おも井戸(おもよ井戸)調査隊 海老名市大谷北の井戸を訪ねる 18/1/11(木) 快晴

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茅ケ崎市に下赤羽根と上赤羽根があります。寒川町にも下大曲と上大曲があります。しかし茅ヶ崎の下寺尾は、それに対応する上寺尾が近くには見あたりません。「どうしてなのだろうか」と疑問を持ち続けていたところ、茅ヶ崎郷土会の学習会で『新編相模風土記稿』の下寺尾村の記述にめぐり会い、上寺尾の存在を知りました。茅ヶ崎から北の方に2里余を隔てて寺尾があると書いてあり、なんと今の綾瀬市内に当たります。しかも「正保の頃(1645~48)はそれを上寺尾と呼んでいた。この上寺尾に対して茅ヶ崎の下寺尾となる」との注釈まで付いているのです。
これが、私たちが綾瀬市とそれに隣接する海老名市を探るきっかけとなりました。早速、図書館で両市発行の図書を何冊かめくってみました。すると、遠い昔に姉妹都市の約束でもしていたかのように、茅ヶ崎・海老名・綾瀬の3市に、類似あるいは共通する逸話がメモ用紙を埋め始めました。その中のひとつが「おも井戸」と呼ばれる池です。茅ヶ崎の下寺尾にあり、海老名の大谷北にあり、綾瀬の早川にある「おも井戸」。この3つの井戸に伝わる話の内容には多少の相違はありますが、同じ名を名乗り、信仰の池として土地の人に親しまれ続けてきたという共通点があります。 茅ヶ崎の「おも井戸」のあらましを知り得てから、海老名市と綾瀬市におも井戸調査の第一歩を踏み出してみることにしました。
地図を頼りに、katada会員と即席の調査隊を組んで、相模線の厚木駅に下車し、海老名市大谷北1丁目にある厚木ナイロン(現 アツギ株式会社)を目指して歩くその先、会社の広大な敷地の東側の住宅地の中に、弁天堂の小さな祠を見つけました。
弁天社とその横に「おも井戸」跡

井戸の跡

その傍らには、掃除の行き届いた3坪程の池の跡が残っていました。池に向かって左手に、細い石段があって、登るとその奥に神明社がありました。池の水は今は枯れていますが、神明社へ参詣する人たちが口を漱ぎ手を清めた御手洗の池であったといいます。かつてはこんこんと湧き出る清水を湛えていたのでしょう。この池の水で眼を洗うと眼病が治るという言い伝えもあります。現地ではこの井戸を「おも井戸」と呼び、神明社への坂(今は階段)を「おも井戸の坂」と呼んで、市の歴史遺産として大切にしているようです。
神明社へ登る階段 かつては「おも井戸の坂」と呼ばれていた

神明社の大鳥居 神明社は福寿院天照寺(高野山真言宗)に隣接している

神明社の説明版

なお、「おも井戸」は「御目井戸」からの転訛と考えられているようですが、解明されてはいません。それにしても「おも井戸」と呼ばれる池が3市にひとつずつあり、いずれも神聖な池として崇められてきたという史実は何を意味しているのでしょうか。不可思議な謎を残して、次の目的地である綾瀬早川のおも井戸へと足を運びました。海老名市と綾瀬市を歩き万歩計の数字は22,957歩。Katada会員の元気と知恵を分けて貰いながら海老名探索の一日を終えました。


report 町田会員
photo 片田会員

23ヶ村調査 中島の大川跡と堤防を探して 18/1/9 晴

現在中島(江戸時代は中島村)を調べています。
相模川河口に近く、洪水との戦いを強いられてきました。
村の中に「大川淵」という小字(こあざ)が南北に延びています。おそらく昔むかしの相模川本流の跡だと思われます。この日の調査は、「大川」跡をたどることと、相模川から中島を守る堤防を歩くことでした。

