282回 鎌倉市 日蓮上人の足跡 9月25日


本番は9月25日(月)、下見は同月16日(土)、本番は快晴、下見のときは朝から雨でした。
この記録には下見のときに撮影した画像も使っています。
日蓮上人の足跡をたどるため、小町大路の妙隆寺・辻説法跡から大町に向かう、鎌倉時代で言えば武家と商家混在の町から商人町に至るコースを考えて下見も行ったのですが、本番では最後を龍口寺にしました。
またメインの見学地の一つ安国論寺が月曜休みで拝観出来ないと分かったことから材木座の長勝寺を加えました。
最後が江ノ電利用と道のりが遠くなったので、最初の長勝寺までバスに乗り、そこから歩いて鎌倉駅まで戻り、江ノ電に乗るコースでした。日蓮上人の足跡をたどるがテーマでしたが、テーマ外で、途中で見たものも含みます。
見学の順序は①長勝寺 ②日蓮乞水(にちれんこいみず)碑 ③大黒堂 ④安国論寺 ⑤妙法寺 ⑥辻の薬師堂 ⑦辻の本興寺 ⑧町屋阯碑・魚町橋 ⑨常栄寺(ぼたもち寺) ⑩妙本寺 ⑪本覚時 ⑫日蓮の辻説法跡 ⑬妙隆寺 ⑭龍口寺でした。

282回 -01
日蓮宗 石井山(せきせいざん)長勝寺 鎌倉市材木座2-12-17
山号は石井山(せきせいざん)。石井藤五郎長勝が伊豆に流されていた日蓮上人のため、鎌倉に用意した庵が寺の起源といわれています。
境内には辻説法の姿を表したという日蓮上人の像(高村光雲作)、その後ろに帝釈堂や四天王像があり、帝釈天ゆかりの霊場とわかります。

法華堂は、境内の説明版に、室町時代の建立とされるとありました。神奈川県指定重要文化財。
門柱ほかいたる所に四角い渦巻き状の帝釈天の紋が見られます。
千葉県中山(市川市)の法華経寺で、毎年11月から百日間の荒行を終えた僧が、長勝寺で2月11日に水行を行う「大國禱会成満祭(だいこくとうえじょうまんさい)は鎌倉の冬の見ものです。
お百度参りの石塔がありました。祈願のある人は、この石とご本尊の間を100回往復して願い事を訴えると叶えてもらえるとされていました。
また境内を見学していると、どういう関係か分からないのですが吉良上野介の層塔を見つけました。

 

282回 -02
日蓮乞水の石碑
境内を出て名越切通に向かう途中には、鎌倉五名水の一つ、日蓮乞水(にちれんこいみず)があります。日蓮上人が最初に鎌倉に入った時、水を求めて地面に杖を突き刺すと清水が湧き出たと言われています。
先を急ぐのと、そばにある橋のたもとに日蓮水の石碑があったので、「乞水」の現地に行かないで石碑を見るだけで済ませてしまいました。
石碑にあった文字を写しておきます。□と[ ]は読めない文字、/は改行を表します。
[右側面]昭和二年三月  大□寺住職 [     ]田邊新之助□
[正面]「日蓮水」の文字の下に次の文字があります。
建長五年五月日日蓮太古の渇を醫してより七百年矣/
混混として晝夜を舎□す□霖にも増すなし久旱に/
も減するなし□みて鑑すれば清きこと浄明の□□/
如く掬して□へば甘きこと慈母の乳にも似たり嗚/
呼日蓮水是れ亦聖者の餘澤流れて群生の心田に澱/
き永く本有の善苗を霑さん哉
[左側面]醫(得)高僧渇干今七百年餘□/
流久(盡)塵劫漑心田

282回 -03
大黒堂の石仏
長勝寺を出て、横須賀線の線路を越え、安国論寺へ向かう細道の脇に小さな神社がありました。ネット配信の地図には「大黒堂」と出ています。
境内の奥に三基の石仏が並んでいます。向かって右から「名越講中/青面金剛/弘化五年(1848)戊申二月□□日」とある庚申塔、中央は地蔵立像と思われ、左は青面金剛像の足下に一匹の猿がある庚申塔でした。
境内の鳥居の脇にも三基の石仏があります。向かって右から、摩滅して尊容不明の石仏、中央は「猿田彦大神/北斗尊星/天鈿女命」と彫ってある石碑、左は「元禄」とだけ読める聖観音立像です。
中央の石仏がおもしろいと思いました。サルタヒコとアメノウズメは天孫降臨の場面に登場する神様ですが、「北斗尊星」とあるのは珍しいです。下の方には多数の造立者銘があり。年号銘は破損していて「吉日」だけしか読めませんが、幕末から明治の頃のものと思われます。北斗尊星とあるのは庚申信仰との関係かと思われますが、サルタヒコとウズメと一緒に並んである理由が分かりません。

 

 

 

 

282回 -04
日蓮宗 妙法蓮華山安国論寺 鎌倉市大町4-4-18
月曜日は閉門していると聞いていたので寄らない予定でしたが、門が開いていたので、案内文(縁起)を読みながら、みんなでしばらく中を覗きました(決して境内に入ったわけではありません)。

ここで日蓮上人の四大法難について書きますと、日蓮上人が建長5年(1253)鎌倉に入り松葉ヶ谷に草庵を開き、小町大路で辻説法をしていた。当時、天変地異や流行っていた疫病は、念仏など邪教が興隆するからで、正しい教えが広まらず、内乱や異国からの侵略を招く所以であると予言し、文応元年(1260)、39歳で、時の最高権力者北条時頼に『立正安国論』を上奏した。その1ヶ月後に念仏信者等に草庵を襲われた。これが、一回目の松葉ヶ谷法難で、長勝寺や安国論寺、妙法寺が、法難比定の草庵であると言われています。
他の三つの法難は、1年後の伊豆の法難、その3年後の小松原の法難(千葉県鴨川市)、さらにその7年後の龍ノ口(竜の口)の法難、または同年の佐渡の法難ですが、資料によって、佐渡を入れる場合は松葉ヶ谷法難が入っていないようです。ちなみに日蓮が被る綿帽子は、小松原法難の際に洞窟にひそんでいた時、世話をした老婆が、自分の綿帽子を掛けてくれた事にちなむといわれています。

