相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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相模のもののふたち (4)和田義盛(三浦市・横須賀市)


頼朝存命のころから、粛清されて命を失うもののふは多かったのですが、頼朝が建久10年(=正治元年 1199)1月に亡くなってからも止むことはありませんでした。頼朝没後すぐに梶原景時が滅せられました。
同年10月27日、鎌倉幕府の有力な御家人の一人、結城朝光は、景時の讒訴(ざんそ)によって窮地に立たされたと、朋友の三浦義村に訴えました。この訴えを聞いた義村は、「およそ文治(1185年から)このかた、景時の讒訴によって命を失い、職を失った輩はあげて数うべからず。世のため君のため、景時を退治せずんばあるべからず」と、和田義盛と安達盛長を呼んで相談をかけました。呼ばれた両人は、「それなら連署状を草して訴えるべし」と、時をおかず書状をつくって、66人の同意を得、大江広元を介して将軍頼家に提出の手はずをとりました。しかし逡巡した広元がすぐに渡さなかったため、義盛は御所で広元と同席した折に、「かの状をきっと頼家に披露するのか、ご気色いかん」と詰め寄ります。「義盛、眼を怒(いか)らして…」と『吾妻鏡』にあります。
この一件の結果、梶原一族は命を落とすのですが、三浦義村と和田義盛は同族です。また、この二人に同意して、鶴岡の廻廊に群集し連署状に署名した66人の中には、北条一族の時政と義時の名はありません。筋書きを作り、朝光、義村、義盛を動かして景時を亡き者にした誰かが事件の裏にいたのではないかという説があるのもおかしくはないと思われます。
人の話に乗り、武力一辺倒で押し進む義盛の性格が見えるようです。しかし、このような人物であったからか、今も人気は高いようです。三浦半島には義盛に関する伝説が多く伝わっています。このコーナーでは、そのようなことも含めて義盛の遺跡を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます〉

4-01 和田義盛旧里碑(三浦市初声(はっせ)町和田)
人によって違うだろうが、三浦一族の中ですぐに思い浮かぶのは三浦宗家の義明とその孫、和田義盛である。義明の長男で鎌倉の杉本に居館を構えた義宗の子が義盛、義宗の弟義澄の子が義村、いとこ同士の義盛と義村は後に悲劇の対決をなす。
義盛は現在の初声(はっせ)町和田を領し和田姓を名のった。武勇に優れていたが直情径行の性ありと言われている。頼朝のもとで侍所(さむらいどころ)別当(=長官)に任ぜられ、頼朝亡き後は頼家、実朝に仕えた。次第に北条氏と対立し1213年(建保元)に一族は滅ぼされた。この戦の折、義村は義盛を無視したのである。
和田の八雲神社の境内に「和田義盛旧里碑」が立っており、三浦市が建てた説明板に次のようにあった。
「一族が滅んだとき義盛67歳、この碑は義盛の在所と思われるこの地にその武勇をたたえて大正10年に建立された。」

4-02 和田の郷 八雲神社(三浦市初声町和田)
三浦一族の旧跡を回る下見の日は終日雨が降っていた。神社の説明板「天王様(八雲神社)由来の記」には次のように記してあった。
「祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)(行疫開運の神)
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)といい和田の郷の鎮守。本宮は貞享四年(1687)、藤原朝臣 大井甚五左衛門の勧請と伝えられる。」

4-03 神明白旗神社(三浦市初声町和田1746)
急な石段を登った小高いところにあって、和田の郷を広く見下ろすことができる。境内の説明板に次のようにあった。
「祭神 天照大神 和田義盛
神明社が白旗神社に合祀され、「神明白旗神社」と呼ぶ。和田義盛一族が鎌倉の和田塚に自刃した後、弘長三(1263)年、和田の郷民が社殿を設け白旗神社として祭ってきた。白旗の名は平家討伐に大勝した義盛が、紅白の幟を立て八幡社に報告したことによる。また戦勝の舞「初声」を舞ったことから初声町の名が付いた。『新編相模風土記稿』に、ご神体は義盛の銅像、本地仏は和田党九十三騎の守護仏だが、八体しかないとある。」

