相模のもののふたち (5)梶原景時(寒川町)

源氏と平家の争いが一ノ谷、壇ノ浦と所を移し、次第に平家方が退却していく中、義経と梶原景時の確執も激烈さを増していきました。この二人の確執は次第に頼朝と義経の対決に発展します。
平家が壇ノ浦で壊滅したあとの文治元年(1185)4月21日、九州から、源平合戦の次第を報告する景時の書状が鎌倉に到着したと『吾妻鏡』は記しています。その中に「御家人たちはともに頼朝を仰いで戦ったのに、判官殿は自分のための戦いと思っている。それを諫めた自分は罰を受けかねない有様だった」と訴えました。この頼朝への報告が、後に景時の讒言(ざんげん)の一つと数えられるのです。
正治元年(1199)1月、頼朝が亡くなり、新将軍に頼家が任じられました。その年の十月、結城朝光が「忠臣は二君につかえず」といったことを景時が頼家に伝えたことが、景時の讒訴(ざんそ)だと解され、景時排斥の動きが始まりました。12月18日、ついに鎌倉を追い出され一宮(ママ)(寒川町)に退きました。そして鎌倉の屋敷は破却されました。その後景時は一宮で急遽、防戦体制を整えましたが、年が改まり正治2年1月19日の夜、子息などを伴い、「ひそかに逃れ出ず」と20日の条にあります。「これ謀反を企て上洛するの聞こえあり」と。そして駿河国清見関(現静岡県静岡市)で待ち構えていた者たちによって、景時は子どもたちとともに命を落としました。
梶原景時に関する『吾妻鏡』の記事は、景時を策謀に長けた人物として、特に強調して描いているように思えます。作為を感じるのです。寒川町の隣の茅ヶ崎に住む者としては、実に残念です。そのような悲劇のもののふ、梶原景時の遺跡を紹介します。
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5-01
景時舘跡(寒川町一之宮八丁目6-6)

梶原景時の一之宮の舘は、『吾妻鏡』に、景時の悲劇の始まりの場面で出てくる。正治元年(1199)年1月13日、頼朝が亡くなる。結城朝光が口をすべらせたことを、景時が将軍頼家に密告したので朝光は誅されるという話が御家人間に広まった。同年10月のことである。朝光に同情する御家人たちは「また景時の讒言(ざんげん)か」と、舌打ちしながら景時糾弾の連判状を将軍に差し出した。連判状に目を通した頼家は、これを景時に渡し、「申し開きがあったら述べよ」という。そしてその翌日11月13日の条を『吾妻鏡』は次のように記している。
「梶原平三景時、かの訴状を下し給わるといえども陳謝に能わず(申し開きをしなかった)。子息親類などを相率して相模国一宮(ママ)に下向す。」
また、『新編相模国風土記稿』高座郡一之宮村(雄山閣版3巻296頁)の項には「梶原景時城跡 村の西方大山道のかたわらにあり、陸田二段八畝あまり、(景時の)屋敷内ととなう。その他の所を城の下ととなう。」とある。

5-02
舘跡の天満宮
館の跡といっても土地の高さは大山道とあまり変わらない。入口から入って奥の方に小さなお社の天満宮が祭ってある。舘跡にある、寒川町教育委員会が立てた説明板には次のように記してあった。
「天満宮の位置は梶原景時舘跡の一角で、当時(景時の時代)は物見(ものみ)の場所として一段高く構築したとも伝えられています。(略)物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。」

5-03
昭和3年撮影の天満宮の辺り
昭和3年に撮影したという天満宮辺りの風景写真が、現地の説明板に掲げてあった。現在の地形とどのように重なるのか、またその方角なども分からないが、小高くなっていたことは分かる。

5-04
景時舘跡の発掘調査
居館跡の遺跡名称は「梶原氏館址遺跡」となっている。寒川町のホームページには、この遺跡の説明が次のように掲載されている。
「梶原氏館址(かじわらしやかたあと)遺跡は、相模川左岸から1kmほど離れた氾濫平野から、自然堤防にあたる低地に立地していて、標高は7~8メートルほどです。平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した武将梶原景時の館があったと伝承されています。
平成13年に数カ所学術調査が実施され、中近世の溝や堀などは確認されたものの、直接梶原景時につながる遺構は確認されませんでした。」
平成13年に行われた発掘調査の結果を表す図が舘跡に示してあった。写真はその写しである。説明板にあるように、この発掘図から屋敷跡を読み取るのは困難である。

5-05
梶原景時木像
舘跡にある「梶原景時と一之宮舘跡」という説明板に景時の木像が掲げてある。写真はその複写画像である。烏帽子を被り、右手に笏を持つ写実的な像だが、制作されたのは古いことではないように見える。
「東京・馬込 萬福寺蔵」とあるので萬福寺をネットで調べてみた。東京都大田区南馬込一丁目49-1がその住所だった。
寺のホームページの「寺の概要」に次のようにあった。
「曹洞宗寺院である萬福寺は慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応二年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。天文三年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いています。本尊は阿弥陀三尊を祀っております。」
景時を開基としているからその像を祭っていても不思議はないが、像の説明はない。なお、本尊は善光寺式阿弥陀三尊だそうである。

5-06
梶原景季(かじわらかげすえ)と箙(えびら)の梅
舘跡に、板状の石に「箙(えびら)の梅」と題し、甲冑姿の武人と横を向く女性を描いた不思議な絵がある。
絵の下にある説明文を読むと、武人は梶原源太景季(かげすえ)とあるが、女性については何も記していない。景季は、ここにあった舘の主、景時の長男である。景季は源氏軍が平家群を追い詰めた一ノ谷の合戦の折、花を付けた梅の枝を自分の箙(えびら)(矢を入れて背負う道具)に差して戦った。この事が以後、物語となり、演劇となり、画題となった。舘跡の近くにある一之宮八幡大神の屋台の彫刻の絵柄ともなっており、この不思議な絵は、その屋台の彫刻を写したものと、説明文に書いてある。

5-07
伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
御影石の築石壇(つきいしだん)の上に並んでいる石塔は、江戸時代のものもあるが、室町時代末期(16世紀後半)の五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の各部である。地元ではこれらを「梶原一族の郎党(七士)の墓」と称している。そばに立ててある説明板に次のように記してあった。
「次のような言い伝えがある。正治二年(1200)、景時一族と郎党が一宮(ママ)の舘を出発し上洛の途中、清見関(きよみがせき)(静岡市清水区)で討ち死にしてしまったので、舘の留守居役だった家族、家臣等が弔(とむら)った。また、景時親子が討ち死にしてから景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七士が、鎌倉に来て主人の復権と所領安堵を願ったが許されず、その場で自害したのでそれを祭ったもの。」

5-08
建長寺三門(山門)で行われる施餓鬼会 (鎌倉市山ノ内8)
毎年7月15日に行われるという建長寺の施餓鬼会の折に梶原景時の霊の供養も一緒に催されると聞いて、撮影するために出かけた。
施餓鬼会に、なぜ景時の霊の供養が加わったのかが知りたくて、建長寺の公式ホームページを見てみたが触れられていない。
施餓鬼会は朝8時から三門(山門)で始められた。