282回 -05
日蓮宗 楞厳山(りょうごんさん)妙法寺 鎌倉市大町4-7-4
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗。楞厳山妙法寺。建立、延文2年(1357)。
開祖は日蓮聖人、中興は日叡上人。
布教のため安房から鎌倉に入った日蓮聖人が最初に草案(松葉ヶ谷御小庵)を結んだと伝えられている。松葉ヶ谷法難もこのあたりという伝承がある。
のちに、護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる=日叡上人)が父の供養と、日蓮聖人の遺跡を守るためこの寺を建てた。
本堂は肥後細川家の寄進による。」
受付で線香を頂き、先ず細川家寄進の本堂に参り、各々が線香を手向けた後、加藤清正を祭る大覚殿を右手に見て、仁王門に進むと、

全身真っ赤に塗られた金剛力士が迎えてくれます。
向かって右の像は阿像、左は吽像と型どおりの並び方。
その先の石段は苔に覆われていました。苔の保護のために登ること禁止。右側にある急な石段を登るようになっています。このために苔寺とも呼ばれています。

石段を登ると釈迦堂跡で、さらに登ると水戸家寄進の法華堂があります。大きな建物で彫刻がすばらしいです。

 

さらに登った右手山頂には妙法寺を中興した日叡の父、護良親王の墓が、左手山頂には自身と母の墓があるそうですが行きませんでした。
下見のときはhirano会員とkatada会員が護良親王の墓にお参りしました。素晴らしい景色だったとの話。この日皆さんは法華堂止まりで、誰も素晴らしい景色を見に行かなかったのでした。

山門を出ると、キンモクセイが満開でした。

 

 

 

282回 -06
辻の薬師堂  鎌倉市大町2丁目4
本興寺とは道路を挟んで向かい側に辻薬師堂があります。中に祭ってあった木造薬師三尊立像と木造十二神将立像は、現在、鎌倉国宝館に寄託展示されていますので、代わりの仏像が置かれています。薬師三尊像は平安仏、十二神将像は室町時代のものと言われています(「有隣」399号)。共に神奈川県指定重要文化財です。

お堂は暗く中が良く見えません。お賽銭を入れると、何分間か灯りがつき、小さな穴から覗くという仕組みで、なかなか面白く、何人も見ていました。
「辻の薬師堂」と呼び、「辻の本興寺」というのは、この辺りを辻といっていたことの名残といわれています。鎌倉時代に、鎌倉を東西に横切る「大町大路(おおまちおおじ)」と、南北に通る「小町大路(こまちおおじ)」が交わっていたからだと説明されています。おそらく賑わいを見せていたのでしょう。日蓮上人はそのような所に出て大衆を相手に辻説法をおこなったといわれています。

扉に、これらの仏像の説明文が貼ってあって、おうよそ次のように書いてありました。
「二階堂にある鎌倉宮は明治時代にできた神社だが、鎌倉時代にはそこに東光寺という寺があって、薬師三尊が祭られていた。その後東光寺が廃絶するときに三尊像は名越にあった長善寺という寺に移された。長善寺はその後も移転を繰り返したが、幕末に火災に遭って廃寺となり、諸像だけが残された。明治22年に横須賀線が敷設されるに際し、現在地に移され、以来辻の薬師堂として地元によって祭られてきた。しかし地元管理が難しくなってきたことから平成5年に鎌倉国宝館に移された。
諸像は傷みがひどいので修理が施されて国宝館内で公開されている。現在堂内に祭ってある薬師三尊像と、十二神将像のうち迷企羅大将像と波夷羅大将像の2躯は新たに造像されたものである。           平成25年 辻薬師堂保存会」

282回 -07
日蓮宗 法華山本興寺 鎌倉市大町2-5-32

 

 

 

バス通り南の脇道を直進し、大町四つ角の南側に出ると、すぐ横が本興寺。ここにも「本興寺略縁起」の石碑がありました。この碑、形は似ていますが、鎌倉市内にたくさんある鎌倉青年団の碑とは違っていて、お寺で建てたもののようです。
碑文を写しておきます。/は改行です。
(上部に横書き)日蓮大聖人/辻説法之舊地/
日蓮大聖人鎌倉御弘通の當時此の地点は/
若宮小路に到る辻なるに今猶辻の本興寺/
と稱す御弟子天目上人聖躅(せいちょく=日蓮聖人の足跡)を継いで又/
此地に折伏説法す實に當山の開基なり/
後年日什上人(顕大法華宗/開祖)留杖せられ寺観/
大いに面目を改む常楽院日経上人も亦/
當寺の第廿七世なり

本興寺という寺院は、横浜市泉区上飯田町にもあります。横浜市の本興寺(日蓮宗 本山 法華山 本興寺)の公式サイトにはおよそ次のように記してあります。この記事によって碑にある天目上人、日什上人、日経上人のことがわかります。
「本興寺ははじめ、日蓮聖人の直弟子・天目上人が鎌倉に開創した。聖人が辻説法の途中、休息された地というので、『休息山本興寺』と称していた。
天目上人は、「迹門不読説」を主張し弟子たちもこれを唱えたが、日什門流の開祖・日什大正師の教化にふれ改派、『法華山本興寺』と改称した。これをもって日什上人を事実上の開祖としている。
27世の常楽院日経上人は、慶長13年(1608)に法難に遭う。日蓮宗の不受不施の一派や日経上人の流れをくむ者への迫害が厳しくなり、万治3年(1660)現在の地(編集者注 横浜市泉区上飯田)に寺の一切を移した。」

上飯田に移った後も、大町に同じ名前の本興寺があることについては、ネット情報(Wikipedia)に、
「その10年後の寛文10年(1670)、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興した。妙本寺末寺となって現在に至っている。」とありました。
今も「辻の本興寺」と呼ばれていて、日蓮の辻説法の場所の一つといわれています。

282回 -08
町屋阯の碑・魚町橋
薬師堂を出て北に進むと、鎌倉町青年団建立の石碑があります。碑文は次のとおりです。
町屋阯
此邊ハ往昔ニ於ケル鎌倉繁榮當時/
ノ賈區ニシテ其中央ノ通衢ヲ大町/
大路ト呼ビ其他米町辻町魚町名越/
等ノ區分アリ夫々町屋ノ在リシ所/
トオボシク其ノ稱ハ屡々東鑑ニ見エ/
今ニ其名ヲ存ス/
昭和十一年三月建 鎌倉町青年団/

鎌倉時代には、このあたりは町人の町とされていたそうです。
碑のすぐそばに小さな流れの逆川(さかさがわ)があり、この流れに架かる橋を魚町橋(いおまちばし)といいます。
流れを逆川というのは、北から南へ流れることが普通である鎌倉市内の川が、この近くでは地形の関係から南から北に向かって流れていることによるそうです。近くに、逆川橋(さかさがわばし)という橋もあるのですがこの日は説明するのを忘れていました。