セートヤキ(だんご焼き)の日が近く、中島に4カ所あるサイノカミ(道祖神)はどこも集められた御飾りに埋まっていました。



「大川」の始まりは、高い位置を走る東海道本線の脇にあり住宅と畑の間にある不自然な細長い地所です。

それが次第に南に下ると、水はありませんがいかにも流れの跡と思われる溝になります。

その先は「親水公園」。南北に長く数十メートルの流れが現れます。


親水公園の南側はゴルフ場。中には入れませんがゴルフ場に大きな池があり、これも「大川」の名残(なごり)です。

古い地図で見ると「大川」は中島中学校の東側で小出川と合流していました。産業道路と中島・柳島を結ぶ道路が交差する当たりです。
次に相模川の洪水から守る堤防を歩きました。堤防は道路になっていて、西側はゴルフ場、その向こうを相模川が流れています。
もうすぐ新スポーツ公園に移りますが「中島スポーツ公園」の前を南北に延びる高まりも堤防のようです。
私たちが中島を歩いた日は良い天気で大山がきれいに見えていました。しかし、風の強い日でした。

photo & report  平野会員

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相模のもののふたち (3)三浦一族と衣笠城(横須賀市)


三浦一族は鎌倉幕府の成立に大きな働きをなし、三浦半島を本拠地に、幕府開設後も頼朝の有力御家人の一人として活躍しました。
三浦氏の系図は、桓武天皇に発し数代をおいて為通(ためみち)(初代)―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と考えられてきました。村岡の為通が前九年の合戦に参陣し、源頼義から三浦郡内の一角を領地とすることを許されて初代となったという説です。しかし最近、為通以前は三浦氏の神話の時代で、後三年合戦に名を表す為継(ためつぐ)から明確であるという考えがとなえられています。(高橋英樹『三浦一族の中世』)。
三浦氏の直系は衣笠城を居館とし、一族は三浦半島の各地を領しましたが、相模国西部にも勢力を伸ばし、義明の弟義実は岡崎(平塚市)に居を構えました。
義村は、同族の和田義盛が二代執権北条義時と勢力を争うとき北条方について、建保元年(1213)に義盛一族の滅亡を招きました。義村の子泰村は宝治元年(1247)、五代執権時頼と安達連合軍の攻撃を受けて自滅し三浦宗家は滅亡しました。宗家滅亡後は、佐原(横須賀市)に居を構えた佐原氏が継ぎました。戦国時代になって、三浦氏に連なる三浦道寸義同(どうすんよしあつ)、義意(よしおき)は北条早雲の攻撃を受けて、小網代の新井城に籠もって滅亡しました。
三浦半島の各地に残る三浦氏一族の遺跡の中には、三浦氏が関係して創設されたと考えられる寺院もあり、鎌倉時代に制作された仏像が伝えられています。
このコーナーではそのような三浦氏の遺跡と文化財を紹介します。
〈画像をクリックすると大きな画像で見ることができます。〉

3-01
衣笠城址(横須賀市指定史跡)(横須賀市衣笠町29)
横須賀市のほぼ中央部の丘陵の中に衣笠城址はある。三浦氏の祖とされる村岡為道(ためみち)が、前九年の役の功によって源頼義からこの地を与えられて三浦を名のり、その後為継(ためつぐ)(次)、義継(よしつぐ)(次)、義明(よしあき)の四代が三浦半島を経営した際の居館だった。(最近は為道を疑う説もある)。
1180(治承4)年、頼朝の旗挙げに呼応した際、ここに平家側の大軍を迎え、時の城主三浦義明は落城とともに討ち死にした。この合戦は「衣笠合戦」と言われている。
その後、鎌倉幕府が開かれてから再び三浦氏の居館となったが、三浦泰村が北条時頼との戦いに敗れて一族と最後を迎えた1247(宝治元)年に廃城となった。

3-02
城跡にある物見岩
城跡の最も高いところにあって、地面から頭を出した巨岩。衣笠合戦の折に、城主義明がこの岩に登って戦の指揮をとったという伝説がある。この巨岩は磐座(いわくら)の趣を漂わせている。

