぜんそく・せき・のど」の病気に効くというのは逆なことのようにも思えるが、社前にはその効能が書いてあった。

6-14
江戸消防の奉納額
境内には江戸消防が奉納した石碑がたくさん立っており、また社殿には奉納額が掛かっていた。江戸消防組は鳶職の人たちから構成されていて、催し事のときに木遣りを歌うので、いい声がでるようにと願をかけるのだといわれている。

 

6-15
文三堂入口
主人の与一が討たれたところに、敵方稲毛三郎重成が文三家安の前に出て言うようには「己(おのれ)が主の与一は討たれぬ、今は誰がおまえを使おうぞ、逃げよ、助けん」と。しかし文三家安は「幼少より組んで戦うことは習えども、逃げ隠れすることは知らず。逃げよと宣(の)たまわらんより、組んで戦え」と叫んで敵方に突入し、8人を討ち取ったのちに討ち死にした。『源平盛衰記』の一節である。
その文三家安を祭る文三堂も石橋山古戦場の中にある。

6-16
文三堂
文三堂はささやかな建物だった。820年前、頼朝が詣でて涙を流したというのはここのことだろうか。

 

 

6-17
目印を刻んだ石
小田原から真鶴にかけて良質の石材が取れる。箱根火山の溶岩が固まった安山岩だそうである。最上のものを小松石といい、江戸城を建設するときも大量に運ばれた。
石橋山の古戦場を歩いているとき、道ばたに転がる大きな石に模様のようなものが刻んであった。所有者を表す印だと思う。運ぼうとしたが何らかの理由で置いておかれたものではなかろうか。

 

photo & report 平野会員

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