282回 -09
日蓮宗 彗雲山(えうんざん)常栄寺 鎌倉市大町1-12−11
八雲神社の北側に常栄寺(ぼたもち寺)があります。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗彗雲山常栄寺 慶長11年(1606)建立 開山は日詔 開基は日祐法尼
鎌倉幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がも保ちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。」
先にも記しましたが、小松原の法難のとき日蓮上人が受けた刀傷の手当のために、老婆が登場し自分が被っていた綿帽子を被せてくれます。鎌倉でのこの法難のときも「桟敷の婆」が登場して助けてくれる話になっています。この二つの伝説には共通するものがあるようです。

訪れた日は萩の花が盛りで、多くの人が参詣に来ていました。
境内の本堂の前に、開基日祐法尼の供養塔があります。
ひげ題目の下に 當寺開山/日祐聖人/高松寺二世/と彫ってあります。
植木に囲まれていて近寄れませんので、年銘など見えませんが江戸時代の石塔の形をしています。先に紹介した説明版には日祐法尼は開基となっていましたが、この石塔には開山とありました。
なお、『新編相模風土記稿』鎌倉郡十九、常栄寺の項には日祐は中興とあります。確かに桟敷の婆と日祐とでは時代が全く違います。なお、「高松寺」はWikipediaの「鎌倉市内の寺院一覧」にある寛永19年(1643)創建、日隆尼開基とある寺のことです。「関東大震災で全壊し、宮城県若柳町に移転。山門は鎌倉山の檑亭に移築された」と注記してあります。

282回 -10
日蓮宗 長興山妙本寺 鎌倉市大町1-15-1
少し北に行くと 妙本寺に出ます。
谷間のことを「やつ」といいますが、妙本寺は比企谷(ひきがやつ)を寺域としています。
鎌倉時代にはここに比企能員(ひきよしかず)一族の屋敷がありました。
比企能員は北条氏との政争に敗れ、一族は建仁3年(1203)ここで二代将軍頼家の長男の一幡とその母、若狭局(能員のむすめ)ともども滅ぼされています。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「建立は文応元年(1260)、開山は日蓮聖人、開基は比企能本(よしもと)
乱から逃れていた能員の末子の能本が日蓮上人に帰依して、この地に建てた法華堂が寺の前身といわれている。」
法華堂が建てられたのが文応元年だったようです。

また、妙本寺の公式ホームページには次のように書かれています。
「日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。」

一族を滅ぼされ、鎌倉を追われていた比企能本が鎌倉に帰ることができたのは、頼家のむすめで、後に鎌倉四代将軍藤原頼経の夫人となった竹御所(たけのごしょ)の計らいによるものだそうです。彼女も若くして亡くなり、ここに葬られました。境内の奥の檀家墓地の中に祭られています。

総門を通って緑のトンネルの先に二天門があります。

 

 

 

二天門には向かって右に矛を持つ吽像、左に金剛杵を持つ阿像ががんばっていて、寺に入るものたちをにらみつけています。この像の並びは多数例とは逆になっています。頭上の梁には極彩色を施した二匹の龍の彫刻があります。

龍の彫刻の下、仁王の間を通って境内に進みます。二天門をくぐると、右手に幼くして命を落とした一幡の墓所があり、正面にには巨大な祖師堂があります。「一幡の袖塚」といわれる一角は竹垣で囲ってあり、「源頼家卿嫡男一幡君御廟所/享和三(1803)」癸亥年三月」と彫りつけた標柱と江戸時代の五輪塔が祭ってあります。

祖師堂の横に歴代と比企一族の墓地があります。
「比企能員公一族の墓」とある標柱の奥の築石壇の上に二本の柱が立ち、向かって右の柱には「長興長榮/第四十七祖 □□日教上人福業塔」(□は読めない字)と、左の柱には「本行院日學聖人護法廟」とあります。「長興」は妙本寺、「長榮」は池上本門寺の山号です。妙本寺のHPに「妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きました」とあるので、47世日教上人が両寺の貫首をつとめていたとき(江戸時代)に、この墓地が整備されたのでしょう。また、左柱にある「本行院日学」は比企能本のことですから、ここに能本の墓もあるということでしょうか。
そして、二つの柱の間にある小型の宝塔4基が一族と能本の墓石とされているのでしょう。向かって左から二つ目だけに文字があり年号らしく見えますが、コケと破損のためによく見えません。実に残念。
傘の上には五輪塔の空風輪がのせてあり、基礎も別石ですから、傘と塔身だけが宝塔の一部ですが、積み替えられているようです。塔身に屋根型があって、日蓮宗独特の形をした珍しい塔身です。時代は室町時代のものではないかと思われます。

袖塚の後ろは妙本寺歴代の墓地のようです。
その中に、大きな五輪塔が建っています。地輪に「経 加賀太守宰相卿之/母公/壽福院殿/日榮逆修/元和第十甲子六月十二日(1624)とあります。
寿福院殿日栄は加賀藩前田利家の側室で、二代藩主利常の母だそうです。熱心な日蓮宗の信者で各地の日蓮宗寺院にいろいろなものを寄進している(Wikipedia福寿院)ので、ここ妙本寺に逆修塔を建立したのでしょう。

最後の写真は、妙本寺の拝観を済ませて、意気揚々と歩く茅ヶ崎郷土会の会員です。

 

 

 

282回 -11
日蓮宗 妙厳山本覚寺 鎌倉市小町1丁目-12-12
境内入り口に立つ説明版に次の様に書いてあります。

 

 

「建立 永享8年(1436) 開山 日出(にっしゅつ)
本覚寺のあるこの場所は幕府裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂(えびすどう)を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮上人が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝(にっちょう)が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。」

 

 

 

 

境内には名刀工正宗の墓もあります。
見上げるほどの大きさで正面に「天保乙未季秋(1835年6年9月)/五郎入道正宗碑」とあり、裏は漢文の碑文で、文字数は1000を超えているでしょう。いつか挑戦してみたいです。
山門には大きな仁王があります。ここの仁王様は恐ろしい形相をしています。

本堂裏手に日蓮上人、日出、日朝の宝篋印塔があります。その前の回廊との間では少し休めそうでしたので、昼も近く急にお腹が空いて、ここで弁当を使えればいいなぁと思ったのは、私だけではなかったようです。

 

本堂前を行く茅ヶ崎郷土会の一行。元気に歩いているように見えますが、実はおなかをすかせているのです。

 

 

 

282回 -12
日蓮聖人辻説法跡 鎌倉市 小町2-22-13-7
現地にある鎌倉市の説明版に次の様に書いてあります。
「日蓮は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。」