5-09
施餓鬼会の読経
机に位牌を3基据えて、生花、果物を供え、香を焚いて読経が始まった。僧侶は30人ほどおられただろうか。
卓上に据えてある3基の位牌を望遠レンズで覗いてみたが、江戸時代の年号があり、どこかの僧侶の位牌のようだった。景時の位牌が出ているのか期待したが、はずれた。
施餓鬼会とは、餓鬼となって六道輪廻で苦しんでいる霊を供養する儀式である。

5-10
施餓鬼会の精霊棚(しょうりょうだな)
お盆には、家庭で、帰ってこられるご先祖の霊(オショロさん=お精霊さん)を祭る。このとき、先祖の霊は屋内の盆棚で祭り、祭り手がない餓鬼は、盆棚の下や、屋外で祭る。神奈川県では、屋敷の入口に砂や土を小さく盛って、その上にキュウリやナスで作った馬を置き、少しばかりの供え物をして、これを「砂盛り」とか「塚」といっている。これは餓鬼を供養する屋外の盆棚と解される。
建長寺では三門から10メートルほど離れたところに棚を組んで、そこに大きな位牌のようなもの1基を据え、供え物がしてあった。施餓鬼供養はこの棚に向かって行われていた。

5-11
精霊棚の位牌
施餓鬼棚にある位牌のようなものの近接画像である。表側に「六道四生三界萬霊有縁無縁」と書いてあった。
「六道四生」とは餓鬼道・地獄道・畜生道・修羅道・人間道・天道にある、時間を越えた全ての生き物という意味、「三界萬霊」とは、これも仏教で説く時間を越えた全ての世界にある霊という意味、「有縁無縁」も仏教に縁あって救われている人、縁なくて救われていない人、つまり時間を越えた全ての人という意味で、煎じ詰めれば、無機質のものを除く全てのものという意味だろう。
この位牌状のものに向かって、全ての霊的存在を仏教の救いにすくい取るというのが建長寺の施餓鬼供養であるらしい。

5-12
梶原施餓鬼と瀬名の梶原会
『新編鎌倉志』建長寺山門の項に梶原施餓鬼のことが出ている(雄山閣版6巻48頁)。開山在世の時、一人の武者が来て、すでに施餓鬼会が終わったのを見て落胆する。僧が理由を聞くと「自分は梶原景時の霊だが、施餓鬼会に間に合わなくて残念」というので、もう一度景時のために施餓鬼会を行ったという話である。般若心経を梵音(梵字の発音で)で称しながら行道すると書いてある。この日も参加の大勢の僧侶によってこの行道が行われた。今も梶原施餓鬼は行われているのである。
瀬名梶原会の方々が大勢見えていた。静岡市に梶原山という丘陵があり、梶原一族終焉の地といわれている。梶原会は、景時の顕彰と梶原山の清掃などを行っているそうである。

5-13
施餓鬼会に響く国宝の梵鐘の音
建長寺の梵鐘は国宝に指定されている。説明板によると、1255年(建長7)に鋳造されたとある。建長寺は1253年(建長5)創建で、開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。この梵鐘は、寺の開設とほぼ同時に作られたものである。
鎌倉時代の梵鐘が、施餓鬼供養の始まる前に、鎌倉時代の音色を重低音で響かせた。私は生まれて始めて、鎌倉時代の音を直(じか)に聞いたのである。760年間ほどの間に、数え切れない人たちが、この鎌倉時代の鐘の音を聞いている。私もその数え切れない人たちの一人に加わったのだ。

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (4)和田義盛(三浦市・横須賀市)


頼朝存命のころから、粛清されて命を失うもののふは多かったのですが、頼朝が建久10年(=正治元年 1199)1月に亡くなってからも止むことはありませんでした。頼朝没後すぐに梶原景時が滅せられました。
同年10月27日、鎌倉幕府の有力な御家人の一人、結城朝光は、景時の讒訴(ざんそ)によって窮地に立たされたと、朋友の三浦義村に訴えました。この訴えを聞いた義村は、「およそ文治(1185年から)このかた、景時の讒訴によって命を失い、職を失った輩はあげて数うべからず。世のため君のため、景時を退治せずんばあるべからず」と、和田義盛と安達盛長を呼んで相談をかけました。呼ばれた両人は、「それなら連署状を草して訴えるべし」と、時をおかず書状をつくって、66人の同意を得、大江広元を介して将軍頼家に提出の手はずをとりました。しかし逡巡した広元がすぐに渡さなかったため、義盛は御所で広元と同席した折に、「かの状をきっと頼家に披露するのか、ご気色いかん」と詰め寄ります。「義盛、眼を怒(いか)らして…」と『吾妻鏡』にあります。
この一件の結果、梶原一族は命を落とすのですが、三浦義村と和田義盛は同族です。また、この二人に同意して、鶴岡の廻廊に群集し連署状に署名した66人の中には、北条一族の時政と義時の名はありません。筋書きを作り、朝光、義村、義盛を動かして景時を亡き者にした誰かが事件の裏にいたのではないかという説があるのもおかしくはないと思われます。
人の話に乗り、武力一辺倒で押し進む義盛の性格が見えるようです。しかし、このような人物であったからか、今も人気は高いようです。三浦半島には義盛に関する伝説が多く伝わっています。このコーナーでは、そのようなことも含めて義盛の遺跡を紹介します。
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4-01 和田義盛旧里碑(三浦市初声(はっせ)町和田)
人によって違うだろうが、三浦一族の中ですぐに思い浮かぶのは三浦宗家の義明とその孫、和田義盛である。義明の長男で鎌倉の杉本に居館を構えた義宗の子が義盛、義宗の弟義澄の子が義村、いとこ同士の義盛と義村は後に悲劇の対決をなす。
義盛は現在の初声(はっせ)町和田を領し和田姓を名のった。武勇に優れていたが直情径行の性ありと言われている。頼朝のもとで侍所(さむらいどころ)別当(=長官)に任ぜられ、頼朝亡き後は頼家、実朝に仕えた。次第に北条氏と対立し1213年(建保元)に一族は滅ぼされた。この戦の折、義村は義盛を無視したのである。
和田の八雲神社の境内に「和田義盛旧里碑」が立っており、三浦市が建てた説明板に次のようにあった。
「一族が滅んだとき義盛67歳、この碑は義盛の在所と思われるこの地にその武勇をたたえて大正10年に建立された。」

4-02 和田の郷 八雲神社(三浦市初声町和田)
三浦一族の旧跡を回る下見の日は終日雨が降っていた。神社の説明板「天王様(八雲神社)由来の記」には次のように記してあった。
「祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)(行疫開運の神)
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)といい和田の郷の鎮守。本宮は貞享四年(1687)、藤原朝臣 大井甚五左衛門の勧請と伝えられる。」

