第303回 その-2 茅ヶ崎市 (下寺尾の史跡)2022.12.10


その-2 下寺尾の史跡 ⑧原のサイノカミ~⑬十二天神社

その-1下寺尾遺跡の続きです。

令和4年(2022)12月10日(土)実施

コース
茅ヶ崎駅改札前集合(8:50)―香川駅集合(9:10)―(徒歩 以下同じ)―①駒寄川―②川津(かわづ)跡―③西方(にしかた)貝塚など―④七堂伽藍跡碑―⑤下寺尾廃寺跡―⑥西方遺跡(弥生時代の環濠集落跡)―⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)―⑧原のサイノカミ―⑨陣屋の池跡―⑩領主の松平氏陣屋跡―⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ―⑫おもよ井戸跡―⑬十二天社―⑭白峰寺―⑮鎮守の諏訪神社(解散)
(解散は諏訪神社12:30の予定でしたが、実際はこれを割愛し、白峰寺12:30としました。)

事前の勉強会
令和4年11月15日(火)に市立図書館で行いました。

⑧原のサイノカミ

 道祖神と呼ぶ人が多いようですが、半世紀くらい前まで、地元ではサイノカミ、あるいはセーノカミと呼んでいました。小正月(1月15日)ころに行うドンドヤキ(サイトヤキ、セートヤキともいう)は、このサイノカミのお祭りです。
 一つの村が数ヶ所に分かれて祭っています。その祭る単位はチョウナイと呼ばれる家々のまとまりです。はじめにも書きましたが、下寺尾は4チョウナイに分かれていて、このサイノカミは原チョウナイで祭っています。
 正面に「道祖神」・向かって右側面に「文化二(1805)乙丑年正月吉祥□」・左側面に「願主/氏子中/世話人 佐藤□右エ門」と彫ってあります。200年ほど以前に作られたものです。

⑨陣屋の池 跡

 江戸時代に下寺尾村を収めていたのは旗本の松平氏でした。
 のちに紹介しますが、江戸時代の初期に、松平氏は領地の下寺尾村に、一時屋敷を構えていました。その場所は「陣屋(じんや)の跡」と呼ばれています。
 その陣屋跡から南に下る、人ひとりが通る細い坂道があり「陣屋の池坂」と呼ばれていました。道の西側に小さな池があったことからそのような名が付いたようです。地元では「火災の時の用心池として造られたもの。松平氏の乗馬の飲み水として使われた。」と伝えています。
 今は埋め立てられて個人住宅が建っています。
 なお、白峰寺の『寺誌』には「昭和40年代まで存在していた。」と書いてあります。

⑩陣屋跡

領主 松平氏の陣屋跡(郷中)

 江戸時代の下寺尾村の領主、松平氏の陣屋の跡は個人の所有地となり、住宅が建っています。
 『風土記稿』下寺尾村、白峰寺の項に、松平重継がこの村で生まれたと書いてあります。

白峰寺
景徳山と号す。曹洞宗。足柄下郡早川村(現 小田原市)海蔵寺末。本尊阿弥陀。開山は我国、天文13年(1544)9月23日卒。開基 古地頭 松平隼人正重継(寛政重修諸家譜で4代)なり。家譜によるに、重継は忠政(2代)の孫なり。慶長12年(1607)当村に生まる。始め七十郎と称す。また孫太夫に改む。寛文11年(1671)6月3日卒。年64歳。境内に葬り、月照院白峯道皓と諡(おくりな)す。
按ずるに、開山我国が卒年を去ることはなはだ遠し、重継は当寺を中興せし人にや。

(曹洞宗とありますが本尊は阿弥陀となっています。また、寺内の松平氏の墓石の戒名をみると浄土宗系のものが多数です。寺の宗旨は以前は違っていたのかも知れません。)

⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ

角柱型の道祖神
右側面に「安政二(1856)乙卯年」
正面に「道祖神」
左側面に「氏子中」

  ⑧原チョウと⑪郷中のサイノカミを紹介しましたが、下寺尾にはこの他に池端(いけはた)と北ヶ谷(きたげやと)のチョウナイにも祭られています。
 池端は庚申講中が建てたほぼ同型の双体立像2基で、年銘も同じ「天明6(1786)」。
 北ヶ谷は「安永8(1779)」の双体立像と、自然石に「道祖神」と彫った昭和53年建立の新しいものが立っています。双体立像が折れたので昭和になって再び建てたものと思われます。