3-03
物見岩のすぐそばにある、出土遺物の碑
「大正八年十二月、陶器二個、銅筒一個、鏡一面、刀剣数口がここから発掘された。古色蒼然としていて衣笠城時代のものであることは疑われず、翌年二月に宮内省に献じた」と書いてある。
なお、これらの出土物のスケッチが、城跡の近くにある満昌寺の御霊神社社殿(宝物館を兼ねる)内に、軸装されて展示してある。撮影禁止。

3-04
衣笠城追手口あと
「追手口」は「おうてぐち」とも読み、大手口(城の正面入口)のこと。衣笠城の追手口あとが、高速道路の横浜横須賀道路と三浦縦貫道路が交差する衣笠インター入口の近くにある。コンクリートで固められた崖の縁の歩道は、進むにつれてゆるやかな坂道となり、城跡の一角にある曹洞宗大善寺に通じている。

3-05
衣笠城追手口跡の碑
巨大なコンクリートの崖の下、歩道の脇に小さな碑がある。知らなければ見落としてしまうような大きさだが、この碑があることによって、ここが城の追手口(大手口)だったことが分かる。碑には「衣笠城追手口遺址」と彫ってあった。

3-06
大善寺の不動井戸 (大善寺 横須賀市衣笠町29-1)
追手口あとから坂道を登っていくと、曹洞宗の金峯山不動院大善寺がある。説明板によると「僧行基が金峯蔵王権現と自作の不動明王を祭り、その別当寺としてこの寺を建てた」とある。衣笠城はこの寺の裏山一帯に展開していた。
寺の入口に「不動井戸」という池があって石造の不動明王が祭ってあった。「お祓いをするときに水がなくて困った行基菩薩が杖で岩を打つと清水がわき出した。衣笠城の生活用水だった」。不動明王は「三浦氏の祖、三浦為継が後三年の役に出陣したとき、敵の矢を防いでくれたので〈矢取不動〉と呼ばれる。今は寺の本尊となっている」と説明板に書いてあった。

3-07
大善寺の文化財 阿弥陀三尊像(横須賀市指定重要文化財)
境内の説明板に次の様に書いてあった。
「大善寺の本尊は不動明王となっているが、それは明治時代以降のことで、以前はこの阿弥陀三尊座像が本尊として祭られていた。像は平安時代末期(12世紀)の特色を示している。三尊像の様式は、死者の霊を浄土へ迎える来迎様式である。阿弥陀信仰は12世紀から一般化するが、この三尊像は三浦半島で最古の遺存例である。指定年月日は昭和60年4月25日」
おそらく三浦一族が、往生祈願のために祭っていた阿弥陀三尊だったのだろう。写真は説明板の写真を複写したもの。

3-08
大善寺の文化財 毘沙門天像(横須賀市指定重要文化財)
説明板に次のように書いてあった。
「製作年代は平安時代末から鎌倉時代初期と推定される。右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下を向く姿は、岩手県の中尊寺金色堂内の増長天立像とよく似ている。頼朝は1189(文治5)年の奥州合戦の折に中尊寺諸院に驚嘆し、それらを模して鎌倉に永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣しており、頼朝同様、平泉仏教文化に影響を受けたことが本像制作のきっかけになったのだろう。平泉の中尊寺金堂様式の仏像は東北・北関東に分布するが、本像はその南限に当たる。」
写真は説明板の写真を複写したもの。

3-09
大善寺門前の庚申塔群
神奈川県は庚申塔の密集地で、茅ヶ崎市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることである。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。
大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来ないが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。
向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れない。

3-10
義明山満昌寺(臨済宗) (横須賀市大矢部一丁目5-10)
山号を「義明山(ぎめいさん)」ということから三浦義明にゆかりの寺だと分かる。境内にある説明板には「頼朝の意思に基づいて三浦義明の追善のために建久五(1194)年に創建された」とある。ちなみに義明は、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの時、衣笠城に平家の大軍を迎えて城とともに討ち死にした。
また説明板には「創建時の宗派は分からないが、鎌倉時代末期に仏乗禅師 天岸慧広(てんがんえこう)が入寺し、臨済宗に改め、建長寺末寺とした。天岸慧広を中興開山とする」とある。