4-04 神明白旗神社の庚申塔群
先に横須賀市衣笠町の大善寺と上矢部の満昌寺の山門前にある庚申塔群を見てきたが、ここ神明白旗神社にもたくさんの庚申塔があった。
神社に登る石段の下にあり、ここを訪ねた日は春の陽がさんさんと降り注ぐ気持ちのいい日だった。庚申塔群の前の若草に腰を下ろし、食べた弁当はほんとうに美味しかった。こういうとき、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりに参加して良かったなぁーと思う。

4-05 浄楽寺入口(横須賀市芦名二丁目30-5)
金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺が正式名称。浄土宗、鎌倉光明寺末。
今まで見てきた和田の郷は三浦市の北端に位置するが、市境を北に越えると横須賀市長井になる。国道134号に沿ってさらに北に進み太田和を過ぎると芦名で浄楽寺がある。この辺りは電車が無くて、私たちは逗子駅前から延々とバスに乗った。
参道の奥に見える瓦屋根が浄楽寺の本堂。浄楽寺発行のパンフレットに次のように記してあった。
「『新編相模国風土記稿』にこの寺はもともと和田義盛が建立した阿弥陀堂であったが、その後、光明寺の二世寂恵が寺に入り中興したとある。寂恵は鎌倉後期の僧侶で、芦名に浄楽寺を開いたことは光明寺資料でもあきらか。」
見学の申込みをせずに訪問したのだが、来意を告げたところ、「本堂に上がってお詣りしても良いですよ」とありがたいお言葉をいただいた。そこで一同は、ご本尊様に世界の平和と自らの往生を祈った。

4-06 浄楽寺の扁額 「勝長寿院」
浄楽寺の本堂の扁額は「勝長寿院」と書いてあって、また浄楽寺の院号は「勝長寿院」である。扁額は古くはなさそうだから、院号を文字にしたのかも知れないが、勝長寿院と言えば、源頼朝が父 義朝の菩提を弔うために鎌倉の大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)(現・神奈川県鎌倉市雪ノ下)に建てた寺院の名として有名である。頼朝建立の寺と、浄楽寺の院号が同じなのは偶然なのだろうか。
境内に立つ「横須賀風物百選」の「浄楽寺阿弥陀三尊像」の説明板に、
「寺伝によれば、文治元年(1185)に源頼朝が、父義朝の霊を弔うため、鎌倉の大御堂ヶ谷に勝長寿院を建てたが、建永元年(1206)にその寺が大風で破損したため、北条政子と和田義盛が、そこの本尊をここに移したと伝えています。」
とある。
しかし、この寺伝は伝説であるらしい。それにしても規模の大きな伝説であることか。なぜこのような話が伝わっているのか、たいへん興味を覚えるのである。

4-07 薬師如来と不動尊のお開帳の案内札
浄楽寺には、運慶の作と断定されている木造薬師三尊像と木造不動明王立像、木造毘沙門天立像の五体の仏像がある。三浦薬師如来第十五番の薬師と、三浦不動尊第二十番の不動尊も一緒に、本堂裏手の小高いところにある収蔵庫に祭られていて、毎年4月から5月にかけて御開帳が行われている。
写真の立て札はその期間中に境内に立てられていた案内板である。三浦薬師と三浦不動尊のお開帳に併せて収蔵庫が公開されるが、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりとは日取りが合わなかった。運慶作の五体の仏像を是非とも拝観したいと、後日独自に訪れた。