日蓮上人が鎌倉に来た当時、この地は天変地異や疫病に見舞われ、人々は不安と恐怖に怯えていた。これは法華経をないがしろにし、ほかのお経に帰依するからだと幕府を批判し、文応元年(1260)『立正安国論』を著したことから迫害を受けたと考えられています。
ここにある石碑は戦前に戦争批判と死刑廃止、八紘一宇を唱えた宗教学者の田中智学が整備したとのことです。
写真は辻説法跡地付近から、小町通りの南を向いて撮った様子です。下見の日の撮影です。

 

 

 

282回 -13
日蓮宗 叡昌山 妙隆寺 鎌倉市小町2-17-20
境内の説明版に次のように書いてありました。
「叡昌山(えいしょうざん)妙隆寺 建立 至徳2年(1385) 開山 日英上人 開基 千葉胤貞
この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい『立正治国論』で室町幕府六代将軍・足利義教(よしのり)の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。」

開基の千葉胤貞や開山の日英上人よりも、鍋かぶりの法難を受けた二代日親上人の方が人気を呼ぶらしく、境内には日親上人の石製坐像、卵塔形式の供養塔、五百遠忌の報恩塔、寒中の水行を積んだ池などがあります。また、小さなお堂に「鎌倉江の島七福神」の一人寿老人が、お供の鹿と共に安置されています。広島で被爆死した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の石碑もあります。

妙隆寺に別れを告げて、鎌倉駅から江ノ電で片瀬を目指しました。

282回 -14
日蓮宗 寂光山龍口寺 藤沢市片瀬3-13-37
今回のコースの最後、龍口寺にお参りし、本堂に参拝の後、五重塔も近くで仰ぎ見ました。
堂塔はほとんど江戸時代のものですが、山門、本堂などに多くの装飾彫刻が施されています。また、後で調べたところ、五重塔には宗祖日蓮の一代記が彫刻されているとのことでした。準備不足で、折角ご案内をしながらお話し出来ずに残念でした。
龍口寺に入る前、私だけでなく皆さんもお腹を空かせていたようで、とても江の島まで歩く気力が無くなり、見かけたバス通りの魚屋さんで昼食もできるとのことで、今日の最後は楽しい昼食で終わることができ、無事に帰着しました。

(この日の説明 山本会員)
(report 山本会員 平野会員)
(photo 平野会員)

 

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8 霊山信仰の石造物

古い時代から、日本人は山岳を神聖視して生活してきた。
形の美しい山を、カミが宿る、あるいは先祖の霊が宿るとしてあがめてきた。
いくつかの自然環境の厳しい山岳は、俗界から離れているが故に修行の場とされた。
このようなヤマの中に霊場が出来て、仏教や神道、両者が習合した修験道が歴史を重ねた。
先に見てきたように、日本各地には多くの修験道霊場がある。その中で茅ヶ崎辺りにまで及んでいるのは、
山形県の出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)
静岡県の富士(浅間)
長野県の御嶽(おんたけ)
そして地元大山の信仰であり、いずれも修験が関与している。その信仰の跡は石造物として残されていて、今も身近に見ることができる。

8-1
出羽三山信仰の石造物
羽黒修験は蜂子皇子が開いたといわれる。王子は推古元年(593) 由良(山形県鶴岡市)の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。羽黒修験の元になり、月山も開山した。推古13年(605) 湯殿山に湯殿山神社を建てる。(ウィキペディア引用)
出羽三山は山形県にある。長く羽黒修験として栄え関東にもその石造物が多い。神仏分離後、月山山頂に月読尊、湯殿山に大山祇命・大国主命・少彦名尊、羽黒山頂に稲倉魂命を祭神とする神社となった。三山の中心は羽黒山で、文政3年(1818)三山合祭殿が出来ている。

8-1-01
藤沢市葛原 王子神社の供養塔
碑の上部に彫ってある像は大日如来である。中程に「月山/湯殿山大権現/羽黒山」、下部に「西國 秩父 板東」とある。出羽三山登拝と観音霊場巡拝を兼ねた供養塔である。
右側面に「導師 大先達 宮原邑壽原寺觀明法印」とある。宮原村の寿原寺は、当山派の総本山醍醐三宝院の末寺の修験寺院だった。この碑を建てるに修験寺院が関係していることを示す貴重な例である。
左側面に「高座郡葛原邑 導師 長盛寺正山阿闍梨」とある。長盛寺は地元葛原にあったが今は廃寺である。『新編相模国風土記稿』葛原村(第日本地誌大系本3巻293頁)には村鎮守の王子権現社の真言宗の別当寺とある。この寺は修験ではないが、正山阿闍梨が宮原村の修験寿原寺の觀明法印を先達として出羽三山と観音霊場を回る講中を組んでいたのに関与していたことが分かる。
年銘は安永三年(1774)、凝灰岩七沢石を使ってあるので傷んでいるのが残念。

8-1-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の供養塔
元は大山道沿いにあった。多くの人の目に触れて供養を受けるよう、出羽三山に限らず、供養塔は道ばたに立てられていることが多い。
角柱の上に乗る摩滅した像は大日如来坐像。
正面に、月山・湯殿山・羽黒山、その下に秩父三拾四所・西國三拾三所・四国八拾[ ]・坂東三拾三所供養[ ]とある。
出羽三山、四国八十八ヶ所、百観音霊場供養が合体している。
寛政十二年(1800) 庚申天 三月十三日の年銘がある。

8-1-03
相模原市上溝路傍にある供養塔
向かって右側面に、享和三年(1803)癸七月吉祥日と、正面にアーンク(胎蔵界大日如来種子)、キリク(阿弥陀如来種子)、サ(観音菩薩種子)と「月山 湯殿山 羽黒山」の文字がある。この三つの種子は、三山の本地仏に対応しているようだ。
凝灰岩製で傷んでおり、角柱の上には剥落した大日如来坐像がわずかに形を保っている。

8-1-04
茅ヶ崎市松尾 善性寺の供養塔
角柱正面上部にアーンク、向かって右側面に「文化十有四丁丑年(1817)三月日建之」 左側面に「行者 青木幸八」と刻む。
「青木幸八」は、同じ松尾の共同墓地にある文化十四年(1817)銘の無縁法界供養塔にも名を残している。
青木姓は地元にある姓だから、行者と呼ばれる地元の民間宗教者だったと思われる。療法や祈祷、各地の霊場とこの地の橋渡しなどに携わったと思われる。修験者の一人だったのかもしれない。
基礎石は別の石仏の混入である。