⑫おもよ井戸跡

「その昔「おもよ」さんと云う可愛い娘がいたそうな。彼女は虫歯に悩み、痛みに耐えかねて、その井戸に身を投げて死んでしまった。その井戸は昭和30年頃までは水がコンコンと湧き出ていた。その水で含嗽(がんそう=うがい)をすると、たちどころに歯の痛みが治ると信仰を集めていた。今は水が枯れてしまったが、伝説と共にその場所は残っている。」(白峰寺 『寺誌』)

「虫歯の娘「おもよ」が井戸に飛び込んで死んだ所。海老名の大谷におもよ井戸があり、ここの水で目を洗うと眼病が治ると云う。」(岡崎・樋田メモ)

 茅ヶ崎市史3巻P581に明治29年生れの川島イトさんが語るおもよ井戸の伝説が載っています。
「下寺尾にオモヨ井戸という井戸があった。やぶの中で、いつも冷たい水が出ていた。奥の方に入っていくと井戸があるといわれていた。池の中に田島(たじま)のように突き出ているところがあり、そこにカツの木(ヌルデ)があり、藁ツトがぶら下げてあった。虫歯で苦しんだ人が願をかける。治ったら御札に塩をツトッコに入れてあげた。オヨモ様という人がむし歯で苦しんでその井戸に身を投げたので、それからそこに願をかけると治るといわれている。」

当会の町田悦子会員の話によると、茅ヶ崎の下寺尾のおもよ井戸は「おも井戸」とも呼んだそうです。
海老名市の大谷にある大谷神明社の近くにも「おも井戸」があり、綾瀬市の早川の五社神社のそばにも「おも井戸」があります。この3つの「おも井戸」に伝わる話の内容には多少の相違はあるものの、同じ名を名乗り、信仰の池として土地の人に親しまれ続けてきたという共通点があります。
とすると、離れたところに同じようなものがあるのはなぜか?という課題が出てきます。

⑬十二天社

 茅ヶ崎市の芹沢から西に向かって下り、寒川町方面に延びる県道は、整備されるまえは「十二天の坂」と呼ばれていました。
 この道路の北側の小高いところに十二天社があります。この神社は、仏教を守る12の神々を祭るものです。
 「岡崎・樋田メモ」に依ると、拝殿は昭和37年9月15に再建されたものだそうです。また、下寺尾の鎮守、諏訪神社の下宮で、各村の下宮の多くは明治時代に寄せ宮(統合)されたが、そうならずに、残されて今にあるとも書かれて居ます。下寺尾を含む小出地区には、芹沢の冠木、堤の十二天にも寄せ宮されなかった十二天社があるそうです。
 寄せ宮を免れたのは、十二天が仏教を守る神々であるために、神仏分離を目指した明治政府の宗教政策により、神道の神々に仏教の神である十二天神を集合させなかったからと考えられます。
 社(やしろ)は高床式になっており、その床下の空間に縄文時代の大きな石棒が立ててあります。なぜこのようになっているのは定かではありませんが、珍しいことです。

十二天神社

その-3白峰寺に続きます。

【参考・引用文献】
・『新編相模国風土記稿』下寺尾村の項
・『明治12年 皇国地誌村誌』下寺尾の項 (『茅ヶ崎地誌集成』に収録)
・『白峰寺 寺誌』
・『茅ヶ崎市史 3巻』
・『岡崎 樋田メモ』岡崎孝夫、樋田豊広著「下寺尾調査」(未刊)

report 平野文明会員

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第303回 その-3 茅ヶ崎市(下寺尾の白峰寺)2022.12.10

その-3 白峰寺

その-2 下寺尾の史跡の続きです。

白峰寺境内の石仏を見る

令和4年(2022)12月10日実施

コース
茅ヶ崎駅改札前集合(8:50)―香川駅集合(9:10)―(徒歩 以下同じ)―①駒寄川―②川津(かわづ)跡―③西方(にしかた)貝塚など―④七堂伽藍跡碑―⑤下寺尾廃寺跡―⑥西方遺跡(弥生時代の環濠集落跡)―⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)―⑧原のサイノカミ―⑨陣屋の池跡―⑩領主の松平氏陣屋跡―⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ―⑫おもよ井戸跡―⑬十二天社―⑭白峰寺―⑮鎮守の諏訪神社(解散)
(解散は諏訪神社12:30の予定でしたが、白峰寺で終了の予定時間になったためにこれを割愛しました。)