3-11
木像 三浦義明座像(国指定重要文化財)
三浦義明が有名なのはなぜかというと、1180(治承4)年の頼朝の旗挙げの際、平家の大軍が押し寄せると分かっているにもかかわらず、自分の城 衣笠城に留まり、息子の義澄などを逃がし、自分は高齢だからこの城と運命をともにするとガンバッて、落城する中で命を落としたその心意気に引かれるからである。そのとき義明は89歳。
義明の木像は、境内にある御霊神社(義明の霊を祭る。宝物館を兼ねる)内に祭られている。撮影禁止。写真は説明板にあった画像を複写したもの。
境内の説明板には「制作の時期は鎌倉時代後期と推定されている。等身大の像で、没後神格化された武人の像として重要」とあった。

3-12
伝 三浦義明の廟所(横須賀市指定史跡)
義明の木像を納める御霊神社の背後にあり、瓦塀で囲まれた中を廟所(墓)と伝えている。
寺内にある説明板「義明山 満昌寺の由来」に、「廟所は奥の院と称し三浦大介義明の首塚という」とある。
『吾妻鏡』建久5年(1194)9月29日条に「(頼朝は)三浦矢部郷内に一堂を建立すべき由の思し召しを立てらる。故介義明の没後を訪れらるため也。今日、中業(なかなり)(中原仲業 頼朝の右筆)に仰せてその地を巡検すと云々」とある。この「一堂」が満昌寺であるとは書かれていないが、前記した説明板には「当寺は、建久五年九月、源頼朝の意思に基づき三浦大介義明、追善のため創建されたと伝えられる。」とある。
また、鎌倉市材木座の来迎寺にも義明の墓と伝える五輪塔がある。

3-13
伝 三浦義明の廟所近景
中央に宝篋印塔、その向かって右側に、石灯籠に隠れているが五輪塔、左側に板碑が立っている。
石灯籠については、寺内の説明板に「廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したもの」とある。現地では良くは見てこなかったのだが、後に写真で見ると、その竿石正面に「享和三年四月□日」とあった。写真は「享」が明確ではないのだが、享和三年は1718年である。

3-14
義明を供養する宝篋印塔
義明の供養塔と伝えられている。下方から、基壇・基礎・塔身・笠は一具で安山岩でできている。鎌倉時代後期から南北朝時代のものと思われる。その上の九輪(くりん)は請花(うけばな)・宝珠(ほうじゅ)とも後補か別の混入らしい。塔身の種子(しゅじ)は金剛界四仏の、阿閦如来(あしゅくにょらい)をあらわすウーン。
もとより三浦大介義明没年ころのものではない。

3-15
義明の妻を供養する五輪塔
廟所を正面から見ると、石燈籠に隠れて見えないが、説明板によると、義明の妻のものと伝えられるとある。写真で見ると地輪(ちりん)(方形)と水輪(すいりん)(球形)は一石(いっせき)のようである。火輪(かりん)(笠状のもの)は混入かも知れない。時代は分からない。その上の空風輪(くうふうりん)は室町時代末期のもので、混入したものである。

3-16
観音種子(かんのんしゅじ)の板碑
緑泥片岩(りょくでいへんがん)製の堂々とした板碑である。上部に彫ってある種子は観音菩薩をあらわす「サ」。その下の二行に渡る文字は
具一切功徳慈眼視衆生
(一切の功徳を具し慈眼をもって衆生を視(み)たもう)
福聚海無量是故応頂礼
(福聚の海は無量なり是の故に応(まさ)に頂礼(ちょうらい)すべし)
素人なりに意訳すれば、
「観音様は大きな功徳と優しさをもって私たちに接してくださっています。観音様の救いが余すところなく及んでいる事への感謝を忘れてはいけません」。法華経の観世音菩薩普門品第二十五(観音経)の一節。
しかし、この板碑の製作年代も由来も判断がつかない。