4-03 神明白旗神社(三浦市初声町和田1746)
急な石段を登った小高いところにあって、和田の郷を広く見下ろすことができる。境内の説明板に次のようにあった。
「祭神 天照大神 和田義盛
神明社が白旗神社に合祀され、「神明白旗神社」と呼ぶ。和田義盛一族が鎌倉の和田塚に自刃した後、弘長三(1263)年、和田の郷民が社殿を設け白旗神社として祭ってきた。白旗の名は平家討伐に大勝した義盛が、紅白の幟を立て八幡社に報告したことによる。また戦勝の舞「初声」を舞ったことから初声町の名が付いた。『新編相模風土記稿』に、ご神体は義盛の銅像、本地仏は和田党九十三騎の守護仏だが、八体しかないとある。」

4-04 神明白旗神社の庚申塔群
先に横須賀市衣笠町の大善寺と上矢部の満昌寺の山門前にある庚申塔群を見てきたが、ここ神明白旗神社にもたくさんの庚申塔があった。
神社に登る石段の下にあり、ここを訪ねた日は春の陽がさんさんと降り注ぐ気持ちのいい日だった。庚申塔群の前の若草に腰を下ろし、食べた弁当はほんとうに美味しかった。こういうとき、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりに参加して良かったなぁーと思う。

4-05 浄楽寺入口(横須賀市芦名二丁目30-5)
金剛山勝長寿院大御堂浄楽寺が正式名称。浄土宗、鎌倉光明寺末。
今まで見てきた和田の郷は三浦市の北端に位置するが、市境を北に越えると横須賀市長井になる。国道134号に沿ってさらに北に進み太田和を過ぎると芦名で浄楽寺がある。この辺りは電車が無くて、私たちは逗子駅前から延々とバスに乗った。
参道の奥に見える瓦屋根が浄楽寺の本堂。浄楽寺発行のパンフレットに次のように記してあった。
「『新編相模国風土記稿』にこの寺はもともと和田義盛が建立した阿弥陀堂であったが、その後、光明寺の二世寂恵が寺に入り中興したとある。寂恵は鎌倉後期の僧侶で、芦名に浄楽寺を開いたことは光明寺資料でもあきらか。」
見学の申込みをせずに訪問したのだが、来意を告げたところ、「本堂に上がってお詣りしても良いですよ」とありがたいお言葉をいただいた。そこで一同は、ご本尊様に世界の平和と自らの往生を祈った。

4-06 浄楽寺の扁額 「勝長寿院」
浄楽寺の本堂の扁額は「勝長寿院」と書いてあって、また浄楽寺の院号は「勝長寿院」である。扁額は古くはなさそうだから、院号を文字にしたのかも知れないが、勝長寿院と言えば、源頼朝が父 義朝の菩提を弔うために鎌倉の大御堂ヶ谷(おおみどうがやつ)(現・神奈川県鎌倉市雪ノ下)に建てた寺院の名として有名である。頼朝建立の寺と、浄楽寺の院号が同じなのは偶然なのだろうか。
境内に立つ「横須賀風物百選」の「浄楽寺阿弥陀三尊像」の説明板に、
「寺伝によれば、文治元年(1185)に源頼朝が、父義朝の霊を弔うため、鎌倉の大御堂ヶ谷に勝長寿院を建てたが、建永元年(1206)にその寺が大風で破損したため、北条政子と和田義盛が、そこの本尊をここに移したと伝えています。」
とある。
しかし、この寺伝は伝説であるらしい。それにしても規模の大きな伝説であることか。なぜこのような話が伝わっているのか、たいへん興味を覚えるのである。

4-07 薬師如来と不動尊のお開帳の案内札
浄楽寺には、運慶の作と断定されている木造薬師三尊像と木造不動明王立像、木造毘沙門天立像の五体の仏像がある。三浦薬師如来第十五番の薬師と、三浦不動尊第二十番の不動尊も一緒に、本堂裏手の小高いところにある収蔵庫に祭られていて、毎年4月から5月にかけて御開帳が行われている。
写真の立て札はその期間中に境内に立てられていた案内板である。三浦薬師と三浦不動尊のお開帳に併せて収蔵庫が公開されるが、茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりとは日取りが合わなかった。運慶作の五体の仏像を是非とも拝観したいと、後日独自に訪れた。

4-08 運慶作の仏像を納める収蔵庫
運慶作の阿弥陀三尊像と不動明王像、毘沙門天像はもちろん国指定の重要文化財である。国指定の文化財は、どこでも木造の本堂などから移されて、不燃構造の特別収蔵庫内に納められている。収蔵庫内は撮影が禁じられていた。その画像は「おおくすエコミュージアムの会」が発行している『三浦一族と和田義盛』という印刷物に掲載されている。
今年9月26日から東京国立博物館で、運慶が手がけた作品を一同に集めた特別展が開かれる。その記事が9月19日の朝日新聞に大きく取り上げられていて、浄楽寺の五体の像もカラーで印刷してあった。
運慶仏については、浄楽寺のパンフレットに次のようにあった。
「昭和三十四年に毘沙門天の胎内から「文治五年(1189)己酉三月廿日庚戌/大願主平義盛芳緑小野氏/大仏師興福寺相応院勾当運慶小仏師十人」(「芳緑小野氏」は義盛の妻)とある銘札が見つかり、造立は義盛の発願と判明した。静岡県伊豆の国市の北条時政ゆかりの願成就院にも運慶作の阿弥陀如来、不動・二童子、毘沙門天像があるが、浄楽寺の運慶仏は義盛の、時政への対抗心からの発願とも解される。」

4-09 浄楽寺境内にある無縁塔
お寺を回っていると、絶家などで祀り手を失った墓塔や供養塔を集めた無縁塚にしばしば出会う。
浄楽寺にもそれがあって、てっぺんに江戸時代の宝篋印塔、その下にぐるりと地蔵や観音菩薩、如来の像塔、その下に江戸初期の供養塔、最下段に江戸後半期以降の比較的新しい墓石がピラミッドのように積んであった。
祀り手を失ったとは言え無縁塚は宝の山である。墓塔、供養塔の形態変化は死者供養信仰の時代変化を表すものであり、また江戸初期の年銘を持つそれらは村の開発者を知る手がかりになるからである。この無縁塚の中にも寛文年銘の古い供養塔がいくつかあった。

4-10 浄楽寺と前島密(まえじまひそか)
国道に面した参道入口に、青銅製で変わった形でありながら実用されている郵便ポストがあり、その上に前島密の胸像が設置されていた。また、本堂裏手の小高い所にある寺の墓地には前島の墓がある。
4-06で紹介した「横須賀風物百選」の説明板に「収蔵庫前を進んだところに、わが国近代郵便制度の創始者前島密翁の墓があります。翁は、晩年をこの浄楽寺境内で送りましたが、大正八年四月二十七日、八十五歳でその生涯を閉じました。」と記してあった。浄楽寺のホームページに「明治四十四年、密は浄楽寺の境内の一部を借り受け別邸を設け隠居した。」とあるが、どういう理由で浄楽寺境内に住むようになったのかについては触れられていない。

