こんにちは!花たち 2020年10月12日 トリカブト・ホトトギス・アケビ・ガマズミ

迷走した台風14号が去って、今日は久しぶりに晴れました。
小出はすっかり秋です。秋の花たちが咲き出し、また、実やタネを付け始めました。


トリカブト

初夏のころまでは順調に育っていました。
それが、8月の猛暑のせいでしょうか、わずかの枝葉を残して地上部が枯れてしまいました。
その残った部分に数輪の花をつけました。
写真は同じ花の裏と表です。
花の形が兜(かぶと)の形に似ているところが、名前の由来のようです。
猛毒とは思えない、やさしい色と形をしています。

ホトトギス

こちらは強烈な色使い。
生命力は旺盛で、毎年いたるところに芽吹いてきます。
そのまま置くと大きくなるので初夏のころに刈り取ります。
少し日当たりの悪いところに育った花がきれいです。

アケビ

写真のアケビはちょうど食べ頃です。
と言っても黒いタネがびっしり詰まっていて、それを包んでいる白い部分が甘いのです。
子どものころ、「アケビ取り」は私たちの大事なあそびでした。
今では、この皮を油で炒めて食べるのが好きです。ほろ苦くていい味です。
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ガマズミ

赤い実がきれいです。
ホームページにしばしば写真を提供してくれる前田会員は、子どもの頃、この実をほお張ったと言っておられました。
霜を被って、黒く変色した頃がおいしいそうです。私もまねてみようと思っています。
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photo & report 石野文蔵

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9 石仏3種 9-2 湘南七庚申 日本最初の青面金剛 庚申塔7基

庚申塔には猿と青面金剛(しょうめんこんごう)像が付きものだが、青面金剛の像は茅ヶ崎、平塚、藤沢、寒川町から全国に広がった。この3市1町にその出現期の事例が7基ある。

寒川町に1基(承応2年:1653)
茅ヶ崎市内に3基(承応3年:1654・同4年・明暦4年:1658)
藤沢市内に1基(明暦2年:1656)
平塚市内に2基(明暦2年・年銘不明)

作られた時期は、最も古い承応2年(1653)から、年不明もあるが明暦4(1658)までの6年間である。

この七基の塔をもって「湘南七庚申」と呼んで順に紹介しよう。

石質、全体の形、四臂(しひ:四本腕)の青面金剛の姿がよく似ていて、同じ石工の手になると考えられる。

「庚申」の文字がないものもあり、庚申塔と言えないという意見もあるが、青面金剛出現の貴重な庚申塔として、平成18年(2006)に県の重要民俗文化財に指定された。これらがこの地にあることを私たちはもっと誇っていいだろう。

9-2-1 寒川神社方徳資料館内 四臂青面金剛塔(しひしょうめんこんごうとう)

高さ90㎝(『寒川町史』一)
承応二年(一六五三)在銘
平成十八年(二〇〇六)、神奈川県有形民俗文化財に指定された。指定名称は「下大曲の庚申塔」。

塔の銘にある「大曲村」は近世村の大曲村のこと。『新編相模国風土記稿』(以下『風土記稿』)高座郡大曲村の項に、村は上・下大曲に分かれているとある。二〇二〇年十月現在、この塔は寒川神社の方徳資料館に展示されているが、かつては大曲の下大曲神社社殿に納められていた。保存状態がよいのもそのためと思われる。

背面、側面は粗彫りで、光背型に笠を被せたような格好をしている。他の六基は光背型なのでこの塔の形は異例である。
青面金剛の頭上は額のようにせり出させてあり、これに対応するかのように、足下の張り出しもせり出してある。このせり出している分の厚みを加工して、青面金剛像と二猿を半肉彫りに仕上げている。

青面金剛は二猿を従え、足下の張り出しには二羽の鶏がいる。鶏は七基の塔の中で、この塔にだけあらわれている。二猿はお尻をついて坐り両手を膝がしらにおく。
青面金剛の持物は上右手に剣、下右手に宝棒、上左手に三叉戟(さんさげき)、下左手に羂索。頭髪は焔髪で宝冠を被る。あごの下に宝冠の紐の結びがある。以上の図様は他の六基と同じであるが、他の塔には鶏がいない。安山岩でたいへん固い。
庚申塔に青面金剛像が出現する最初期の事例として、また丁寧な彫刻を施してあること、引き締まったバランスの良さなどから重要な塔である。

調査したのは平成二十七年(二〇一五)一〇月五日だった。
方徳資料館の学芸員の佐原慧さんに大変お世話になった。改めてお礼を申し上げます。


〈銘〉

向かって右側上方に
承応二年九月吉日

向かって左側上方に
相刕高座郡/一宮庄大曲村

左側の村名の「一」と「宮」の間に、読めないが一文字があるようにも見える。また「曲」は「間」のように見える。
結衆名はない。
『寒川町史』(美術工芸編)を参照した。