⑭景徳山白峰寺 (曹洞宗)

茅ヶ崎市下寺尾1551 小字では「北方」、チョウナイの名では「北ヶ谷(キタガヤト)」にあります。
白峰寺の見学のポイントは、(1)領主の松平家系の墓碑と、(2)江戸時代に白峰寺の信仰が江戸に広がっていたことの2点に絞りました。



松平家の墓碑
松平家は、江戸時代の下寺尾村の領主の一人で、初代忠政が、天正18年(1590)に村内の300石を宛がわれたことで下寺尾村との関係が出来ました。


境内の本堂の西側の道を北に上ると、松平家の墓地があります。
墓地の東側に5基、北側に7基、西側に4基の墓碑が並んでいます。
南を向いて北側に並ぶ7基が、合葬されているものもありますが、④重継(重次とも書く)から⑬勘義までの墓碑です。④重継の卒年は墓碑の銘に寛文11年(1671)と、⑫勘義は文久(1863)と彫ってあります。

④重継は、先に「⑩陣屋跡」で紹介したように、『風土記稿』に下寺尾村の館で生まれたと書かれている人物です。

両脇に並ぶ墓石は、一族あるいは奥方たちのものと思われます。

江戸時代の領主の墓石がこれだけ残っているのは、堤の浄見寺(大岡家)と浜之郷の龍前院(山岡家)の墓地に並ぶ貴重な遺跡です。


江戸に広がった白峰寺の観音信仰
白峰寺には江戸の商人たちが奉納したものがいくつかあります。

まず、参道の入り口に植え込みに囲まれた祠(ほこら)があり、中に石の柱(標石)と石の地蔵菩薩が並んでいます。
歌碑も2基あり、その1基に
 里まもる観音様も江戸育ち包む白衣も子等安かれと
  「昭和53年10月吉日 地蔵尊並観音碑債権記念 白峰寺檀徒一同」とあり、
   祠の中の白衣観音の標石に関係する歌です。

もう一つの碑は
 朝霧に深き緑の白峯の後世守り給いし地蔵尊 佐藤セン
  「昭和60年3月吉日建立」と刻まれています。地蔵尊を詠んだものです。


中央の白衣観音の標石は傷んでいて読めない文字がありますが、『白峰寺 寺誌』16頁に次の様に記してあります。
 正面 子安観世音菩薩
 右横 惟時天明二壬寅秋 八月十四日造立
 左横 江戸芝源助町 施主 伊勢屋孫兵衞
 

「子安観音」とは「白衣観音」のことで、「白衣観音にお参りする入口はここだよ」と示してある標柱です。江戸時代半ばには、白峰寺の白衣観音は江戸にも知られていたのです。
地蔵尊は県道の南側に立っていたのですが、破損していたのでしょう。昭和53年に再建され、標柱と並べて新しい祠の中に祭られました。
 

白峰寺の白衣観音(子安観音・子育て観音とも)
 『白峰寺 寺誌』には、同書18頁の「白峰禅寺観音霊場記」(天明2年:1782)を引いて、次の様に記してあります。
 「天明元年3月18日 江戸芝宇田川町花屋治郎兵衛は、唐渡りの玻璃(ガラス)の観音像を白峰寺に奉納した。」
 「観音霊場記」を読んでみると、白峰寺11世の梅薫和尚が江戸で布教し、観音像の奉納はその成果によるもので、観音菩薩を信仰していた伊予(愛媛県)松山藩主の定国卿も、天明元年(1781)に「円通」の書を奉納したとあります。また同年3月7日には観音堂が完成したとあります。「梅薫和尚は同年7月、白峰寺に帰山された」とも書かれています。