8-1-05
横浜市保土ケ谷区仏向町路傍の供養塔
横浜市保土ケ谷区仏向町にある文化九年(1812)銘神礼寺型地神塔(5-1-07参照)と同じ石質の石を使っている。この塔の特徴は上部に彫ってある種子の見事さである。上はアーンク、向かって右はキリク、同左はサであることは出羽三山供養塔に共通する。
左側面に「東叡山御持羽黒山大先達 御本坊□前院/山先達源正坊/安政二卯年(1855)八月吉日 導師 圓福寺」とある。東叡山寛永寺が羽黒修験に関係していることは知られているが、そのことを表す例である。先に述べた仏向町の文化九年銘地神塔と同じ石工になるものと思う。

8-2
富士信仰の石造物
富士山を神聖視し、講中を組織して富士山登拝を行う冨士講が主に関東地方で江戸時代中期から盛んになった。冨士講の教義は神道・仏教・修験の思想に独特の思想を織り込んでいる(『日本石仏事典』)。
冨士講の指導者を先達とか講元といい、講中を率いたり、自らも33、50、66度などの登拝回数を誇った。富士講碑にはこの願が満了した折に立てられたものが多い。碑の文字は独特の書体をなし、「浅間」を「仙元」と書いたものがある。
神仏分離後は一時衰退したが、やがて丸山教、扶桑教、實行教として教派神道の活動が続き、石碑も建立された。

8-2-01
藤沢市片瀬 泉蔵寺前の富士講碑
日輪と月輪、富士山の絵に「庚申」の文字、三宝の上に枡、下方に三猿とたくさんの文字が彫ってあるが、彫りが浅い上に苔(コケ)がのっていて見えにくい。枡の中がどうなっているのかも分からない。
冨士講では「庚申縁年」を重視する。富士山は庚申(かのえさる)の年に出現したので、庚申の年に登ると大きな御利益があるとする。また猿はお山のお使いともいうそうである。冨士信仰に庚申の習俗が取り込まれたのだろう。
この塔は寛政十二年(1800)の銘を持つ。同年は庚申の年である。庚申縁年には造塔も行われたことが分かる。しかし枡の図柄は何を表しているのだろうか。

8-2-02
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の富士講碑
「不動大明王 富士浅間大神 石尊大権現」とあるので大山信仰と冨士信仰が一緒になっている。
大山に参ったら富士山にも登るといわれているから、大山講が冨士講でもあったのかも知れない。年銘は萬延元歳庚申年(1860)とあり、庚申縁年に作られたもの。
なお「柳庵欽書(花押)」とあり、茅ヶ崎柳島の、幕末・明治の文化人といわれている藤間柳庵の筆である。

8-2-03
小田原市柏山 柏山神社境内の富士講碑
頂部に冨士山が描かれその中に「浅間大神 木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)」とある。
万延元年(1860)庚申歳の年銘があるので庚申縁年の建碑。講紋は◯の中に「花」。「丸花講」と読むのだろうか。
浅間神社と名乗る神社の中で、延喜式内社は山梨県笛吹市一宮町の浅間神社(神社では「甲斐国一宮 浅間神社」としている)と静岡県富士宮市の富士山本宮浅間神社(神社では「浅間大社」)の二社とされているが、他にも浅間神社はあるので、この富士講碑がどこの神社と結びつくものかはわからない。なお二社の縁起式内社の内、前者は祭神を「木花開耶姫命」と、後者は「木花之佐久夜毘売命」と表記を異にする。

8-2-04
秦野市今泉 今泉神社境内の富士講碑
正面上部に富士山の絵と○の中に「岩」の講紋、その下に「中道十四/三十三度/八湖成就」の銘。◯に「岩」は、冨士講の中に「丸岩講」というものがあるのでそれに当たるのであろう。
富士山の5~6合目に、お山をぐるりと回る「お中道(ちゅうどう)」という道があって、3回以上登拝したものだけが通れるという。それを14度めぐり、登拝を33度、忍野八海めぐりをして登拝が成就したことで立てた碑である。
背面に「明治十九年(1886)十一月 小社長 小泉治平」とあるが、この年の干支(えと)は丙戌(ひのえいぬ)で庚申縁年ではない。

8-2-05
藤沢市高倉 七ツ木神社境内の富士講碑
表に「仙元大菩薩」とある。浅間を「仙元」と書く例の一つである。
基礎の正面は富士山の絵に「真」、背面に「庚申 万延元年(1860)四月吉日」の年銘がある。
この碑も庚申縁年の建碑。

8-2-06
鎌倉市上町屋 天神社境内の富士講碑
正面に「南無仙元大菩薩」
右側面に「大天狗/小御嶽石尊大権現/小天狗」
左側面に「元祖 食行身禄□」
背面に「元治初甲年(1864) 登山十三度 泉光院覺□」
基礎には富士山の絵の中に「真」の一文字と「當所先達 内海六郎右ヱ門」とある。
食行身禄(じきぎょう みろく)については、ネット情報に「寛文11年1月17日(1671年2月26日) – 享保18年7月13日(1733年8月22日)。日本の宗教家。富士講の指導者。本名は伊藤伊兵衛(いとう いへい)。伊勢国一志郡(現三重県津市)出身。伊藤食行とも。」とある。【ウィキペディア】
この碑も構成員を同じくする冨士講と大山講の建碑と思われる。泉光院は『新編相模国風土記稿』(日本地大誌大系本風土記稿第5巻167頁)の上町谷村に、古義真言宗、鎮守天神社の別当と記載されており、上町屋に今もある。その泉光院が主催する講中が、当地の内海六右ヱ門を先達として13回の富士山・大山の登拝を行った記念として建てたと解するが、どうであろうか。ただ、泉光院は修験寺院ではない。

8-3
大山信仰の石造物
相模大山の美しい山容は遠くからも目につき、神奈備山(かんなびやま)として古来、信仰の対象となっていた。この相模大山のお膝元の神奈川県には、多くの大山道が通っているので、大山灯籠、鳥居、道標、不動石像などを各地に見ることができる。
大山も江戸時代以前には修験者の活動が盛んで、戦国時代には武力をもって戦いに参加した形跡がある。徳川期には御師となって関東各地に大山講(石尊講)を組織し、関東各地から多くの人々を大山に誘った。
講中のお導者は、大山道沿いのこれらの石造物をたどって大山に到着した。

8-3-01
伊勢原市桜台 路傍の大山道道標
角柱の上に乗っている像は、被せてある頭巾などのために何だか分からないが不動明王だろう。大山導者のために、道沿いにこのような道標が立てられた。
角柱の上部の種子は、いささか変わった書き方の不動明王種子のカーンマーンである。その下に「右 日向道/左 大山道」とある。これがある桜台は小田急線伊勢原駅南側一帯だから、北西を向いて、右手に進めば日向薬師、左手なら大山となる。現地を見ていないが、道標は南東を向いて立っているのだろう。道標の向かって左側面に元文四年(1739)己未(つちのとひつじ)の年銘がある。