 『寒川町史』四〇一・二頁に、この庚申塔と石祠の八幡宮が共に下大曲神社にあると記されている。大変興味深いことに、八幡宮の石祠には、青面金剛塔と同じ「承応二年(一六五三)/八幡/九月十五日」という銘がある。

『風土記稿』に大曲村内の神社として八幡社、十二天社、山王社が記されている。石祠の八幡宮はこの八幡社に関係するものだろう。  

次に、茅ヶ崎市甘沼 八幡神社境内の四臂青面金剛塔(承応3年:1654)を紹介します。

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茅ヶ崎の野鳥たち 南部の海辺編 (53)タシギ

茅ヶ崎の南西部(主に柳島の海岸)で見かけた野鳥たちをアイウエオ順に紹介しています。生態の説明文の一部は『ぱっと見分け観察を楽しむ 野鳥図鑑』(ナツメ社刊)から引用しました。  【杉山 全】

たたずむタシギ
撮影場所は下町屋の小出川

最も嘴(くちばし)の長いジシギ(地鴫)類。
水田、湿地などの淡水域の泥池を好む。
シギ類は生息環境と食物に応じて進化した嘴を持ち、視覚では無く、嘴を器用に使い食物となる生き物を探す。

長いくちばしを泥の中に差し込んで餌を探す
そのとき、くちばしの先2㎝くらいを動かすことが出来るとネット情報に書いてあった。
複雑な体の模様で見つけにくい

心なき身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

西行法師の有名なこの歌は、大磯の鴫立庵ができるきっかけになったと言われている。
タシギは保護色のために人に気づかれにくいので、いきなり足元から飛び立つことがありビックリさせられるそうである。
西行法師もビックリしたのかな。

photo & report 杉山会員

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9 石仏3種 9-1 カラス天狗像のサイノカミ 

 

町田市の南成瀬にカラス天狗像を彫ったサイノカミ(塞の神)が3基ある。背中に羽根をつけているのでカラス天狗と分かる。
内の享保14年と元文2年の2基には「祭神」の文字がある。「祭神」は「サイノカミ」と読ませるものである。
残る1基は「道祖神」と刻まれていて、年号銘はない。「祭神(サイノカミ)」という神がいつの間にか「道祖神」と表記されるようになった例であり、この塔も、この神の歴史を調べる上で重要な位置にある。
神奈川県を含む南関東は全国的に見ても石造道祖神が多く分布する地域だが、今判明している限り、カラス天狗像のサイノカミはこの3例だけである

9-1-1 享保14年(1729)在銘塔 (東京都町田市南成瀬四丁目)

正面
スケッチ
【法量】幅47㎝ × 高97㎝ × 厚27㎝
【向かって左側】年銘
【中央】塔の神名
【向かって右側】村名

【銘】
向かって右側 武州多摩郡
         成瀬村

上部の銘
 (右側) 造立
 (中央) 奉
 (左側) 祭神
向かって左側 享保十四年(一七二九年)
        正月吉日
造立者銘
   木目田治右衛門
   同苗七良左衛門
   同苗仁兵衛
   同苗市良右衛門
   同苗武左衛門
   中里仁左衛門
   同苗三右衛門

公園の中にある。移設されたものだろう。
塔の裏側は粗彫りだから光背型といえるようだ。二つに折れ、顔や手先が傷んでいるが磐座に立つ堂々としたカラス天狗である。
足下に「氏子」として木目田姓5人、中里姓2人の名がある。同姓を続けるとき「同苗◯◯」とするのも茅ヶ崎辺りでは見かけない書き方である。
カラス天狗像を彫るところも珍しいが、塔の中央上部に「祭神」とあり「サイノカミ」と読ませている。この塔が道祖神ではなくサイノカミ(塞の神)であることを示す貴重な一例でもある。

【所在】東京都町田市南成瀬四丁目19番19号 西山児童公園内

9-1-2 元文2年(1737)在銘塔 (町田市南成瀬五丁目 山之根稲荷社境内)

証明
向かって右側面
スケッチ

町田市立第二小学校のそばの山の斜面の稲荷社境内にあって見つけにくい所にある。
この塔のカラス天狗は、先の享保14年塔にあった堂々とした雰囲気はないが、若々しさを感じさせる。

正面、向かって左側 年銘
正面、向かって右側 村の名
造立者銘
【銘】
正面、向かって像の右側に
奉/造立/祭神/ 武刕多摩郡成瀬山之根村
像の左側に
元文二丁巳七月吉祥日 氏子惣施主(一七三七年)