 残念なことに、信仰を集めた玻璃の観音像は関東大震災の折に、本堂や観音堂、庫裏と一緒に灰燼に帰したそうです。
 
 「円通」の書は天明2年3月、江戸の布袋屋六兵衛が扁額に仕上げ、その裏に沿革を記しました。現在は本堂に掛けてあり、白峰寺の寺宝となっています。



梅薫和尚の江戸での布教を伝える禁盃石 

白峰寺に昇る階段の下に
「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)
と彫った禁盃石(きんぱいせき)があります。寺に酒さかなを持ち込むな!、つまり修行に専念しなさいという意味です。

この石柱の一面に次の様に書いてあります。

「前の養命(梅薫和尚)が現住の時、江戸に托鉢修行し大乗経千部を読修した。ここに禁盃石を建てるに当たって、法華経を中に納め、天下太平・国家安全・山門繁栄・御開基(松平氏のこと)の武運長久・村方和合などを願うものである。」
「時に安永三年(1774)七月 現住智暾(ちとん)叟」
「前の当山十一世 大嶺叟梅薫これを造立」

「11世大嶺叟梅薫」と「現住(現在の住職)12世の智暾叟」との関係が分かりにくいですが、建てたのは11世梅薫和尚で時は安永3年、その時の住職は12世智暾和尚ということです。
梅薫和尚は、江戸に布教したことの記念にこの禁盃石をたてましたが、その時には住職を次の12世智暾和尚に譲っていたことになります。

白峰寺の「石坂」と「手水鉢」
禁盃石の横に、本堂に昇る石の階段(「石坂」)があります。その四隅に小さな石の柱(標柱)があり、この階段を作った経過が彫ってあります。

白峰寺の「石坂」 数字は四隅の標石
「石坂」左上の標石-2
「□金/金三両従御開基/金二両惣檀家」
「石坂」右上の標石-1
「安永四(1775)乙未年/九月二十三日」
「石坂」左下の標石-4
「新造立/門外石坂/殿前雨落/同 水鉢」
「石坂」右下の標石-3
「現住大温智暾□」

 「石坂」が作られたのは安永4年(1775)、御開基(領主松平氏)から三両、地元総檀家から二両の奉納があり、時の住職は12代大温智暾(ちとん)和尚、この時一緒に造立したのは①「石坂」(石の階段)、②本堂前の「雨落」(屋根から落ちる雨水を受ける鉢)、③「水鉢」(手水鉢)と書かれています。
 安永3年造立の禁盃石に続けてこれらのものが作られています。

本堂前と本堂横の二つの「水鉢」
「石坂」の標石-4にある「水鉢」は今も本堂前に据えられて手水鉢として使われています。
それとは別に、天明2(1782)年銘で「江戸尾張町」「坪井・・・」とある手水鉢も境内の松平家墓地にのぼる道の横にあります。この手水鉢も江戸に広まった白峰寺の信仰を表すものと思われます。

「石坂」の標柱-4にある安永4年(1775)銘の「水鉢」
松平家墓地への道の脇にある天明2年(1782)銘の手水鉢(正面)
天明2年銘の手水鉢(裏面)

梅薫和尚の功績
 梅薫和尚が行った江戸市中での布教活動は観音菩薩への信仰を進めるものでした。それが成功して信者を集めたことは、今も白峰寺に残っている手水鉢などから分かります。
 境内に昇るための石段(石坂)ができたのは12世智暾和尚が住職の時でしたが、11世梅薫和尚の働きがあったからの事、と思われます。
 茅ヶ崎市内に多くの寺院がありますが、寺の名を江戸に広め、信者を集めたお寺は他に聞きません。
 『白峰寺 寺誌』15頁に、白峰寺が江戸の信仰を集めたのは「当時盛んだった大山参りの江戸っ子達はその帰り道、一之宮から下寺尾の「鐘が橋」(現在の下寺尾橋)を渡り、白峰寺に参って旅行の安全を祈り…」とあります。
 述べてあるように、白峰寺の江戸布教が成功したのは、江戸時代には大山信仰が盛んで、下寺尾の近くを大山道が通っていたことも関係していると思われます。

ここで予定の終了時間を迎えたために、最後に訪れるはずの、下寺尾の鎮守、諏訪神社は割愛しました。
見るところが多かったのでいささか駆け足でしたが、天気も良く、楽しい半日でした。