8-3-02
茅ヶ崎市赤羽根 西光寺の大山灯籠
竿石表面にカーンマーン(不動明王)・タラ(矜羯羅童子)・タ(制吨迦童子)の種子と
「大天狗/石尊大権現/小天狗」、右側面に寛政十年(1798)の年銘がある。石尊大権現と大小の天狗は大山の頂上に祭られていた。
県内では、夏山が開かれている間、村の村組ごとに大山灯籠を立てる習俗があった。取り外しのできる木製のものが多いが、石製もあり、石製はそれを常設にしたものと思われる。
この灯籠のある西光寺は市内を通る田村通り大山道の少し北にある。大山道沿いにあったものを移したと伝えられている。

8-3-03
伊勢原市下谷 八幡神社境内の大山道道標
角柱の竿石の上に剣を持つ不動明王坐像が乗る。その右側面は荒れているが、天保三年(1832)の銘と「田村ふなわたし」、左側面「あつぎみち」とある。南を向いて立てられているのだろう。

8-3-04
茅ヶ崎市高田 本在寺の大山灯籠
本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。
竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居(6-10参照)にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。

8-3-05
藤沢市獺郷(おそごう) 路傍の不動明王三尊
きちっとした覆い屋の中にある。基礎石の正面に「獺郷村/東/講中/嘉永二[ ]/酉(1849)四月/立之」とある。
像は不動三像で、火炎光背の中で右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像と、その下に、滝の流れの両脇に立つ矜羯羅童子(こんがらどうじ 向かって右)、制吨迦童子(せいたかどうじ 左)。三像の顔面は摩滅しているが、削られたようにも見える。廃仏毀釈の被害だろうか。
二童子の間に滝があるのは、大山の禊ぎ場の滝を現すか、『平家物語』巻第五中「文学(文覚)荒行」の一場面、滝でおぼれる文覚を助ける二童子に由来するものか、どちらだろうか。

8-3-06
茅ヶ崎市西久保 日吉神社境内の道標
茅ヶ崎市はその中央部を大山道が東西に突っ切っているので、もっと大山道標があってもいいように思われるが、この一基しか見つかっていない。
この道標がある日吉神社はその大山道から少し離れた南側に位置している。
傷みがひどく、一面に「右大…」の二文字しか残っていない。おそらく「…山道」と続いていたのだろう。昔は大山道沿いにあったといわれている。

8-4
御嶽山信仰の石造物
長野県と岐阜県にまたがってそびえる木曽御嶽山は古くから修験の山だった。御嶽の修験者も江戸時代半ばからは各地に出向いて御嶽講社を組織していった。旧暦6月1日に山開き、7月18日が山じまいで(『日本石仏事典』)、白衣に脚絆、鉢巻き、金剛杖、鈴を下げた導者が先達に導かれて山に登った。
各地に残る石碑には神号が刻まれている。それが江戸時代と明治とで違うのは、神仏分離の影響である。

8-4-01
茅ヶ崎市菱沼 茶屋町稲荷境内の御嶽講碑

茅ヶ崎市菱沼の茶屋町稲荷

江戸時代の菱沼村は南北に長い村で、この碑は村の南、東海道(現国道一号)に近い茶屋町稲荷の境内にある。
菱沼には、ここと鎮守八王子神社境内とこの茶屋町稲荷に御嶽講碑がある。その二つの碑は形、石質、大きさ、彫ってある文字がほとんど同じである。三角形の形は富士山を模している。
正面に「當所中/御嶽山大權現」とあるが年銘はない。「御嶽大権現」という表記から神仏分離以前、江戸時代末期に作られたことが分かる。

8-4-02
茅ヶ崎市菱沼 八王子神社境内の御嶽講碑

八王子神社は村の北側にある。
当時の御嶽講は村の北方と南とに分かれて二つあったのだろう。

 

 

8-4-03
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その1)
菱沼と小和田は隣り合っている。小和田の鎮守、熊野神社には3基の御嶽講碑がある。最も古い年銘をもつこの碑は根府川石製。
銘は正面に「當村中/御嶽山大権現/柳庵謹書(花押)」、
裏面に「萬延元歳在庚申(かのえさる)秋(1860)/八月吉立之」。
「御嶽大権現」は神仏分離以前のいい方で、山岳信仰の蔵王権現に由来し、修験道が関係している。
熊野神社には別に柳庵筆の冨士講・大山講合同碑があり先に紹介した(8-2-02)。石材は同じく根府川石。柳庵はこの二つの碑の文字を同時に頼まれて書いたもののようだ。

8-4-04
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その2)
表に「国狭槌尊(くにさつちのみこと)/国常立尊(くにのとこたちのみこと)/豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)」、裏面に「明治十二年(1879)建設」とある。
木曽の御嶽山のふもと長野県木曽郡王滝村にある御嶽神社は、
里宮と山頂の奥社に国常立尊・大己貴命・少彦名命
五合目の八海山神社に国狭槌尊
七合目の三笠山神社に豊斟渟尊
を祭る(神社のホームページより)。
この御嶽講碑は、木曽御嶽神社の里宮・奥社の主祭神と八海山神社、三笠山神社の祭神を彫りつけたことになる。
国常立・国狭槌・豊斟渟は日本書紀にある神世七代の中の三神である。神仏分離以前の御嶽山信仰では「御嶽山大権現」を祭っていたものが、分離以後は後、神世七代中の三神に変わったことを、この碑は現している。

8-4-05
茅ヶ崎市小和田 熊野神社境内の御嶽講碑(その3)
熊野神社境内の三基のうち、一番新しい年銘を持つ。板状の石3基で構成されており、向かって右の碑に「八海山提頭羅神王」、中央の碑に「御嶽大神」、左の碑に「三笠山刀利天」、中央碑の裏面に「本山信州木曽谷鎮座/神道御嶽教会起立講(以下略)」、大正十四年(1925)の年銘がある。
中央碑にある御嶽大神は、江戸時代のいいかたの御嶽大権現を明治時代になってから神道流で表したものである。
八海山は新潟県にある霊山で、その近くにはこの霊山を信仰する八海山神社がある。提頭羅神王(だいずらしんのう)は八海山信仰で祭られる神なのだろう。この神は神世七代の国狭槌(くにさづち)とされている。
御嶽講碑では、御嶽大神(国常立尊)、八海山(国狭土尊)、八海山刀利天(豊斟渟尊)の三神を大書したものが多い。

photo 坂井会員 平野会員
report 平野会員

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茅ヶ崎郷土会 会員がんばる! 18/2/18~22

松林 丸ごとふるさと発見博物館が行われました。
市立松林公民館で、2月17日(土)から23日(金)まで。主催は茅ヶ崎市教育委員会社会教育課。
ちがさき丸ごとふるさと発見博物館の会をはじめ、多くの人たちが協力しました。
茅ヶ崎郷土会も、いくつかのコマで講師などをつとめました。