4-08 運慶作の仏像を納める収蔵庫
運慶作の阿弥陀三尊像と不動明王像、毘沙門天像はもちろん国指定の重要文化財である。国指定の文化財は、どこでも木造の本堂などから移されて、不燃構造の特別収蔵庫内に納められている。収蔵庫内は撮影が禁じられていた。その画像は「おおくすエコミュージアムの会」が発行している『三浦一族と和田義盛』という印刷物に掲載されている。
今年9月26日から東京国立博物館で、運慶が手がけた作品を一同に集めた特別展が開かれる。その記事が9月19日の朝日新聞に大きく取り上げられていて、浄楽寺の五体の像もカラーで印刷してあった。
運慶仏については、浄楽寺のパンフレットに次のようにあった。
「昭和三十四年に毘沙門天の胎内から「文治五年(1189)己酉三月廿日庚戌/大願主平義盛芳緑小野氏/大仏師興福寺相応院勾当運慶小仏師十人」(「芳緑小野氏」は義盛の妻)とある銘札が見つかり、造立は義盛の発願と判明した。静岡県伊豆の国市の北条時政ゆかりの願成就院にも運慶作の阿弥陀如来、不動・二童子、毘沙門天像があるが、浄楽寺の運慶仏は義盛の、時政への対抗心からの発願とも解される。」

4-09 浄楽寺境内にある無縁塔
お寺を回っていると、絶家などで祀り手を失った墓塔や供養塔を集めた無縁塚にしばしば出会う。
浄楽寺にもそれがあって、てっぺんに江戸時代の宝篋印塔、その下にぐるりと地蔵や観音菩薩、如来の像塔、その下に江戸初期の供養塔、最下段に江戸後半期以降の比較的新しい墓石がピラミッドのように積んであった。
祀り手を失ったとは言え無縁塚は宝の山である。墓塔、供養塔の形態変化は死者供養信仰の時代変化を表すものであり、また江戸初期の年銘を持つそれらは村の開発者を知る手がかりになるからである。この無縁塚の中にも寛文年銘の古い供養塔がいくつかあった。

4-10 浄楽寺と前島密(まえじまひそか)
国道に面した参道入口に、青銅製で変わった形でありながら実用されている郵便ポストがあり、その上に前島密の胸像が設置されていた。また、本堂裏手の小高い所にある寺の墓地には前島の墓がある。
4-06で紹介した「横須賀風物百選」の説明板に「収蔵庫前を進んだところに、わが国近代郵便制度の創始者前島密翁の墓があります。翁は、晩年をこの浄楽寺境内で送りましたが、大正八年四月二十七日、八十五歳でその生涯を閉じました。」と記してあった。浄楽寺のホームページに「明治四十四年、密は浄楽寺の境内の一部を借り受け別邸を設け隠居した。」とあるが、どういう理由で浄楽寺境内に住むようになったのかについては触れられていない。

4-11 浄楽寺前の朝市
茅ヶ崎郷土会が浄楽寺を訪れたのは平成29年3月25日の土曜日だった。浄楽寺の参道入口の脇に広場があって朝市が開かれていた。浄楽寺の拝観のあと、次の見学地に向かうバスを待つ間、朝市をのぞいた。地元産の野菜や、産地は不明だが丸ごと姿のままの魚類が並んでいた。自家製たくあん漬けや野菜を買う会員があったが、たくさん入った夏みかんを一袋購入して、一日重い思いをした人もあった。
茅ヶ崎郷土会の史跡文化財巡りは実に楽しい。

4-12 薬王寺跡(横須賀市指定史跡) (横須賀市大矢部1-13)
衣笠城に近い横須賀市大矢部にも和田義盛の遺跡がある。薬王寺跡は通りから細道をしばらく入ったところで見つけにくい。細道の突き当たりに義盛の叔父の三浦義澄の墓といわれる石塔があり、横須賀市教育委員会の説明板があった。
「薬王寺は仏頂山と号し、建暦二年(1212)、和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うために創建したものと伝えられるが、明治九年頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。」
この説明板の文章は理解しにくい。薬王寺は義盛の創建になるが、「もとの本堂跡」から、何時の頃かここに移ってきて、明治9年に廃寺となったと読むのだろうか。義盛創建という説が何に基づくのかの説明はないが、各地にある義盛伝説の一つではなかろうか。各地に伝説を生むほど義盛は人気者なのだ。特に三浦半島では。