【参考・引用文献】
・『新編相模国風土記稿』下寺尾村の項
・『明治12年 皇国地誌村誌』下寺尾の項 (『茅ヶ崎地誌集成』に収録)
・『寛政重修諸家譜』松平家
・白峰寺『寺誌』臼井孝之 臼井洋一郎著 平成11年白峰寺刊

report 平野文明会員

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第303回 その-1 茅ヶ崎市 (下寺尾の遺跡) 2022.12.10

その-1 下寺尾遺跡 ①駒寄川~⑦高座郡衙跡

令和4年12月10日(土)実施

はじめに
コロナウイルス感染症が治まらないことから、現地の状況が分かっている近場での史跡・文化財めぐりを計画しました。
高倉郡衙や古代寺院などの遺跡で名のあがる下寺尾ですが、江戸時代に関する事柄でも興味深いものがありました。
初冬の暖かい日和の中、半日を楽しく過ごしました。

史跡・文化財の説明は茅ヶ崎郷土会の会員が行い、遺跡の説明は茅ヶ崎丸ごとふるさと発見博物館の会の会員にお願いしました。「丸ごとの会」の皆さんにはお礼を申し上げます。

記事の中で、下線のある文はクリックするとリンク先に飛ぶことができます。

コース
茅ヶ崎駅改札前集合(8:50)―香川駅集合(9:10)―(徒歩 以下同じ)―①駒寄川―②川津(かわづ)跡―③西方(にしかた)貝塚など―④七堂伽藍跡碑―⑤下寺尾廃寺跡―⑥西方遺跡(弥生時代の環濠集落跡)―⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)―⑧原のサイノカミ―⑨陣屋の池跡―⑩領主の松平氏陣屋跡―⑪郷中(ごうなか)のサイノカミ―⑫おもよ井戸跡―⑬十二天社―⑭白峰寺―⑮鎮守の諏訪神社(解散)
(解散は諏訪神社12:30の予定でしたが、実際はこれを割愛し、白峰寺12:30としました。)

事前の勉強会
令和4年11月15日(火)に市立図書館で行いました。

下寺尾

 明治6年(1873)に下寺尾、行谷、芹沢、堤が第9小区になり、同22年(1889)に遠藤(現 藤沢市)を加え小出村になります。

 小出村は昭和30年(1955)、茅ヶ崎市に合併。昭和39年(1964)県立北陵高等学校が開校し、昭和51年(1976)には茅ヶ崎市立北陽中学校が開校しています。

 小字(こあざ)は東方、西方、南方、北方。

 村組(付き合いの範囲、チョウナイともいう)は池端(いけのはた・いけはた)、原(原チョウとも)、郷中(ごうなか)、北ヶ谷(きたげやと)の四組織があり、それぞれにサイノカミ(道祖神)を祭り、北ヶ谷には十二天が、郷中には天王社などの下宮がかつてありました。 

 原には「塔の下」など古代寺院に関係する地名があり、小出川・駒寄川近くには「砂流し」、西方貝塚そばに「死馬捨て場」(シバハラともいう)」などの地名もあります。

 天保12年(1841)に完成した『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』と略記)の下寺尾村の項には次のように記されています。なお( )は注記です。

 江戸より15里あまり、当村より北の方2里あまりを隔てて寺尾村(綾瀬市)あり。正保(1644~48)の改めには「上」の字を冠す。しからば当時、彼の村(綾瀬市の寺尾村)に対してこの唱え(下寺尾村)あり、戸数53、地頭 松平八十郎勘英(すけひで)。天正18年(1590)、先祖、孫太夫忠政(2代)賜わる。寛文9年(1669)3月、時の地頭 隼人正重継(4代 しげつぐ)検地す。もう一人の地頭は永井幸之助なり。
 諏訪社 村の鎮守なり。例祭七月二十五日、吉岡村滝岡寺(綾瀬市吉岡にあった真言宗系の当山派修験寺院)持ち。

(この後に、白峰寺の記載がありますが、⑩陣屋跡のところで紹介します。) 
(また、下寺尾の領主は、松平と永井氏のほかに筧氏と幕領がありました。)

 昭和の時代になって古代の遺跡が見つかり、今も発掘調査が繰り返されています。西方貝塚、弥生時代の環濠集落跡、下寺尾廃寺跡・高倉郡衙跡などの遺跡は国指定の史跡となっている部分もあります。