「長福寺の七里様」
「長福寺の七里様」という題で
・紀州藩七里役所のこと
・相模国準四国八十八ヶ所のこと
・茅ヶ崎郷土会の23ヶ村調査のことを
源会員がお話ししました。18日の午後。

芋だんごづくり
「芋だんごをつくろう!」の手ほどきには前田会員も一肌を脱ぎました。「手つきが・・・!」と賞賛しきりでした。おいしい芋だんごができました。20日の午前中でした。
レシピは次のとおりです。
材料(3~5人分)
・サツマイモの粉(市販のもの) 200g
(サツマイモの粉は、皮をむき薄く切ったイモを乾燥させて粉にしたもの。自然食品の店やインターネットで購入するこができる。)
・熱湯 200㏄~230㏄
・お好みで、つけて食べるものとして〈きな粉大さじ3 砂糖大さじ2 塩少々〉
※芋だんごは冷めると固くなるので熱々のうちに食べる
※冷めた芋だんごは焼いて食べるとよい
作り方
① ボウルにサツマイモの粉を入れ、熱湯をまわし入れ、菜箸で手早くかき混ぜる
② 手で触れるくらいになったら、耳たぶくらいの軟らかさになるまでよく捏ねる。
捏ねれば捏ねるほどに弾力が出て、食感がよくなる。
③ ②を片手で握り形を作る。または、丸めて真ん中をつぶしてもよい。写真2が握り形、写真3が丸めたもの。
④ 蒸し器にクッキングシートを敷き、だんごを並べる。重ね置きしても大丈夫。蒸気の上った蒸し器で10分~15分強火で蒸す。
⑤ 熱々の芋だんごに、きな粉をつけて食べる。
※サツマイモの粉に、サツマイモの1㌢角切りにしたものを入れると、美味しい仕上がりとなる。

「茅ヶ崎かるた」のかるた取り大会
20日から22日まで午後にもうけられていた”こどもタイム”の中で、茅ヶ崎郷土会で作った「茅ヶ崎かるた」のかるたとり大会をしました。
学校から帰ったこどもたちが大勢やってきました。
前田、山本、源、平野会員がお手伝いをしました。
一番多く札を取ったこどもにはトップ賞の賞状と記念品をあげました。
こどもたちは熱の入った試合を繰り返しました。札が取れずにベソをかいていましたが、何度も挑戦して、最後はトップ賞をもらった子もいました。

「赤羽根の地名に関わる歴史」
郷土会勢でトリをつとめたのは、「赤羽根の地名に関わる歴史」を講演した岡崎会員。市文化財保護審議会委員の立場でつとめました。
最終日の23日午前中でした。

 

photo 片田会員 前田会員 平野会員 加藤幹雄さん
report 平野会員

7 箱根神社(箱根町)と松原神社(小田原市)

箱根 芦ノ湖 冬の景

箱根神社の歴史は天平宝字元年(757)箱根に入った万巻上人(まんがんしょうにん)が寺院と霊廟を建立し、箱根三所権現として祭った事から始まった。
鎌倉時代になると源頼朝を中心とする鎌倉政権の援助により関東武士の鎮護神となった。この傾向は小田原北条氏にも引き継がれ、僧兵を擁して豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した。廃仏毀釈運動で打撃をうけ、その際多くの宝物類を失った。
小田原市内にある松原神社は現在は修験を表すものは全くないが、神仏習合時代には、本山派修験の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が別当として神社を管理、運営していた。玉瀧坊は大住郡や高座郡を中心に、相模国43カ寺の末寺を抱える地方本山で、相模国本山派の中心的存在だった。

7-1-01
箱根を開いた万巻上人

箱根神社蔵

箱根を開いたのは万巻上人といわれている。
彼は山岳修行僧で、天平勝宝元年(749)に鹿島神宮寺を建立したあと、箱根に来たと伝えられている。
箱根に本格的な堂宇が建立されたのは上人が来山してからで、天平宝字元年(757)、霊夢の告げによって三所権現を勧請した。上人は養老年中(717-724)、洛邑(平城京)に生まれ、成長して修行僧となった。
『方広経』1万巻を看閲することを日課とするという願を立てたので、万巻上人と称されたという。(KL-NETの『箱根神社大系』の説明から)。
箱根神社には万巻上人の坐像が伝えられていて、国指定の重要文化財になっている

7-1-02
箱根神社
『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系本 風土記稿第2巻 79頁)に、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)とあり、「各坐像にて萬巻上人の作という、秘して別当といえども拝することなし」とある。また、別当は古義真言宗の東福寺とある。
神仏分離以前は箱根三所権現(はこねさんしょごんげん)と呼ばれて女体、俗体、法体を祭るものであった(五来重著『山の宗教―修験道案内」(角川ソフィア文庫 122頁)。この三体がニニギノミコトなどになぞらえられていたのだろう。今も三柱のミコトを祭神とする。
かつての修験道の痕跡を見ることは出来ないが、『新編相模国風土記稿』87頁の箱根神社の項に、6月の例祭時、「先達・山伏、神木登(志伎濃保利=しきのぼり)ということをつとむ」とある記述が、そのありさまの一端を示している。

7-1-03
九頭龍神社
箱根神社の境内にも九頭龍神社があるが、本来のものは箱根園の中にある。境内の神社はこの箱根園中の神社を勧請したものである。
『新編相模国風土記稿』箱根三所権現社の項(87頁)に「六月十二日の夜、湖水にて龍神の祭禮あり」とある。また、五来重『山の宗教』に、九頭龍神社は箱根の水の神様で、金剛院という山伏が支配していたとある。
『筥根山縁起并序』に、人々を苦しめる芦ノ湖の龍が万巻上人によって調伏され、後に神として祭られたとある。写真は神社境内にある九頭龍神社。

7-2-01
松原神社
小田原市本町にある。
『新編相模国風土記稿』第2巻8頁の小田原宿宮前町の項には松原明神社として載っている。祭神は日本武尊とある。古くは鶴森明神といったが、海中から金の十一面観音が松原に出現し、その託宣によって、この社に移し本地仏としたことから社号を改めたとある。
小田原北条氏や大久保氏の庇護をうけた。