【造立者銘】
足下に八人の名前があるが、石材が傷んでいて読めない文字が多い。[ ]は文字数もわからない部分。
柳田[  ]
武藤加[ ]兵
武藤文[  ]
落合左郎[  ]
落合[  ]
落合[  ]
落合佐[  ]
[    ]

南町田に3基ある烏天狗サイノカミの2例目。
「祭神」の「祭」は「登」のように見えるが、サイノカミと読ませるため「祭」である。
「山之根村」は江戸時代の成瀬村内の集落の一つで『新編武蔵風土記稿』成瀬村の項に、「山根」という小名がある。
西山児童公園内の享保14年銘の烏天狗塞の神から8年後の建立だが、享保のものを手本にして作ったと考えられる。

<所在> 町田市南成瀬五丁目9番43号 山ノ根稲荷社境内
町田市立第二小学校の校舎の前から北東に伸びる登り坂をたどり、国道140号を渡り、そのまま20~30メートル坂に沿って登ると、右手先に稲荷社の赤い鳥居が見える。

9-1-3 年銘なしのカラス天狗像サイノカミ (町田市南成瀬七丁目路傍)

正面
スケッチ
【法量】幅最大値32㎝ × 高さ45㎝ × 厚最大値15㎝

【銘】
正面、像の向かって右側に
奉建立 道祖神
左側に
武刕/成瀬 東光寺村/惣氏子

町田市クリーンセンター正門前の路傍にある。光背型で傷みは少なく天狗の表情がよくわかる。羽うちわを持ち、天狗であることを強調している。
南成瀬地区に3基あるカラス天狗サイノカミの一つで、これは年銘を欠いている。
享保14年(1729)と元文2年(1737)をモデルとしてその後に作られたものと考えられる。像が様式化してまるで子どもの姿となっているが、その分可愛い。
また、前2例は「祭神」と刻字して「サイノカミ」と読ませているが、これは「道祖神」と刻字してある。
江戸時代中期に出現する初期の道祖神は双体像を刻み、時代が下ると「道祖神」と文字で表すように変化する。しかし、人々はそれをセーノカミ、サイノカミと呼んだ。「道祖神」と書きながらサイノカミと読むのはなぜだろうか。また、「サイノカミ」に「道祖神」の文字をあてたのはどういう理由によるものなのか。
「東光寺村」とあるが『新編武蔵風土記稿』成瀬村に成瀬村内の小名の一つとして出てくるので「村」ではない。元文2年銘の事例でも「山之根村」と、小名に「村」を付けている。

現地に建っている説明板

説明板左側の道祖神の説明に「享保8年霜月吉日」とあるが、この年銘は確認できなかった。塔の形と技法から見て享保の建立とはとても思えない。
文中の「薬師堂」は『新編武蔵風土記稿』成瀬村に、
「薬師堂〈除地、五百坪、字上合にあり、三間四方にして巽向きなり、薬師は木の坐像なり、長九寸、弘法大師のの作なりと言い伝う、堂の傍らに本山修験五大院といえるもの居住して、堂を護る、五大院は圖師村大蔵院の配下也〉」とある。
この『風土記稿』の記事をもって修験道とカラス天狗サイノカミを結びつけるのは無理なように思える。

所在】町田市南成瀬七丁目20番のセンチュリーハイツの近く

photo 故坂井源一会員 平野会員 ー平成26年(2014)10月31日現地調査ー
report 平野会員


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相模 修験道の聖地を訪ねて 9-石仏3種- (目次)

9-1 烏天狗像のサイノカミ(塞の神)
9-2 湘南七庚申 日本最初の青面金剛塔(庚申塔) (掲載途中)
9-3 龍前院型三猿塔(庚申塔) (現在未掲載) 

ここでは修験道から離れて、県内外・市内外の特徴ある石仏を3種類紹介しよう。

まず、カラス天狗像のサイノカミ(塞の神)。
町田市成瀬にだけに3基が見つかっている。像はどれも背に羽根を持ち一目でそれと分かる。「祭神」の刻銘は「さいのかみ」と読む。なぜこのような形のサイノカミが出来たのか、謎の石仏である。

二つ目は平塚・茅ヶ崎・藤沢・寒川に7基ある4本腕の青面金剛塔(しょうめんこんごうとう)。7基は平成18年2月に県有形民俗文化財に指定された。庚申塔に青面金剛が現れる初期のもので、これも謎の石仏である。

三つ目。市内浜之郷の龍前院に、見ざる・言わざる・聞かざるの三猿を彫刻する明暦3年(1657)銘の塔があり、茅ヶ崎市重要文化財に指定されている。この塔はいくつかの特徴があり、「龍前院型三猿塔」と呼ばれている。この型の三猿塔は路傍の石仏の中では比較的早い時期に現れ、茅ヶ崎市の近辺に十数基見つかっている。


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