4-13 伝 三浦義澄供養塔(薬王寺跡) (横須賀市指定史跡)
瓦塀に囲まれた一角の中央に大ぶりの凝灰岩製の方形石が積んである。三浦荒次郎義澄の墓と伝えられている。説明板に「最下石の四方には胎蔵界(たいぞうかい)の種子(しゅじ)が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿(うが)たれている」とある。
一番下の石は独立しているが、その上にある二重に重なった石は一石のように見える。その上に置かれているのは混入した宝篋印塔である。三段に積まれた石は、三浦半島に多い凝灰岩製の五輪塔の一部のようにも見えるが、元の形を推測しがたい不思議な石塔である。
なお、この一角を瓦塀で囲んだしつらえは、満昌寺境内の、伝 三浦義明廟所のしつらえと同じである。ここ薬王寺跡も満昌寺の管理下にあるのだろう。

4-14 薬王寺跡にある小型の五輪塔・宝篋印塔
三浦義澄の墓と伝えられる石塔の両脇にたくさん置かれている。このような石塔は茅ヶ崎市内にも各所にある。室町時代の後半期のものと考えられるので、もとより和田義盛、三浦義澄の時代のものではない。
説明板には「これらの石塔群は当地出土の元応二年(1320)年銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である」とあった。
先に紹介した満昌寺の宝物館(御霊神社社殿を兼ねる)に、2基の板碑が展示されている。満昌寺の説明板には「石造双式板碑 元応二年庚申二月日在銘 一方は弥陀三尊種子、他方は釈迦三尊種子、形も年銘も同じで、薬王寺旧跡のやぐらにあったもの」と記されていた。

4-15 天養院 (初声町和田1669)
三浦市が寺の境内に建てた説明板に次のようにあった。
「本尊の薬師像は義盛の身代わり薬師といわれていて、和田合戦の折、総身に負傷した義盛が痛さを思わず、一同は不思議な思いをした。そのとき、この薬師像が顔から胸に傷を負い、血潮が流れたという。寺には建暦三年(1213)銘の義盛の位牌と言われるものがあって「筌竜院殿前左衛門尉義盛安楽大居士」の銘がある。
平安時代中期、11世紀ころの作と推定。『風土記稿』には、義盛が舘の鬼門守護に建てたと伝える安楽寺の本尊とある。安楽寺が廃寺になって天養院に移された。」
この薬師三尊は神奈川県指定重要文化財になっている。


4-16 新井城址から望む油壺の入り江 (三浦市三崎町小網代)
新井城があった地は、江戸時代の地名を荒井といい、相模湾に突き出た小さな半島である。北は網代湾、南は油壺の入り江で、三方を海で囲まれており、城を築くには最適の地だったといわれている。
この半島の中の、南寄りの所に新井城はあった。今はやぶの中である。城跡の近くから見下ろすとすぐ下に油壺の入り江が見える。たくさんのボートなどが係留してあった。この地に建ててある説明板には次のように書かれていた。
「新井城を最後の居城として立てこもった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦したがついに永正13年(1516)に破れた。一族の将三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、将兵も討ち死にまたは油壺湾に投身した。そのために湾内が血汐で染まり、油を流したようになったことから油壺の名が付けられた。」

4-17 三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の供養塔へ (同所)
三浦義同は出家して道寸と名のった戦国時代の武将である。茅ヶ崎郷土会の平成28年度史跡めぐりは鎌倉時代のもののふをテーマにしたから、義同(よしあつ)は時代が違うが、三浦半島を根城にした鎌倉時代の名族、三浦一族の最後の当主ゆかりの地を訪ねることにした。
宝治合戦(1247年)に敗れた三浦氏のあとは同族の佐原氏が継ぐ。それから250年ほどたって世は戦国時代の初期。義同は扇谷上杉氏から新井城主の三浦時高の養子に入るが、養父たちとの間に問題を生み、結局三浦氏を乗っ取り、自らは岡崎城(平塚市)に拠り、新井城には子の義意(よしおき)を置いて小田原の北条早雲と敵対した。1512(永正9)年、早雲に追われ岡崎城を捨てて新井城に入る。籠城の末、1516(永正13)年に滅亡した。
写真の細道の突き当たりの石塔が道寸義同の墓といわれ、
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ
は辞世の句とされている。

photo & report 平野会員


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