7-2-02
神社の社額
江戸時代に松原明神社の別当は本山派修験の玉瀧坊だった。
『新編相模国風土記稿』(第2巻11頁)に、山城国(現京都)聖護院宮末で「先達奉行職なり。豆相二州及武州都筑(つづき)、久良岐(くらき)、多摩三郡を支配す、鶴松山玉流寺成就院と号す、当城主の祈祷所なり」とある。


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6 大山阿夫利神社と修験道 (伊勢原市)

大山の僧兵は後北条氏に味方したため、後北条氏滅亡後、家康の粛清を受けた。慶長14年(1609)、徳川幕府は寺院法度を発布。不動堂より上は清僧だけとし、修験者などは移されて、今の坂本の門前町辺りで御師となった。
江戸時代を通じ、御師は積極的な布教活動を行い、各地に大山講を作っていった。年に数回講中を訪ね、御札を配り、初穂料を集めた。また、お盆の季節に山頂までの登拝ができたので、その間、講中の大山参詣を促し、宿泊の業をした。明治初期には1万5千の講社、70万の檀家を数えたという。
江戸中期から国学が広まるにつれ、大山にも神道思想の宗教者が現れてきた。明治元年(1868)の神仏分離令、同5年(1872)の修験道廃止によって阿夫利神社が出来、御師も先導師と名を変えた。
[画像をクリックすると大きな画像で見ることができます]

6-01
大山歴史地図(作成中)
長い歴史をもつ大山には数多くの史跡がある。それらを地図に落として「大山歴史地図」を作ろうとしているが、なかなか作業が進みません。
まだ作成途中のものですが、大山の修験道を紹介するに当たって公開してみます。間違いやさらに含める事項などをお気づきの方は、お知らせ頂ければ幸いです。

6-02
開山堂

『大山寺縁起』に大山を開いたのは良弁僧正(ろうべんそうじょう)と書かれている。
大山の開山町に開山堂とか良弁堂と言われる建物があり、良弁僧正の坐像などが祭ってある。この開山堂の脇に良弁の滝がある。北斎の浮世絵に、納め太刀を担いでこの滝でみそぎをする導者たちが描かれている。


6-03
良弁僧正の坐像

良弁僧正は東大寺初代別当として有名である。宝亀4年(773)閏11月16日に遷化された。(東大寺のホームページから)
この像について『新編相模国風土記稿』坂本村の項には「四十二歳の像(自作、長二尺五寸)、藤之坊持」とある。さらに、藤之坊は「本山修験(京師六角、住心院觸下)本尊不動」ともある。なお、この坐像は江戸時代の作と思われる。
東大寺にも開山堂があり、国宝の良弁僧正の坐像が祭られている。

6-04
金鷲童子(こんじゅどうじ)

開山堂の猿と金鷲童子の像
風土記稿掲載の金鷲童子の絵

良弁僧正は相模国に生まれたことになっている。赤子のときに鷲がさらって東大寺まで運び、境内の大木の梢の先に置いた。それを一匹の猿が地上に降ろしてくれたという話がある。開山町の開山堂には、僧正の坐像の向かって右側に乳児を抱いた猿の像が祭ってある。乳児は鷲にさらわれたことから金鷲童子といわれている。
『新編相模国風土記稿』に、「良辨小児の時の像にて自作という」とありこの像の図が載せてある。


6-05
阿夫利神社社殿

阿夫利神社の社殿は、江戸時代には不動堂があったところに建てられている。これを今は下社といい、山頂の建物を上社という。
急坂の男坂か、ややゆるい坂道の女坂を登ると、江戸時代には山門があった。山門を経た境内には不動堂があり、また多くの神霊が祭られていた。大山にお参りすると言えばこの不動明王にお参りすることであった。
不動堂から山頂までは禁足で、夏山期間中だけ開かれたが、それでも女性は登ることが出来なかった。夏山以外のときは、女性は前不動から先は禁則となっていた。

6-06
阿夫利神社の御朱印写し
会員が受けてきた御朱印

6-07
大山寺の不動明王

大山寺のご本尊で、鉄で出来ていて「鉄不動」といわれている。
鎌倉時代に大山を再興した願行上人(がんぎょうしょうにん)によって作られたと伝える。上人は江の島の龍穴にこもって再興を祈り、浜の砂鉄を集めてまず試みの不動を作った。今、鎌倉覚園寺に残る不動像がそれといわれる。その後、本作したものがこの制吨迦(せいたか)、矜羯羅(こんがら)の2童子を脇侍とするこの不動明王である。国の重要文化財に指定されている。
江戸時代には、不動堂で祭られていたが、神仏分離によって現在地に移された。

6-08
大山寺の護摩供養

真言宗、雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)は、江戸時代にあった来迎院の跡地にある。ご本尊の不動三像は、本堂裏手の文化財収蔵庫に収められて祭られているので、本堂に祭られているのは代わりのご本尊である。護摩供養が盛大に行われる。

6-09
先導師の宿

後北条の時代に大山の修験者は、秀吉軍に抵抗するだけの武力を持っていた。この事が災いして、家康の時代になると槍・刀を取り上げられ、山を追われて、御師と呼ばれて主に関東各地を霞場(かすみば)とする民間宗教家に変身した。
御師たちは各地に大山講を組織して檀家を囲い、御札などを届けてお初穂を集め、夏山の期間中は講中を大山に招いて宿を提供した。修験道が廃止された明治時代には先導師と名を変えざるを得なくなったが、各地の大山講との繋がりは絶えることなく、今も旅館業務に携わっている。大山にはこのような先導師の宿をいくつも見ることができる。

6-10
田村通り大山道入り口に立つ大山一の鳥居

田村通り大山道は藤沢の四谷で東海道(現国道一号)から分かれて西に進む。
この分かれ道に大山を指す道しるべと一の鳥居がある。歩いて大山に登っていたころ、東の方から来た大山導者(参詣者はお導者と呼ばれた)は、この下をくぐって大山を目指した。
鳥居は、万治4年(1661)年に木製のものが立てられ、それが延宝4年(1676)に地震で倒れ、長年再建を目指し、天保11年(1840)に願いがかなったがこれも関東大震災で倒れ、昭和34年に今の姿に完成したという。

6-11
鼻の欠けた天狗面

山伏は天狗のイメージで記憶されている。大山―御師―山伏(修験者)―天狗という連想だろう。一の鳥居には天狗の顔を表した額が掛かっている。残念ながら、天狗自慢の高い鼻が折れているが。昭和34年の鳥居再建時に掛けられたといわれている。

6-12
山開きの護摩供養

大山道の入り口である四谷の大山道標の前で、7月1日に大山開きとして、四谷町内主催の護摩供養が行われる。導師をつとめるのは辻堂元町の宝珠寺の住職である。

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