①駒寄川(こまよせがわ)

 下寺尾地区の東隣の堤地区から流れ出す小川です。
 堤、下寺尾はこの小川に添う谷戸の中に展開しています。
 駒寄川は、下寺尾の西の端で、北から流れ下る小出川に合流します。
 この合流するあたりに古代の遺跡が集中しています。

②川津(かわづ)跡

 川津は古代の舟付場。高座郡衙(たかくらぐんが)と古代寺院(七堂伽藍)からなる官衙(かんが)の物資輸送の拠点として、現在の小出川を一部改修し船着場を造営したことが発掘調査によって確認されています。近くに、官衙に関連する物資の一時保管施設と考えられる複数の掘立柱建物跡と多くの住居跡も確認されました。また祭祀を行ったと思われる遺跡も発見されています。

③西方貝塚(にしかたかいづか)

 昭和38年(1963)の発掘調査によって縄文時代前期(7000年前 – 5500年前)の貝塚と竪穴式住居跡が発見されました。貝塚は住居跡内に堆積した小規模のもので、汽水域(きすいいき)に生息するヤマトシジミが中心で、魚骨・獣骨・石器も出土しました。縄文時代前期にこのあたりが海に面していたことを物語っています。
 この付近に、下寺尾廃寺(龍沢山海円院)を創営した僧 尊勝法親王を葬ったと伝わる大塚(入定塚ともいう)があったり、海円院の鐘が沈んでいるという伝説に基づき、この地の寺尾橋は「鐘が橋」と呼ばれていました。

④七堂伽藍跡の碑

 昭和32年(1957)に地元の人や郷土史家など142名(七堂伽藍跡遺跡保存会)、協力団体45団体が中心となって建碑を計画し、建立されたものです。背面の碑文には建立趣意が「今回我等が建碑の趣意は是等の貴重な資料の保存と今後研究家の訪れるのを待つ為に他ならない」と書かれています。この碑の建立が、その後の長期的な発掘・研究と、「下寺尾官衙遺跡群」の国の史跡指定につながっています。

⑤下寺尾廃寺跡

(伝 七堂伽藍跡:しちどうがらんあと)
 七堂伽藍跡碑から相模線にかけての一帯が寺院跡と推定されています。
 昭和53年(1978)を初めに、数回の発掘調査の結果、古代寺院跡と分かりました。講堂跡や塀跡、瓦葺きの金堂跡などが確認され、搭は確認されていませんが、その規模から塔も建てられていたと推定されています。
 寺院の礎石が昔から掘り出されて近辺の方々に移されています。民俗資料館(旧和田家住宅)にも置かれています。
 小和田の上正寺(じょうしょうじ)の「上正寺略縁起」(茅ヶ崎市史1に収録)に七堂伽藍建立の伝説が記されており、寺名は「海円院」で、上正寺の前身とされています。
 『国指定史跡 下寺尾官衙遺跡群』(2019年茅ヶ崎市教育委員会刊)に、創建期は7世紀末から8世紀前半、再建期は8世紀後半、さらに10世紀後半から11世紀代にこの位置に仏堂が建てられていたと考えられている、と記されています。
 発掘調査の終わった場所は、少しずつ買収が進んでいます。

⑥西方遺跡の環濠(かんごう)跡

 西方遺跡は、弥生時代中期後半の「宮の台式」期に限られて営まれた環濠集落跡で、2本の環濠(大きな溝)が確認されています。内側の環濠は推定で東西240m×南北235mで、外側の環濠は推定で東西約400m×南北268mです。環濠集落の規模としては、外側の環濠は南関東最大級の規模となっています。 出土した遺物には土器のほかに石器と鉄器があり、石器の利用から鉄器の利用へと移行していく時期の在り方を示しています。 南関東における拠点集落と位置付けられ、弥生時代中期社会の様相を知るうえで重要な遺跡として評価されています。平成31年2月に国指定史跡になりました。   

⑦高座郡衙跡(たかくらぐんがあと)