3-17
満昌寺の文化財 木像天岸慧広(てんがんえこう)の座像(横須賀市指定重要文化財)
古い歴史を有する満昌寺にはすぐれた文化財がある。天岸慧広の木像もその一つで、寺の説明板「満昌寺の由来」に、「鎌倉時代末期に満昌寺に入り、宗旨を臨済宗に改め、中興開山」と記されている。
また別の、この像の説明板には「鎌倉円覚寺の第一座、鎌倉報国寺の開山で、建武二年(1335)に没した。像は玉眼、寄木造り像高76㎝。顔面部の個性的な風貌を写実的にとらえており、没後まもないころに制作されたものだろう。」とあった。拝観はしていない。

3-18
満昌寺の文化財 木像宝冠釈迦如来座像 (横須賀市指定重要文化財)
満昌寺の本尊。
説明板に「玉眼寄木造り。像高36.6㎝。高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただく。着衣はひだが太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北朝時代(14世紀後半)の作品」とあった。
このほか、御霊神社社殿(宝物館)内に、石造双式板碑(元応二年(1320)庚申二月日在銘)の板碑がある。また幕末―明治期作成で、雲龍・松虎・山水の絵柄のふすま絵(16面)と、神奈川県内では大変珍しい磨崖仏が、ともに横須賀市の重要文化財に指定されているが、この2件は拝観はしていない。

3-19
満昌寺山門前の庚申塔群
満昌寺の門前にもたくさんの庚申塔がある。大谷石の基壇の上に整然と並べられている様子を見ると、方々から集めたもののように思える。
三浦半島の庚申塔の、青面金剛のある塔を子細に眺めていると、三猿の所作、金剛に踏まれている邪気の苦しそうな顔つき、金剛の持物(じもつ‒持っている物)の違いなどにおもしろさをおぼえる。石工たちの遊び心を感じるのである。

3-20
近殿神社 (横須賀市大矢部一丁目9-3)
「ちかたじんじゃ」と読むようだ。境内の説明板には次のように書いてあった。
「祭神 三浦義村公
三浦義村は、三浦氏代々の頭領、三浦為道―為継―義継―義明―義澄―義村―泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討ち死にしたと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。」
説明板は為道を三浦氏の祖とする説に立っている。三浦氏は、義村の子、泰村の時に5代執権時頼によって滅ぼされた。それにしても何故、義村が祭神になっているのだろうか。

3-21
清雲寺 (横須賀市大矢部五丁目9-20)
境内の説明板に次のようにあった。
「伝 三浦為継とその一党の廟所(昭和48年 横須賀市指定史跡)
清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏二代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(1939)に円通寺(廃寺=大矢部二丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。」
なお、「石造板碑 文永八年(1271)在銘」および「三浦九十三騎墓」と伝えられる石塔群も同時に移されたそうである。
諸般の事情で、茅ヶ崎郷土会の史跡巡り当日はこの廟所を見ることができなかった。
古い五輪塔や宝篋印塔を歴史上の人物の墓と称することは多くの場所で行われている。しかし実は、古代・中世の墓がどのような形態であったかはよく分かっていない。史跡の名称に「伝」を付す所以である。
文永8年銘板碑も重要文化財に指定されている。この板碑は、造立者銘と造立趣旨を刻するそうだから、特に貴重なものと思われる。

3-22
清雲寺の文化財 毘沙門天立像(神奈川県指定重要文化財)
境内の説明板に次のようにあった。
「この毘沙門天は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保元年(1213)の和田合戦の折、和田義盛のために敵の矢を受け止めたと言われ、〈矢請の毘沙門天〉と呼ばれている。像高70.7㎝の寄木造り、彩色玉眼入り。鎌倉中期以前の優作の一体である。」
清雲寺には国指定重要文化財の木像観音菩薩座像もある。当日は拝観しなかったが説明板には次のようにあった。
中国、南宋時代、江南地方で作成されたもの。京都泉涌寺の観音座像と同一。この地にもたらされたのは三浦氏が領主であった時代で、一族が滅亡した宝治元年(1247)以前。13世紀から鎌倉周辺に宋彫刻の影響を受けた仏像があるが、時代的背景を同じくするものと考えられる。」

