理事9人出席 於 茅ヶ崎サポセン
[報告]
①七堂伽藍跡碑 建碑60周年記念誌への寄稿について
②茅ヶ崎郷土会のHPについて
[議題]
①大岡越前祭に参加の件
4月21日(土)・22日(日)場所未定
大岡越前守遺跡写真展を出展
②平成30年度 茅ヶ崎市文化祭に参加の件
10月9日(火)~13日(土)於 市民ふれあいプラザ
内容 平成29年度の史跡めぐりから
③今月の行事予定 確認
・23ヶ村調査勉強会(公開) 6日・20日(火)13:30~ 於 福祉会館
・史跡めぐり(公開) 11日(日)雨天は一週間後 285回 下曽我の流鏑馬等見学
・講演会(公開) 18日(日)16時~「長福寺の七里様ほか」源 邦章会員 於 市立松林公民館
・郷土会勉強会(公開) 20日(火)10時~「伊勢信仰―天養記に見る大庭御厨」平野文明会員 於 福祉会館
・「茅ヶ崎郷土かるた」カルタ大会 2月20日~22日(木) 於 市立松林公民館
④その他
・会の活性化をめぐって活発な討論が行われた
・次回理事会 3月2日(金)9:30~ 於 茅ヶ崎サポセン
report 平野会員
TV取材に対応しました 18/02/03(土)晴
TV取材と言ってもN○KとかT○Sとかに対応ではないのです。
小型カメラと三脚をかついでやって来たのは、東海大学文学部広報メディア学部一年生のお嬢さんお二人。
“ 平塚・茅ヶ崎市内の和菓子をテーマに作品を作るのだ ”
と元気いっぱい。
我が茅ヶ崎郷土会に何を聞きたいの?
に対する答えは、
“ 茅ヶ崎に牡丹餅立て場があって、牡丹餅茶屋とも言っていたということですが、それはいったい何だったのですか?”
それなら答えることができると、ウンチクを傾けたのでした。
傾け過ぎた感もありましたが、対応したのは源会員と平野会員、ほかに同席していたのは今井会員、山本会員。会員外で加藤さんという方も同席されておられました。
質問とウンチク返答は次々と広がって、
粟のぼたもちを出す茶屋があったよ、それで牡丹餅茶屋だな、
などと見てきたようなことも言いだす始末。
“ 南湖立て場もあったと聞いていますが ”
といきなり横から来た。
“ 南湖立て場ではどんな食べ物があったのですか? ”
お二人はいろいろ調べていて、なかなか手強いのです。
エーと、江戸時代にー、何という名前だったかなー、あっそうだ大田南畝という人が、江戸屋という店に休んでー、何か食べたという記録があるんだよなー 何を食ったのかなー
などと答えていると、別の会員から
松露(しょうろ)の吸い物とか、ひしこのなますとか書いてあるんじゃなかったかな
とフォローが出てくる。
こんな調子で撮影は進んだのでした。
それにしても今時の若い人はすごいと思ったのは、テーマは湘南の和菓子であるのに、茅ヶ崎にむかし「牡丹餅茶屋」があったことを見つけて、いつの間にか、昔の旅人は何を食べていたのかを調べ始めるという、その三段跳び思考の大胆さについてでした。そしてこういう発想も必要だなとつくづく思ったのでした。
“ これから和菓子屋さんを訪ねてお話を聞きます ”
の言葉で別れましたが、取材はうまく行ったのかと心配するのは、私たちの年のせいでしょうか。
水嶋善太郎著『小和田郷土物語』平成元年 p82
土御門泰邦卿『東行話説』 茅ヶ崎市史4 p224収録
南湖立場―江戸屋
大田南畝(蜀山人)『改元紀行』 茅ヶ崎市史1 p303~
report 平野会員
photo 加藤さん
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23ヶ村調査 いよいよ下寺尾に着手 18/1/16 晴
地元の皆さんと顔合わせ
昨年(平成29年)4月に中島(江戸時代の中島村)から始めた市内23ヶ村調査、二つ目の村、下寺尾(江戸時代は下寺尾村)にはいりました。
平成29年が、この地にある七堂伽藍跡の碑の建碑60周年に当たることから、この村を選んだものです。
午後1時半、自治会館をお借りして、地元から4人の方、私たち「23ヶ村調査隊」は10人の参加でした。
今日を迎えるに当たって、下寺尾自治会長の佐藤次男さんには大変お世話になりました。私たちの計画を各戸に知らせ、また地元の方々を紹介して頂きました。お礼を申し上げるとともに、今後のご指導をお願いいたします。
実は今日は下寺尾調査の2回目でした。29年10月17日、調査隊のメンバーだけで、下寺尾とはどういうところだろうかと回ってみたのです。雨の中の散策でした。
今日は日差したっぷりの暖かい自治会館のフロアーで、まずお互いに自己紹介を交わし、調査の目的・経過・内容・今後の次第などをお話しし、いよいよ地図を広げてご説明を頂きました。
『茅ヶ崎市史3 ―考古編』169頁にある「北方(きたかた)横穴群 下寺尾1127(台地斜面)」はどこだろうかなどが話題になりました。その間やく2時間。
会合終わって、そばにある「おもよ井戸」を見に行きました。
今は井戸はなく、斜面の一角が崩れたように落ち込んでいるだけです。
おもよ井戸
やぶの中でいつも冷たい水が出ていた。奥の方に入っていくと井戸があるといわれていた。池の中に田島(たじま)のように突き出たところがあり、そこにカツの木(ヌルデ゙)があり藁ヅトがぶらさげてあった。虫歯で苦しんだ人が願をかける。治ったらお礼に塩をツトッコに入れてあげた。オモヨ様という人が虫歯で苦しんでその井戸に身を投げたので、それからそこに願をかけると治るといわれる。(川島イト 明治二十九年生まれ)