 北陵高等学校の敷地から約1300年位前の郡の役所(郡衙:郡家)が発見されました。郡庁院(ぐんちょういん)、正倉院(しょうそういん)4棟、舘(たち)、厨(くりや)などの建物跡が確認され、相模国高座郡の郡衙と判断されています。
 郡衙と下寺尾寺院がセットで遺る貴重な遺跡のため、2015年3月に国指定史跡になり、保存・活用が検討されています。現在も発掘調査が続けられています。

その-2 下寺尾の史跡に続きます。


【参考・引用文献】
・西方貝塚・西方遺跡(弥生時代の環濠集落)・下寺尾廃寺(七堂伽藍)・高倉郡衙に関する調査報告書等
・『明治12年 皇国地誌村誌』下寺尾の項 
・『新編相模国風土記稿』下寺尾の項  (『茅ヶ崎地誌集成』に収録)

report 平野文明会員

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茅ヶ崎の野鳥たち 北部の丘陵編 (038)カワセミ

茅ヶ崎の丘陵で見られる野鳥の写真を送ってくれる朝戸夕子からカワセミが届きました。

朝戸さんからのメッセージ
「カワセミにはよく会えるので珍しくないのですが、20年ほど前に 私が初めてカワセミに会った芹沢の田んぼに居たので記念に撮りました。
この場所にはしばらく来てくれなくなっていました。再び来てくれたのは 環境が良くなったのでしょうか。
野鳥が 住んでくれる環境が守られて、いつかタゲリも戻ってくれたら!と思います。」

カワセミのオス メスの見分け方
くちばしが黒いのはオス 下側のくちばしが赤いのはメス
そこで、この画像はオス
市内の公園の松の木にとまっていた
このカワセミはメス

Wikipediaには次の様に説明してありました。

「水辺に生息する小鳥。
鮮やかな水色の体と長いくちばしが特徴。
くちばしが長くて、頭が大きく、頸、尾、足は短い。
頭、ほお、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い。
海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、公園の池など都市部にもあらわれる。古くは町中でも普通に見られた鳥だったが、高度経済成長期には生活排水や工場排水で多くの川が汚れたために、都心や町中では見られなくなった。近年、水質改善が進んだ川では、東京都心部でも再び見られるようになってきている。
水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。エビやカエルなども捕食する。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。
つがいになると親鳥は垂直な土手に巣穴をつくる。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って50-90 cmほどもある横穴を掘る。穴の一番奥はふくらんでおり、ここに3-4個の卵を産む。
北海道で夏鳥だが、ほかの地域では留鳥として1年中見ることができる。」

南部の海辺編にもカワセミを取り上げています。ここをクリック

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎(編集子)

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茅ヶ崎の野鳥たち―北部の丘陵編― 目次へ
茅ヶ崎の野鳥たち―南部の海辺編― 目次へ
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茅ヶ崎の野鳥たち 北部丘陵編 (037)サンコウチョウの子育て

茅ヶ崎市の北部丘陵にサンコウチョウが夏鳥として来ています。
このブログにも、北部丘陵編の第一号として、2021年と2023年6月の記事として取り上げました。(リンクはこちら
2023年6月に取り上げたペアが卵をふ化させ、7月には子育てに励みました。
この様子を朝戸夕子さんが撮影した画像で紹介します。
なかなか撮れない貴重な記録です。(編集子の芹沢七十郎)

オス
メス

サンコウチョウについてWikipediaには次のように説明してあります。

地鳴きは「ギィギィ」と地味だが、さえずりの声は「ツキヒーホシ、ホイホイホイ」(月・日・星)と聞えることから、三光鳥と呼ばれている。
日本、台湾、フィリピンのバタン島とミンダナオ島に分布する。日本には、夏渡来し繁殖する。
全長は雄が約45cm(繁殖期)、雌が17.5cm。繁殖期のオスは、体長の3倍ぐらいの長い尾羽をもつ。メスの尾羽は体長と同じくらいの長さにしか伸長しない。
平地から低山にかけての暗い林に生息する。繁殖期には縄張りを形成する。
食性は昆虫食で、林内で飛翔中の昆虫を捕食する。
静岡県の鳥に指定されている。

親(オス)と幼鳥
幼鳥
撮影者の朝戸さんを除く幼鳥
幼鳥が巣立ったあとの巣とオス。オスの長い尻尾はこの址抜け落ちる。

photo 朝戸夕子
report 芹沢七十郎(編集子)

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