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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相模のもののふたち (8)土屋宗遠(平塚市)


土屋三郎宗遠は、相模のもののふの中では比較的に地味な存在のように思われます。
頼朝の旗挙げは、治承4年(1180)8月17日に伊豆国の目代、山木兼隆を襲撃することで幕を開けました。そして20日、頼朝は伊豆と相模国の御家人を率いて、伊豆を出て相模国の土肥の郷を目指します。『吾妻鏡』はこのときの一行46人の名前を列挙していますが、その中に土屋三郎宗遠の名前があります。
また、石橋山の合戦で破れた頼朝が房州に落ちる物語の、謡曲「七騎落」の中にもその名がありますが、謡曲の中では目立った働きはしていません。
平塚市土屋は緑の濃い丘陵の中に位置し、ここに土屋一族の墓所と、屋敷跡と伝える一角があります。また、この地にある真言宗芳盛寺と天台宗大乗院は、宗遠との関わりを伝えています。
土屋に住む方々は、宗遠をしのび、毎年墓前祭を続けています。私たち、茅ヶ崎郷土会の有志数人でこの墓前祭を訪れたところ、鎌倉時代のもののふ同士の付き合いを再現したかのように、墓前祭に、岡崎や真田をはじめ、各地から大勢の人たちが集まっておられ、私たちは驚いたものでした。
このコーナーでは土屋に残る宗遠の遺跡を紹介します。
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8-01
土屋宗遠(むねとお)の木像(平塚市土屋)
今年、平成29年5月8日、平塚市土屋で相模のもののふの一人、土屋一族の墓前祭が行われると聞いて、茅ヶ崎郷土会の有志数人と出かけた。
場所は神奈川大学の近くだった。まず土屋一族のものと伝えられる墓所で墓前祭が行われ、次に天台宗大乗院に移って供養の法要が行われた。
本堂には写真の土屋三郎宗遠の木像が祭ってあった。いつもは、土屋にある天台宗正蔵院に蔵しているそうである。
一族の墓地に立つ平塚市教育委員会の説明板「土屋の舘跡と土屋一族の墓」に、土屋宗遠について記してあった。
「平安時代後期、中村荘司宗平(なかむらのしょうじむねひら)の三男宗遠は相州土屋の地の領主として舘(やかた)を構えた。土屋宗遠は治承四年(1180)源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府成立に貢献し、その子義清も「随兵役」を勤めるなど、頼朝の厚い信頼を受けた。以来、土屋氏は室町時代の応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで土屋の地を支配した。」
なお、宗平の嫡男は重平(しげひら)、次男は土肥実平(さねひら)、三男が土屋三郎宗遠、四男は二宮友平(ともひら)である。

8-02
土屋の郷を望む
土屋は平塚市の中で最も西に位置し、南は大磯町と二宮町、西は中井町に接している。全体が丘陵地で緑が豊かである。
北側に金目川が流れている。写真は、金目川のほとりから土屋を眺めたものである。
中村宗平が率いた中村荘(なかむらのしょう)は、現在の、中井町中村から小田原市中村原にかけて展開していたと考えられているので、土屋は近いのである。

8-03
土屋一族の墓所(平塚市土屋1167ー44)
二宮町、中井町から続く丘陵が、半島のように北東方向に伸びる先端近くの東側傾斜地の一角に、一族の墓所と伝える所がある。傾斜はかなり急で、下りきった低地を、金目川の支流の座禅川が北に向かって流れている。
墓所は、斜面を段々畑状に、横に長く切り開いて設けられている。鎌倉時代と思われるものもあるが、室町時代の五輪塔や宝篋印塔の残欠が崖にそって並んでいる。
墓地に、「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板があって、
「三郎宗遠は中村宗平の三男として大治三年(1128)、相模国大住郡中村に生まれた。(略)鎌倉幕府樹立に貢献した。幾多の功績を残し、阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建し、又大乗院を再建するなど善行に励み、建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。