4-11 浄楽寺前の朝市
茅ヶ崎郷土会が浄楽寺を訪れたのは平成29年3月25日の土曜日だった。浄楽寺の参道入口の脇に広場があって朝市が開かれていた。浄楽寺の拝観のあと、次の見学地に向かうバスを待つ間、朝市をのぞいた。地元産の野菜や、産地は不明だが丸ごと姿のままの魚類が並んでいた。自家製たくあん漬けや野菜を買う会員があったが、たくさん入った夏みかんを一袋購入して、一日重い思いをした人もあった。
茅ヶ崎郷土会の史跡文化財巡りは実に楽しい。

4-12 薬王寺跡(横須賀市指定史跡) (横須賀市大矢部1-13)
衣笠城に近い横須賀市大矢部にも和田義盛の遺跡がある。薬王寺跡は通りから細道をしばらく入ったところで見つけにくい。細道の突き当たりに義盛の叔父の三浦義澄の墓といわれる石塔があり、横須賀市教育委員会の説明板があった。
「薬王寺は仏頂山と号し、建暦二年(1212)、和田義盛が父義宗や叔父義澄の菩提を弔うために創建したものと伝えられるが、明治九年頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。」
この説明板の文章は理解しにくい。薬王寺は義盛の創建になるが、「もとの本堂跡」から、何時の頃かここに移ってきて、明治9年に廃寺となったと読むのだろうか。義盛創建という説が何に基づくのかの説明はないが、各地にある義盛伝説の一つではなかろうか。各地に伝説を生むほど義盛は人気者なのだ。特に三浦半島では。

4-13 伝 三浦義澄供養塔(薬王寺跡) (横須賀市指定史跡)
瓦塀に囲まれた一角の中央に大ぶりの凝灰岩製の方形石が積んである。三浦荒次郎義澄の墓と伝えられている。説明板に「最下石の四方には胎蔵界(たいぞうかい)の種子(しゅじ)が配され、二層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿(うが)たれている」とある。
一番下の石は独立しているが、その上にある二重に重なった石は一石のように見える。その上に置かれているのは混入した宝篋印塔である。三段に積まれた石は、三浦半島に多い凝灰岩製の五輪塔の一部のようにも見えるが、元の形を推測しがたい不思議な石塔である。
なお、この一角を瓦塀で囲んだしつらえは、満昌寺境内の、伝 三浦義明廟所のしつらえと同じである。ここ薬王寺跡も満昌寺の管理下にあるのだろう。

4-14 薬王寺跡にある小型の五輪塔・宝篋印塔
三浦義澄の墓と伝えられる石塔の両脇にたくさん置かれている。このような石塔は茅ヶ崎市内にも各所にある。室町時代の後半期のものと考えられるので、もとより和田義盛、三浦義澄の時代のものではない。
説明板には「これらの石塔群は当地出土の元応二年(1320)年銘の青板碑(満昌寺)とともに薬王寺の歴史を裏づける貴重な存在である」とあった。
先に紹介した満昌寺の宝物館(御霊神社社殿を兼ねる)に、2基の板碑が展示されている。満昌寺の説明板には「石造双式板碑 元応二年庚申二月日在銘 一方は弥陀三尊種子、他方は釈迦三尊種子、形も年銘も同じで、薬王寺旧跡のやぐらにあったもの」と記されていた。

4-15 天養院 (初声町和田1669)
三浦市が寺の境内に建てた説明板に次のようにあった。
「本尊の薬師像は義盛の身代わり薬師といわれていて、和田合戦の折、総身に負傷した義盛が痛さを思わず、一同は不思議な思いをした。そのとき、この薬師像が顔から胸に傷を負い、血潮が流れたという。寺には建暦三年(1213)銘の義盛の位牌と言われるものがあって「筌竜院殿前左衛門尉義盛安楽大居士」の銘がある。
平安時代中期、11世紀ころの作と推定。『風土記稿』には、義盛が舘の鬼門守護に建てたと伝える安楽寺の本尊とある。安楽寺が廃寺になって天養院に移された。」
この薬師三尊は神奈川県指定重要文化財になっている。


4-16 新井城址から望む油壺の入り江 (三浦市三崎町小網代)
新井城があった地は、江戸時代の地名を荒井といい、相模湾に突き出た小さな半島である。北は網代湾、南は油壺の入り江で、三方を海で囲まれており、城を築くには最適の地だったといわれている。
この半島の中の、南寄りの所に新井城はあった。今はやぶの中である。城跡の近くから見下ろすとすぐ下に油壺の入り江が見える。たくさんのボートなどが係留してあった。この地に建ててある説明板には次のように書かれていた。
「新井城を最後の居城として立てこもった三浦一族は、北条早雲の大軍を相手に3年間にわたって奮戦したがついに永正13年(1516)に破れた。一族の将三浦道寸義同(どうすんよしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、将兵も討ち死にまたは油壺湾に投身した。そのために湾内が血汐で染まり、油を流したようになったことから油壺の名が付けられた。」

4-17 三浦道寸義同(どうすんよしあつ)の供養塔へ (同所)
三浦義同は出家して道寸と名のった戦国時代の武将である。茅ヶ崎郷土会の平成28年度史跡めぐりは鎌倉時代のもののふをテーマにしたから、義同(よしあつ)は時代が違うが、三浦半島を根城にした鎌倉時代の名族、三浦一族の最後の当主ゆかりの地を訪ねることにした。
宝治合戦(1247年)に敗れた三浦氏のあとは同族の佐原氏が継ぐ。それから250年ほどたって世は戦国時代の初期。義同は扇谷上杉氏から新井城主の三浦時高の養子に入るが、養父たちとの間に問題を生み、結局三浦氏を乗っ取り、自らは岡崎城(平塚市)に拠り、新井城には子の義意(よしおき)を置いて小田原の北条早雲と敵対した。1512(永正9)年、早雲に追われ岡崎城を捨てて新井城に入る。籠城の末、1516(永正13)年に滅亡した。
写真の細道の突き当たりの石塔が道寸義同の墓といわれ、
討つ者も 討たるる者も 土器(かわらけ)よ くだけて後は もとの土くれ
は辞世の句とされている。

photo & report 平野会員


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相模のもののふたち (2)三ヶ所の鎌倉幕府あと(鎌倉市)