『茅ヶ崎市史3 ―民俗編』581頁に載っている話です。
風もない暖かい午後でしたが、お日様は西の空へ落ち始めていました。おもよ井戸の前から見た大山です。
photo & report 平野会員
おも井戸(おもよ井戸)調査隊 海老名市大谷北の井戸を訪ねる 18/1/11(木) 快晴
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茅ケ崎市に下赤羽根と上赤羽根があります。寒川町にも下大曲と上大曲があります。しかし茅ヶ崎の下寺尾は、それに対応する上寺尾が近くには見あたりません。「どうしてなのだろうか」と疑問を持ち続けていたところ、茅ヶ崎郷土会の学習会で『新編相模風土記稿』の下寺尾村の記述にめぐり会い、上寺尾の存在を知りました。茅ヶ崎から北の方に2里余を隔てて寺尾があると書いてあり、なんと今の綾瀬市内に当たります。しかも「正保の頃(1645~48)はそれを上寺尾と呼んでいた。この上寺尾に対して茅ヶ崎の下寺尾となる」との注釈まで付いているのです。
これが、私たちが綾瀬市とそれに隣接する海老名市を探るきっかけとなりました。早速、図書館で両市発行の図書を何冊かめくってみました。すると、遠い昔に姉妹都市の約束でもしていたかのように、茅ヶ崎・海老名・綾瀬の3市に、類似あるいは共通する逸話がメモ用紙を埋め始めました。その中のひとつが「おも井戸」と呼ばれる池です。茅ヶ崎の下寺尾にあり、海老名の大谷北にあり、綾瀬の早川にある「おも井戸」。この3つの井戸に伝わる話の内容には多少の相違はありますが、同じ名を名乗り、信仰の池として土地の人に親しまれ続けてきたという共通点があります。 茅ヶ崎の「おも井戸」のあらましを知り得てから、海老名市と綾瀬市におも井戸調査の第一歩を踏み出してみることにしました。
地図を頼りに、katada会員と即席の調査隊を組んで、相模線の厚木駅に下車し、海老名市大谷北1丁目にある厚木ナイロン(現 アツギ株式会社)を目指して歩くその先、会社の広大な敷地の東側の住宅地の中に、弁天堂の小さな祠を見つけました。
弁天社とその横に「おも井戸」跡
その傍らには、掃除の行き届いた3坪程の池の跡が残っていました。池に向かって左手に、細い石段があって、登るとその奥に神明社がありました。池の水は今は枯れていますが、神明社へ参詣する人たちが口を漱ぎ手を清めた御手洗の池であったといいます。かつてはこんこんと湧き出る清水を湛えていたのでしょう。この池の水で眼を洗うと眼病が治るという言い伝えもあります。現地ではこの井戸を「おも井戸」と呼び、神明社への坂(今は階段)を「おも井戸の坂」と呼んで、市の歴史遺産として大切にしているようです。
神明社へ登る階段 かつては「おも井戸の坂」と呼ばれていた
神明社の大鳥居 神明社は福寿院天照寺(高野山真言宗)に隣接している
なお、「おも井戸」は「御目井戸」からの転訛と考えられているようですが、解明されてはいません。それにしても「おも井戸」と呼ばれる池が3市にひとつずつあり、いずれも神聖な池として崇められてきたという史実は何を意味しているのでしょうか。不可思議な謎を残して、次の目的地である綾瀬早川のおも井戸へと足を運びました。海老名市と綾瀬市を歩き万歩計の数字は22,957歩。Katada会員の元気と知恵を分けて貰いながら海老名探索の一日を終えました。
report 町田会員
photo 片田会員
23ヶ村調査 中島の大川跡と堤防を探して 18/1/9 晴
現在中島(江戸時代は中島村)を調べています。
相模川河口に近く、洪水との戦いを強いられてきました。
村の中に「大川淵」という小字(こあざ)が南北に延びています。おそらく昔むかしの相模川本流の跡だと思われます。この日の調査は、「大川」跡をたどることと、相模川から中島を守る堤防を歩くことでした。
セートヤキ(だんご焼き)の日が近く、中島に4カ所あるサイノカミ(道祖神)はどこも集められた御飾りに埋まっていました。



「大川」の始まりは、高い位置を走る東海道本線の脇にあり住宅と畑の間にある不自然な細長い地所です。

それが次第に南に下ると、水はありませんがいかにも流れの跡と思われる溝になります。

その先は「親水公園」。南北に長く数十メートルの流れが現れます。


親水公園の南側はゴルフ場。中には入れませんがゴルフ場に大きな池があり、これも「大川」の名残(なごり)です。

古い地図で見ると「大川」は中島中学校の東側で小出川と合流していました。産業道路と中島・柳島を結ぶ道路が交差する当たりです。
次に相模川の洪水から守る堤防を歩きました。堤防は道路になっていて、西側はゴルフ場、その向こうを相模川が流れています。
もうすぐ新スポーツ公園に移りますが「中島スポーツ公園」の前を南北に延びる高まりも堤防のようです。
私たちが中島を歩いた日は良い天気で大山がきれいに見えていました。しかし、風の強い日でした。
photo & report 平野会員
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