8-04
土屋いろはかるた 「土屋一族の墓」
墓地にある平塚市教育委員会の説明板に、「ふるさと土屋いろはかるた」の、五輪塔と墓前祭と土屋氏の舘跡(やかたあと)の三枚の読み札と絵札が印刷してあった。
絵はどれも、子どもたちが描いたものと思われる。
まず、五輪塔かるた。
読み札は「つ」で始まる。 土屋氏の 一族ねむる 五輪塔
絵札の絵は、たくさん並んでいる石塔の中央の比較的大型の五輪塔を描いてある。

8-05
土屋一族の墓前祭
墓前祭を指導されるのは大乗院のご住職。地元で宗遠公を顕彰している会の方々と岡崎、真田、中井など、鎌倉時代の中村党に関係する各地の方々が参加されていた。
中村宗平の子どもたちは各地に散って土着した。また三浦一族から出て岡崎に定着した義実(よしざね)は中村の娘を妻としている。このような関係が、今の時代まで引き継がれているのである。驚いた。

8-06
土屋いろはかるた 「墓前祭」

「く」 供養する 五月八日の墓前祭

8-07
熱心に祈る 茅ヶ崎郷土会の会員
おそらく、土屋三郎宗遠公をしのび、土屋の発展と、我が茅ヶ崎市の進展と、茅ヶ崎郷土会の邁進と、世界の平和と、自らとご一族の安泰と健康を祈っておられたものと思う。

8-08
土屋いろはかるた 「土屋宗遠の館跡」

「も」 武士(もののふ)が 住みし土屋の 館跡(やかたあと)
『新編相模国風土記稿』大住郡糟屋庄土屋村(雄山閣版3巻70頁から)の項に「土屋三郎宗遠居跡 宗憲寺境内なりという、その辺(あたり)の字(あざ)に、下屋敷、屋敷内などの唱えあるのみ、遺形と覚(おぼ)しき所なし」とある。宗憲寺は神仏分離の折に廃寺になっている。
風土記稿にいう宗憲寺はその位置が分からないが、現在は一族の墓所のすぐ下を屋敷跡と伝えている。『平塚と相模の城館』(29頁 平塚市博物館刊)をみても、発掘調査は行われていないようである。
墓所があり、館跡(やかたあと)といわれる一角は、小字(こあざ)を「大庭」と書く。『平塚市郷土誌事典』(91頁)はこれを「おおにわ」と読んでおり、「宗憲寺という寺院があったともいわれている」とする。館(やかた)の庭が地名となって残ったということも考えられるが、発掘調査が待たれるところである。

8-09
土屋いろはかるた 「高神山」

「お」 丘の上 土屋城址の 高神山(こうじんやま)
小字(こあざ)の「大庭」に隣接して「高神山」という小字がある。大庭より一段高くなった平場である。「高神山」は「高陣山とも書くようである。「ふるさと土屋いろはかるた実行委員会」が立てた「土屋城址と高神山(高陣山)」の説明板には
「土屋一族は、鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館(やかた)の裏山一帯を要害として、土屋城(陣地)を築いていたということから、この一帯を高陣山といいます。」とある。
昔は尾根状の地形だったらしいが『平塚と相模の城館』(平塚市博物館)に「尾根は土取り工事によって消滅しており、かつての景観を知る由もない」(29頁)とある。

8-10
天台宗 大乗院 (平塚市土屋200)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項(雄山閣版3巻72頁)には「星光山弘宣寺と号す。天台宗。古碑一基、土屋彌三郎宗遠(ママ)が墓碑と言い伝う」とある。
環境庁と神奈川県連名の説明板には次のように記してあった。
「天台宗延暦寺派の名刹。土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝える。往時は多くの末寺をもつ大寺だったが、建物は第二次大戦(昭和20年)のとき焼失した。再建後の本堂には、瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れて安置されている。相模新西国二十九番観音霊場。」