鎌倉時代の幕開けを私たちは1192(イイクニ)、建久三年と覚えてきましたが、最近はこれより数年早まるといういくつかの説があるようです。新説を取っても、滅亡は1333(元弘3)年ですから、鎌倉幕府は150年間ほど続いたことになります。
頼朝は石橋山で大庭景親軍に破れ、船で房総に逃れます。しかしすぐに勢力を回復して鎌倉に入ります。1180(治承4)年10月6日でした。鎌倉に入る様子を『吾妻鏡』は「従う軍士は幾千万、舘(やかた)の準備が間に合わず民屋を御宿舘とした」と記します。次いで9日「大庭平太景能を奉行として御亭の作事を始めらる」とあります。まず必要だったのは自分の住まいと、仕事場としての建物だったのでしょう。
建物はその年の12月に完成しました。新造の建物に移る様子を『吾妻鏡』は、「十二日晴 建物は大蔵郷(大倉郷)に作られた。隊列を組んで上総広常の宅を出発した中に和田義盛、北条時政、義時、土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠などがいた。新邸に出仕した者三百十人。時を同じくして御家人たちも居館を構えた。田舎だった鎌倉に家屋が並び立ち、門扉が軒を巡らすようになった」と記しています。「大倉幕府」の始まりです。
「大倉幕府」、「宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府」、「若宮大路幕府」を「三ヶ所の鎌倉幕府」と言いますが、将軍の邸宅を兼ねた幕府の政庁のことです。150年間に三ヶ所、移動しました。
このコーナーでは、三ヶ所の幕府政庁の位置や、頼朝とその関係者たちが登場する現代の祭礼などを紹介します。
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2-01
大倉(蔵)幕府政庁あと(現 清泉小学校 鎌倉市雪ノ下三丁目)
鶴岡八幡宮の東側に隣接した幕府政庁のあとには、現在、清泉小学校ができている。頼朝の家屋敷が鎌倉幕府の政庁を兼ねていて、1180年の頼朝の鎌倉入り直後から機能しはじめ、頼朝、頼家、実朝三代の将軍が政務を執り、実朝亡き後も存続し、1225年に、三代執権北条泰時のとき廃されて、宇都宮辻子幕府政庁に移った。

 

2-02
「大蔵幕府舊(旧)跡」の碑(鎌倉市雪ノ下三町目11の一角)
 鎌倉の史跡を訪ねていると、黒っぽい板状の石で作られた史跡案内の碑が目につく。これらは史跡や文化財の保護、案内のために、鎌倉青年会と鎌倉同人会が建てたもので、青年会建立が77基、同人会が6基、その他3基、最も古いものは大正6年、最新は平成26年であることが分かっている。(岸本昌良「鎌倉-史蹟案内碑とは何か」28年3月20日相模民俗学会例会での発表資料)
清泉小学校の西側のはずれの四つ辻にある「大藏幕府舊蹟」碑は青年会が大正6年に建てたものの一つで、この地が大倉(蔵)幕府(大倉の地にあった鎌倉幕府の政庁)跡であることを示している。

2-03
清泉小学校の生徒たちが作った大倉幕府の説明板
大倉幕府跡の碑の後に、小学生の史跡委員が作った説明板がある。朱字のタイトルは先生が書いたものらしいが、その次に、子どもたちが、碑面の文章を写し、これを口語訳している。さらに「鎌倉幕府は何故鎌倉に出来たか」の考えを頼朝系図とともにのせている。
小学生たちの手書き文字が輝いている。このようなものに出会えるのも史跡めぐりの楽しさである。

2-04
清泉小学校の生徒たちが作った大倉幕府東御門(ひがしみかど)の説明板
「三ヶ所の鎌倉幕府政庁跡」の地図をもう一度見て貰いたい。清泉小学校の東西に、東御門(ひがしみかど)と西御門(にしみかど)の碑の位置が示されている。大倉幕府の東門と西門の位置とされている。
説明板には「西御門の地名だけが残っている」とある。現在は、清泉小学校・鎌倉八幡宮の北側一帯が「西御門」と住居表示されていて、江戸時代の西御門村の範囲と重なる。
大倉幕府跡は現在の鎌倉市雪ノ下三丁目の一角で、江戸時代は雪ノ下村に含まれていた。ということから、「東御門」は地名としては残っていないのである。

2-05
東御門(ひがしみかど)の碑(鎌倉市西御門二丁目の一角)

大正15年に鎌倉町青年団によって建てられた碑。「大蔵(倉)幕府には東西南北の四ヶ所の門があった」と書かれている。また「東御門は法華堂の東方一帯の地名」ともあるが、法華堂の東側の地名は”西御門(にしみかど)”で、そのさらに東は”二階堂”、西御門の南隣は”雪ノ下”なので、清泉小学校の史跡委員が言うように、”東御門(ひがしみかど)”という地名は無かったようだ。

 

 

2-06
西御門(にしみかど)の碑
鶴岡八幡宮の東隣にある横浜国立大学付属小中学校校庭の東北隅の道路脇に立っている。
鎌倉時代には、今の付属小中学校の敷地は、八幡宮の一角だったのか、大倉幕府政庁の一角だったのは分からないが、どちらにしても幕府政庁と八幡宮は隣り合っていたことになる。頼朝は八幡宮を篤く信仰していたので、隣同士にある両者の関係が密接だったことを示している。

 

 

 

2-07
辻堂の諏訪神社の祭礼
新しい武家政権を打ち立てて、鎌倉に幕府を置いたのは源頼朝である。頼朝は全国区としての人気を誇るが、我が神奈川県ではことに好まれ、いろいろの場面に登場する。
辻堂元町三丁目の諏訪神社は江戸時代の辻堂村の鎮守で、今に続く神社である。七月下旬に行われる例祭には東・西・南・北の四町内から人形山車が出る。向かって左が東町の頼朝人形、右は南町の武内宿禰(たけしうちのすくね)人形。

2-08
東町の頼朝人形
右手に扇、左手に太刀を持ち、直衣(のうし)を着し、立(たて)烏帽子(えぼし)を被った頼朝。直衣は貴族の日常着だったそうであるから、武家である頼朝は着ることが出来なかったようで、建久元年(1190)11月、京都で後白河法皇に会う際には、特に直衣の着用の許可を受けなければならなかった(『吾妻鏡』による)。
実に写実的な頼朝人形である。

 

 

2-09
藤沢市辻堂の諏訪神社 (藤沢市辻堂元町三町目15-15)
おそらく長野県の諏訪湖のほとりにある諏訪大社を勧請した神社で、祭神は建(たけ)御名方(みなかたの)神(かみ)とその妻と伝えられる八坂刀売(やさかとめの)神(かみ)。
祭礼に登場する人形山車4台は藤沢市指定有形民俗文化財である。指定年は平成5年11月、辻堂諏訪神社人形山車保存連合会の所有、管理となっている。

 

2-10
藤沢市鵠沼の皇大神宮の祭礼(藤沢市鵠沼神明二丁目11-5)
皇大神宮は、社伝では平安時代初期の創建、平安時代末期には伊勢神宮領大庭御厨の総鎮守であったという。(神奈川県神社庁、神社紹介のホームページ中、皇大神宮)
8月に行われる例祭に、9台の人形山車が繰り出す。その中で、もののふでは頼朝、義経、奈須の与一が登場する。
人形山車9台は、昭和63年12月に藤沢市有形民俗文化財に指定されている。

 

2-11
上村町の頼朝人形

鎧(よろい)の上に陣羽織を羽織った頼朝が、左手をかざして遠方を眺めている。若々しい顔つきの人形である。

 

 

 

 

 

2-12
宿庭町の義経人形

鎧(よろい)を付け、兜をかぶり、太刀を佩き、右手に扇、左手に弓を持つ、戦陣に望む姿の義経人形。

 

 

 

 

 

2-13
宮之前町の那須与一人形

鎧(よろい)姿(すがた)で弓を持ち、馬を駆る那須与一人形。
「寿永3年(1184)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、併せて所領の那須野百石を寄進した」と社伝にある。(神奈川県神社庁、神社紹介のホームページ中、皇大神宮)

 

 

 

2-14
「宇都宮(うつのみや)辻(つじ)幕府舊蹟」の碑(鎌倉市小町二丁目15-19)

稲荷社の境内に鎌倉町青年会が建てた史跡案内碑がある。その碑面には「宇都宮辻幕府」とあるが、今は「宇都宮(うつのみや)辻子(ずし)幕府」といわれ、辻子(ずし)とは小道のことという。
三代執権北条泰時は次第に頭角をあらわし、源氏三代が終わったあと合議制の執権政治体制をめざした。そして政子が薨じた1225(嘉禄元)年に大倉幕府政庁をこの地に移した。翌1226年、若い藤原頼経はこの御所で元服し、四代将軍となった。

 

 

2-15
宇都宮辻子幕府あとの稲荷社(鎌倉市小町2丁目15−19)

若宮大路の二ノ鳥居東側で、八幡宮に向かって右にある路地に入り、すぐの所で北に進んだところ、小町二丁目の一角に赤い幟を立てた稲荷社がある。幟には「宇都宮稲荷大明神」とある。この稲荷社の名前は、鎌倉時代にこの付近にあった宇都宮幕府庁舎(この時代の鎌倉幕府を宇都宮幕府という)に基づいている。

 

2-16
「若宮大路幕府舊蹟」の碑(鎌倉市雪ノ下一丁目13-26)
1236(嘉禎2)年、執権泰時は宇都宮辻子幕府政庁をそのすぐ北隣に移した。新政庁は若宮大路幕府と呼ばれる。宇都宮幕府政庁

を拡幅したものとか、若宮大路に面していたことがその名の由来だという説があるそうである。
以来鎌倉幕府の政務はこの若宮大路幕府政庁で行われ、1333(元弘3)年の新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が壊滅するとともに終焉を迎えた。(Wikipediaから引用)

 

 

photo & report 平野会員

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相模のもののふたち (1)武士の発生

武士の発生は、その源は摂関政治にある。その時代、中央の政治は形骸化し、藤原氏の一門、特に藤原北家が朝廷の枢要な官職を私物化した為、藤原家でも北家以外及び天皇家でも天皇になる人以外やその他の下級貴族等は、都ではその志を遂げられない。そこで国司となって地方に下り、貴種を尊ぶ地方の豪族と婚姻を結び、勢力を扶植し、任期終了後も都に戻らず地方に永住して、広大な土地を私有し、一族縁者を招き寄せ地元の土豪や農民らを懐柔して、多数の家の子・郎党として抱えた。結果、地方に豪族が 勃興する様になった。この間、武士は常に新田開発に励み、所有土地を拡大し続けた。

武士の中央政界での地位
発生当初は武士といえども「王家の犬」と言われ、天皇家、藤原家を守る役目に過ぎなかった。摂関政治から院政期に入ると、天皇家、藤原家ともに内部抗争が起こり、武士の力が必要となり武力を頼みとするようになった。その後保元・平治の乱を通して、武士が中央政界をリードし、最後には平 清盛のクーデターにより、武士が初めて国政の実権を握った。

武士の性質
上記の様に、武士は天皇家の子孫と地方の豪族が結ばれて武士団を形成、そこで、地方豪族の土地を守る事、更には新田開発してどんどん土地を開拓した結果、「一所懸命」と言われるように、その土地を守る事が武士の最大の本分であった。それだからこそ桓武天皇の子孫である坂東平氏は、「王氏を出でて遠からず」と家柄も良く、名声もある源氏を、同じ平氏の清盛一統より頼りにしたのである。

平 将門の乱 (939-940 天慶2-3年)
平安前期、関東におこった内乱。同時期、西国でおこった藤原 純友の乱とともに承平天慶の乱ともいう。桓武平氏は関東各地で勢力を伸張、将門も父の遺領をめぐり一族と紛争をおこし、935(承平5)おじの国香を殺害。翌年おじ良兼・良正、国香の子貞盛らの攻撃をうけたが、常陸、下野、下総でこれを破る。938(天慶1)将門は武蔵権守興世王武蔵介源 経基と足立郡司武蔵竹芝の争いの調停にあたったが、経基が朝廷に将門謀反を奏したため審問をうけた。また国司の追捕をうけた常陸住人藤原玄明が将門に助けをもとめたことから常陸国府を焼き払い、さらに下野・上野国府をも陥れ、自ら「新皇」と称して下総猿島郡石井郷に王城を営み、文武百官を任じて一族を関東の国司とするに至った。940朝廷は藤原 忠文を征東大将軍に任命したが、それよりさきに平 貞盛・藤原 秀郷に攻められ、将門は敗死した。

平 将門 (?ー940、?ー天慶3年)
平安前期の武将。相馬小次郎とも。高望王の孫。父は良将。本拠地は下総。父の遺領を巡る一族の紛争から内乱に発展し、平 貞盛らに討たれた。現在、神田明神などにまつられる。

平 貞盛 生没年不詳
平太・平将軍とも。平安前期の武人。父は国香、母は下野大じょう藤原 村雄の娘。京で仕官、935(承平5)父が平 将門に殺されると常陸に帰り、940(天慶3)将門を討った。その功により右馬助。鎮守府将軍、陸奥守などを歴任し、従四位下に昇進。子孫に伊勢平氏が出た。

源 経基 (?ー961、?ー応和1年)
平安前期の武将。清和源氏の祖。父は清和皇子の貞純親王。939(天慶2)武蔵介の時、平 将門の謀反を密告。平 将門の乱の鎮定に向かい、後藤原 純友の乱の鎮定に従った。

平 忠常の乱 (1028-31、長元1-4年)
平安中期、関東でおきた反乱。平 将門の乱後、関東各地に桓武平氏一族が勢力をふるったが、なかでも忠常は上総・下総に大勢力を形成し、朝貢を拒み徭役も供せず、1028(長元1)安房に侵入して国守を殺害した。朝廷は平 直方を追討使に任じて討たせたが失敗。1030忠常を家人とする甲斐国守の源 頼信を派遣。忠常は頼信の勢威に屈し、戦わずして降伏、京都護送の途中、美濃で病死した。この乱以後、東国は清和源氏の強固な地盤となった。

平 忠常 (967-1031、康保4-長元4年)
平安中期の武将。名は忠恒とも書く。父は忠頼、祖父は鎮守府将軍の良文。上総介、武蔵横領使、下総権介を歴任。1028(長元1)房総地方で平 忠常の乱をおこし、源 頼信に降伏して護送される途中、美濃で病死した。千葉氏・上総氏はその子孫。