8-11 土屋いろはかるた
「大乗院」

「れ」 歴史ある 土屋の古刹 大乗院

8-12
大乗院の本堂で土屋一族の供養
墓前祭が終わると、本堂に場所を移して供養の法事が行われた。
法事が終わると懇親会となった。茅ヶ崎から参加した私たち一行も末席に連なった。土屋で宗遠公を顕彰しておられる方々や、各地で、その地のもののふをそれぞれ顕彰しておられる方と話をすることができた。土屋一族の墓前祭は、以前は8月5日に行っていたとのことだった。そう言えば、墓地にあった「宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板には、「建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。かつてタバコの収穫で忙しい時に、5月8日に変えたのだそうだ。5と8を入れ替えて日を定めたのだろうか。
またこの席上で、平塚市真田の「与一顕彰会」の方から、与一公墓前祭が8月23日にあることを聞いたことが、真田にも足を伸ばすきっかけとなったのである。

8-13
宗遠詠む歌と言われているが、実は源実朝の歌

道とほし 腰はふたへにかがまりて 杖にすがりてここまでも来る
歌人であった実朝の歌を集めた『金槐和歌集』にある歌。
「相州の土屋という所に九十歳になるくち法師(朽ち法師)があり、自ら鎌倉まで来て自分と昔語りなどする中に、もう身の立ち居も思うようにならなくなったといい、泣く泣く帰ったときに詠んだ歌」
という前書きのもとに並ぶ五首の歌の中の一首である。
この歌碑が一族の墓所にある。
土屋宗遠が亡くなったという建保6年8月5日の記事は『吾妻鏡』にはない。しかし、90歳まで生きていたというのは本当のことだったようだ。
宗遠に関係する寺社としては、現在も土屋にある芳盛寺を挙げない訳にはいかない。風土記稿は芳盛寺について「土屋山無量寿院と号す、古義真言宗…(略)開基 土屋彌三郎宗遠(ママ) 建保元年(1213)八月五日卒、年九十、法名 阿弥陀寺殿空阿」と記している。宗遠の卒年月日の出典はこれだろうか。
また、『平塚市郷土誌事典』に「宗遠の法名により阿弥陀寺と称したが、大森芳盛の庇護を受け芳盛寺と改めた」とある。

8-14
一族の墓地で、調査と記録に励む茅ヶ崎郷土会の会員
写真は実朝の歌碑の裏面である。歌が作られたいきさつが彫ってある。その内容は前記した。
下調べすること、現地を訪ねること、歩き回ること、汗水を垂らすこと、写すこと、撮すこと、そして書くこと、残すこと。
これは茅ヶ崎郷土会の鉄則である。

8-15
土屋の鎮守 熊野神社 (平塚市土屋227)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項に「村の鎮守なり、神体木像、例祭九月二十九日、神木の杉、回り一丈二尺(3㍍60㌢)、別当持宝院…」とあるが、土屋一族との関係はなにも書かれていない。
この熊野神社は、社殿を飾る彫刻がすばらしい。向拝(ごはい)の水引虹梁(みずひきこうりょう)の上には龍が乗り、菟毛通(うのけとおし)は翼を広げた飛龍、向拝柱(ごはいばしら)などの木鼻(きばな)も龍である。また、屋根の四隅は二重の扇垂木(おうぎたるき)で、これも珍しい。向拝の龍の裏側を子細に眺めたが作者銘は見つけられなかった。一見の価値は十分にある建物である。

8-16
土屋いろはかるた 「熊野神社」

「な」 名高きは 小熊(こおま)に鎮座の お熊さん
「小熊」は「こおま」と読み、熊野神社や大乗院のある地の小字(こあざ)の名である。
このかるたをもって、土屋三郎宗遠ゆかりの土屋の紹介を終わろう。

photo & report 平野会員

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