平 直方
平 貞盛より3代目。平 忠常の乱の追討使に任命された。将門の乱以来平氏は貞盛流と良文流とは宿怨にあり、今回直方が朝廷に懇願して、忠常追討の大義名分を得て、長年の宿敵を討とうとした。しかし戦況芳しくなく、翌々年解任された。追討使が源 頼信に変わると、忠常は戦わずして降伏した。これを見た直方は関東での勢力維持は困難と思い、源 頼信の子頼義に自分の娘を嫁がせて、相模の所領及び鎌倉の館を譲り渡した。是より源氏は関東に地盤を築いた。

源 頼信 (968-1048、安和1-永承3年)
平安中期の武将。河内源氏の祖。父は満仲。左馬権守や諸国の守、鎮守府将軍を歴任。藤原 道長に仕え、平 忠常の乱を平定した。兵法にもすぐれ武名も高い。

前九年の役 (1051-62、永承6-康平5年)
陸奥でおきた反乱。代々の陸奥俘囚の長、安倍氏は奥六郡に半独立的な族長制を形成した。頼良(のち頼時)の時、隣郡を攻略したので、朝廷は源 頼義・義家父子に討たせた。頼時は一時帰順したが、中傷により硬化して再び乱をおこし、1057(天喜5)鳥海柵で敗死した。しかしその子貞任・宗任らの勢力が強く、頼義らは苦戦したが、出羽の豪族清原氏の助けを得て1062鎮圧に成功した。

源 頼義 (988-1075、永延2-承保2年)
平安中期の武将。父は頼信。名将の聞こえ高く、11C半ば陸奥の安倍 頼時・貞任父子の反乱に際し、長い戦いの末これを討滅、東国での源氏の勢力を強化した。

後三年の役 (1083-1087、永保3-寛治1年)
奥羽の豪族清原氏の乱。前九年の役後、清原氏は鎮守府将軍として奥六郡にも威をふるったが、真衡は義弟藤原 清衡・清原 家衡らと内紛をおこした。真衡の病死後、家衡は清衡・吉彦秀武らと争い、清衡の要請に応じて下向した源 義家は苦戦の後、1087ついにこれを平定。これにより清衡は奥州に、源氏は東国に確固とした基盤を築いた。

源 義家 (1039?ー1106、長暦3?ー嘉承1年)
平安後期の武将。八幡太郎と称す。父は頼義。1062(康平5)父頼義に従って前九年の役を平定、その功により翌年従五位下出羽守となる。1083(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍となり、出羽清原氏の内紛に介入。この後三年の役にも勝利したが、朝廷からは私闘とみなされたため私財で将士をねぎらったという。源氏の棟梁として信望を集め、義家への所領寄進が禁止されるほどであった。

院政 (1086-、応徳3年~)
譲位した天皇である上皇あるいは法皇が、院庁において国政を司る政治形態。平安前期の宇多上皇の治世にその萌芽形態がみられるが、1086(応徳3)白河上皇のよる院政から本格化。以後、鳥羽・後白河と3代続き、この時代を院政期と称する。白河・鳥羽院政期には、天皇と院、摂関家と院近臣たちとのあいだに対立が生じ、また有力寺社勢力とのあいだにも対立が進行した。これらの政治的対立にそなえて、上皇は武士の棟梁を取り立ててこれに当たらせるとともに、自らも北面の武士をおいて武力的警護を固めた。こうして院政は武士の棟梁が中央政界に政治的に進出する機会を与えた。

平 忠盛 (1096-1153、永長1-仁平3年)
平安後期の武将。父は正盛。白河院の寵を得て累進、検非違使・左衛門大尉、播磨・伊勢・備前などの守を歴任。正四位上。1129(大治4)と1135(保延1)山陽・南海の海賊を討ち、西国に基盤をつくった。その功により刑部卿に進んで内裏への昇殿を許され、平氏の地位を高める。また、白河院領肥前神崎荘の荘司となって日宋貿易に関係し、平氏繁栄の基礎をつくった。家集に「平 忠盛集」がある。

保元の乱 (1156、保元1年)
天皇家・摂関家内部の権力抗争に端を発し、京都でおこった内乱。1155(久寿2)近衛天皇が没すると後白河天皇が即位するが、その際に子の重仁親王即位を主張する崇徳上皇と、後白河天皇を推す鳥羽法皇妃美福門院・関白藤原 忠通・藤原 道憲(信西)らの対立が表面化。さらに摂関家内部でも、前関白藤原 忠実が寵愛する氏長者で左大臣の藤原 頼長(弟)と関白忠通との対立が進行、頼長が崇徳上皇と結び、政界を二分する情勢となった。1156年7月鳥羽法皇の死を契機に後白河天皇方は平 清盛・源 義朝らを招集、崇徳上皇方も源 為義・平 忠正らを動員して、ついに武力衝突に至った。戦闘は義朝・清盛の白河殿夜討ちにより、わずか数時間で後白河天皇方が勝利、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、忠正・為義らは公式に永く途絶えていた死刑に処せられた。中央の政争で武士が活躍したことから、武士の政界進出の端緒となった。

源 為義 (1096-1156、永長1-保元1年)
平安後期の武将。父は義親。父の謀反により祖父義家の4男義忠の養子となり、義忠の死によって源氏の家督を継ぐ。1146(久安2)検非違使となり、六条堀川に住んだので六条判官と言われた。子為朝の九州での乱行のため、1154(久寿1)解官され、家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱では崇徳上皇方について敗れ、義朝の助命運動も及ばず殺された。

平 忠正 (?ー1156、?ー保元1年)
平安後期の武将。父は正盛。忠盛は兄。清盛の叔父。左馬助に至るが、鳥羽院の勘責をうけ、以後散位。藤原 頼長に近侍し、保元の乱で敗北。斬首され、所領は後白河天皇の後院領となる。

平治の乱 1159(平治1年)
保元の乱後、戦功のあった平 清盛は後白河上皇の寵臣藤原 通憲(信西)と結んで権勢を誇った。一方、戦功の薄かった源 義朝は、信西と対立していた院近臣藤原 信頼と組んで清盛の熊野参詣中に挙兵し、清盛・信西の打倒をはかった。義朝・信頼は上皇の幽閉、信西の殺害等に成功し一時権力をにぎったが、急ぎ帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝は尾張で殺された。この乱により平氏の全盛がもたらされた。

源 義朝 (1123-1160、保安4-永暦1年)
平安後期の武将。父は為義。鎌倉を拠点として東国に勢力を張り、武士団を編成。1153(仁平3)下野守。保元の乱後、左馬頭となったが、平 清盛の勢力増大を不満とし藤原 信頼と結んで平治の乱をおこした。しかし清盛に敗れ、敗走途中、長田 忠致に殺された。

源 義平 (1141-1160、永治1-永暦1年)
平安後期の武将。父は義朝。15歳で叔父義賢を武蔵大蔵館で破り、武名をあげて悪源太と称された。平治の乱で父に従い奮戦したが、敗北。飛騨で兵を募り、義朝の死後、平 清盛を狙ったが、とらえられて殺害された。

平氏政権(六波羅政権とも) 1179(治承3年)クーデターにより獲得
平安後期、平 清盛によって樹立された政権。白河・鳥羽院政期、院政の武力的支柱として台頭した平氏は、保元・平治の乱を経て政局を左右する勢力となった。1167(仁安2)以降、後白河上皇の勢力と同盟しながら国家権力を分有。しかし、宮廷内外にわたる急激な勢力拡張は既成勢力の反発を招き、治承年間(1177ー1181)には院との暗闘が表面化。1179クーデターを敢行、院政を停止して単独政権を樹立し、1180清盛の娘徳子(建礼門院)が生んだ安徳天皇を即位させた。平氏政権の基盤は、王朝の官職の独占、知行国や国守の集積、荘園の大量所有、日宋貿易などにあったが、その反面平氏は、院政期に高まった都市貴族層と在地諸勢力の間の政治的・経済的対立の圧力を、支配層内部で孤立したまま一手にひきうける形となった。同年、以仁王・源 頼政らが挙兵すると、反乱は全国化し、反平氏勢力は強大となった。1183(寿永2)源 義仲に追われた平氏は都落ちし、その政権も終わった。

以仁王 (1151-1180、仁平1-治承4年)
平安末期の皇族。後白河天皇の子で、母は藤原 成子。邸宅が三条大路、高倉小路辺にあったので、高倉宮とも呼ばれる。1165(永万1)に出家、学問、笛などに長じていたが生涯は不遇であった。後白河の皇子であったが、入内させている徳子所世皇子の即位をめざしていた平氏によって圧力をうけ親王宣下すらも得られなかった。加えて1179(治承3)に9平氏に所領を奪われ、翌年に源 頼政のすすめによって反平氏の挙兵を行い、諸国源氏に平氏打倒の令旨を発した。事は事前に漏れ、園城寺の僧兵を頼り、ついで南都の僧兵を頼って奈良に向かう途中で戦死した。しかし令旨は全国に運ばれ、源 頼朝・義仲などが挙兵に応じた。以仁王は1180に没したが、反平氏武力蜂起の大義名分は以仁王の令旨に応じるというところにあったため、以後しばらく以仁王生存説が意図的に流布されていた。

平 清盛 (1118-1181、元永1-養和1年)
平安後期の武将。通称平相国。法名静海(浄海)。父は忠盛。母は祇園女御の妹。若年期の異例の出世から、実父を白河法皇とする説も有力。忠盛死後、平氏武士団の棟梁となり、保元の乱で後白河天皇方として活躍。続く平治の乱では源 義朝を滅ぼして、朝廷の侍大将としての地位を確立した。後白河上皇や二条天皇の絶大な信頼を獲得し1160(永暦1)正三位参議として公卿に列せられ、1167(仁安2)には従一位太政大臣に昇り詰めた。翌年重病を患って出家するが、上皇と協議して妻時子の妹滋子(建春門院)が生んだ高倉天皇を即位させ、その後も隠棲した摂津福原から政界に強い発言力を保持。1171(承安1)には娘徳子(建礼門院)を入内させ、平氏全盛期を現出した。しかし1177(治承1)鹿ヶ谷事件が発覚、平氏に対する反発が強まるなか、1179関係の悪化した後白河法皇を幽閉してクーデターを強行。翌年徳子の産んだ安徳天皇を即位させ国政の実権を掌握したが、以仁王・源 頼政の挙兵を契機に内乱が全国的に拡大(治承・寿永の内乱)。福原遷都も失敗し、1181(養和1)内乱を収拾出来ぬまま病没した。

源 頼朝 (1147-1199、久安3-正治1年 在職1192-1199)
鎌倉幕府の初代将軍。父は義朝、母は熱田大宮司藤原 季範の娘。1158(保元3)、12歳で皇后宮権少進に任官する。1159(平治1)には上西門院蔵人・内蔵人となるが、同年12月の平治の乱に敗北。逃走中に美濃で捕われ、伊豆に配流された。伊豆配流は20年に及んだが、1180(治承4)8月以仁王の令旨をうけて挙兵。石橋山で平氏軍に大敗したものの、安房逃亡後は千葉・上総氏などを従えて勢力を拡大、10月には相模鎌倉に入り、南関東を制圧した。朝廷・平氏政権に反逆したまま、御家人を統率する侍所の設置や独自の論功行賞を行い、この間幕府は東国の独立国家の様相を呈したが、平氏西走後の1183(寿永2)10月宣旨ではじめて朝廷からその東国支配が公認された。翌年公文所・問注所を設置して幕府体制を強化する一方、弟範頼・義経の軍を西上させて源 義仲を追討、さらに平氏を摂津一の谷から追い落とし、1185(文治1)3月長門壇ノ浦でついに平氏を滅亡させた。その功により従二位に叙せられたが、同年10月義経がそむくと、北条 時政を上洛させて国地頭の設置を朝廷に要求、また九条兼実を中心に親幕派公卿による朝廷運営を実現させた。1189にはみずから軍を率いて奥州の藤原泰衡を討滅。翌年上洛して権大納言・右近衛大将に任官したが、まもなく辞し、1192(建久3)7月征夷大将軍に任じられた。1195東大寺再建供養のため再び上洛、その際に娘大姫の入内を推進するが失敗した。1199(正治1)落馬がもとで没したと伝えられている。

report 源会員

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第45回茅ヶ崎市郷土芸能大会


市民文化会館が使えないために、今年は市の総合体育館で行われました。日取りは11月23日(木・祝日)、12時開場、13時開演。

演目は、
茅ヶ崎高等学校文楽部「寿式二人三番叟」
民話の会「茅ヶ崎の民話 車地蔵」
レクリエーション協会「茅ヶ崎ふるさと音頭」
柳島エンコロ節保存会「柳島御座敷甚句」
円蔵祭囃子保存会・岡崎部会「円蔵ばか踊り」
芹沢焼米搗唄保存会「焼米搗唄」
上赤羽根太鼓保存会「上赤羽根甚句」
南湖餅搗唄保存会「餅搗唄」
南湖麦打唄保存会「麦打唄」
上赤羽根太鼓保存会「祭囃子」
芹沢焼米搗唄保存会「ササラ盆唄」
円蔵祭囃子保存会「円蔵祭囃子」
中島中学校一年生・柳島大漁船上げ唄好友会「大漁船上げ唄」
中島中学校二年生・柳島エンコロ節保存会「エンコロ節」
の14種目。

暖房の無い広い体育室の半分を使い、客席を二階観覧席に設けて見下ろすという勝手違った会場でしたが、いずれの団体も例年に変わらない熱演を披露していました。
茅ヶ崎市教育委員会主催で、茅ヶ崎郷土芸能保存協会が実施するこの郷土芸能大会を、茅ヶ崎郷土会はその第一回からバックアップしています。

Photo & report 平野会員

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