284回 鎌倉の廃寺跡(鎌倉市) 平成29年12月25日(月)

はじめに
暮れも押し詰まった12月25日(月)、参加者は少なかったですが、鎌倉の廃寺跡をめぐりました。
コースは①理智光寺跡、②永福寺跡、③鎌倉宮、④法華堂跡(持仏堂跡)、⑤太平寺跡、⑥宝戒寺、⑦東勝寺跡としました。
鎌倉宮や宝戒寺は廃寺ではありませんが、話の続き具合と道順の関係からコースに取り込んだものです。
めぐったのは上記のとおりですが、ここにその報告をするにあたっては、⑥宝戒寺を除外し、①理智光寺の願行上人との関係から大覚寺跡を加え、また記述の順番を回った順番と違えました。これは関連ある内容毎にまとめたためです。
『鎌倉廃寺事典』(昭和55年有隣堂刊)を大いに参照しました。

284回-1
鎌倉に居を構えた頼朝は、二つの巨大寺院を建立しました。
勝長寿院と永福寺(ようふくじ)です。
勝長寿院は大御堂ヶ谷(住居表示は鎌倉市雪ノ下)に父 義朝の菩提を弔うために建てたもので、文治元年(1185年)に落慶供養が行われました。
永福寺は二階堂に建てました。頼朝は文治5年(1189)に陸奥国の藤原氏を倒します。現地で中尊寺の二階大堂、大長寿院を見て感激し、これを鎌倉に再現して、奥州の戦いで死亡した多数の怨霊を弔うためであったと『吾妻鏡』は記しています。
頼朝が鎌倉に帰ってすぐに準備は始められたようです。計画はすでに奥州中尊寺でたてられていたのでしょう。
建久2年(1191)2月15日の『吾妻鏡』に、頼朝は寺の位置を定めるために大倉山の辺を歴覧したと書いてあります。
『鎌倉廃寺事典』は『吾妻鏡』を引きながら、永福寺が出来る課程とその後についてくわしく記しています。ただ『鏡』の書きぶりは、建設工事の進捗よりも、その庭造りに頼朝がいかに心を配ったかに関心をもっていたかのようです。永福寺の庭園は完成後に名園として知られていました。三方を小高い山に囲まれて、東向きに建てられ、前に池がありました。奥(北)に薬師堂、中央に永福寺(二階堂と呼ばれた)、南に阿弥陀堂の三つの建物が回廊でつながって一直線に並んでいました。しかし二つの堂と永福寺はそれぞれ別の寺として運営されていたようです。
建久3年(1192)12月25日に竣工式に当たる永福寺供養が行われました。阿弥陀堂の供養はその翌年の11月27日、薬師堂は建久5年(1194)12月26日で、それぞれ京都から高僧を迎えて導師としています。堂供養の年は1年ずつ違っていますが建物は同時に完成していたのではないでしょうか。
その後火災に遭ったり修理されたりしますが、15世紀半ばまで記録に表れているそうです。いつ廃絶したかは明確ではないようです。

284回-2
頼朝の霊をまつった法華堂 その跡 -鎌倉市西御門2丁目5-5

頼朝は子どものころから聖観音の像を自分の守り本尊として信仰していました。
治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れて落ちるときに、その像をある岩窟に安置しておきました。鎌倉に凱旋したあと、一人の僧がこの像を持って頼朝の元にやっ
てきました。
文治5(1189)、奥州討伐に出かけるとき、この僧に「出発後20日たったら、館(大蔵幕府)の後ろの山にこの観音像を祭るように」と指示しました。僧は、仰せに従い仮屋を設けてまつり観音堂と名付けました。

建久2年(1191)2月21日、頼朝は持仏堂に阿弥陀三尊の画像を安置し、御堂供養を行いました。同6年(1195)、この持仏堂に造作を加えます。仮屋だった観音堂を本格的な寺院(持仏堂)に建て替えたものだろうと『鎌倉廃寺事典』は記しています。
同事典は観音堂がそのまま持仏堂になり、その後法華堂と呼ばれるようになり、その場所は動かなかった解釈しています。しかし、現在頼朝の墓所されている場所と法華堂の位置関係については諸説があるようです。事典は諸説についても論及しています。
正治元年(1199)1月13日頼朝が亡くなりました。
同年3月2日頼朝の四十九日、4月23日の百ヶ日、翌年正月13日の一周忌仏事は持仏堂で行われました。この一周忌法要の場所として初めて法華堂の名が出てくるそうです。
鶴岡八幡宮寺は二十五坊と呼ばれた供僧によって運営されてきました。応永22年(1415)、坊号をあらためて院号としたとき、その一坊だった頓学坊は相承院と名前を変えます。戦国時代の記録には、法華堂は相承院が管理するとあるそうです。
江戸時代になって、寛文3年(1663)、延宝8年(1680)の文書に、相承院が法華堂を支配しているとあります。『新編鎌倉志』(貞享2年:1685)にも法華堂は相承院が領するところで、頼朝の観音像は相承院に安置されているとあります(雄山閣版6巻15頁)。
さらに時代が下り、神仏分離のときに相承院は廃寺になります。法華堂も消滅し、その跡に白旗神社が出来たといわれています。とすると、法華堂は、いつの頃か今の白旗神社の所に下りてきていたのでしょうか。

284回-3
北条氏一門が自決した東勝寺 その跡 -鎌倉市小町3丁目10

頼朝が幕府を開いてから約150年、鎌倉に拠点を置いていた鎌倉幕府は滅亡しました。
元弘3年(正慶2年)(1333)、新田義貞の軍勢が鎌倉を襲いました。
5月8日に上野国で旗揚げした新田義貞は援軍を増やしながら鎌倉を目指します。阻止しようとする鎌倉方は14代執権北条高時のもと、各地で迎え撃ちますがいずれも突破され、新田勢はついに5月18日、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻撃を開始します。しかしこの切り通しの守りは堅く、死者の数ばかりが増えていきました。
『太平記』によれば21日夜、義貞は龍神の庇護のもとに潮の引いた稲村ヶ崎を越えて、鎌倉に突入し、稲瀬川のあたりの人家に火を放ちます。海風にのって鎌倉中に燃え広がった中で死闘が続き、北条勢は追い詰められ、菩提寺の葛西ヶ谷、東勝寺で自決しました。その数を『太平記』は一門の者283人、殉死者と合わせて870余人と記しています。
『鎌倉廃寺事典』によると東勝寺の開基は2代執権北条泰時、開山は退耕行勇。行勇は仁治2年(1241)東勝寺で示寂とありますから鎌倉時代前期の創建です。
同事典には廃絶の時期は不明としますが、文明18年(1486)の文には寺名がないとしています。
高時の霊は、東勝寺から滑川を越えた宝戒寺で祭られています。宝戒寺は歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝えられています。高時の慰霊のために後醍醐天皇、足利尊氏によって創建されたといわれています。

284回-4
護良親王をまつる鎌倉宮 -鎌倉市二階堂154
もちろん鎌倉宮は廃寺ではありません。ここに取り上げたのは鎌倉幕府滅亡後、建武の新政を支えた護良親王を語るためです。
護良親王は鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇の子どもです。『太平記』には第3宮とあります。父と共に倒幕のために転戦しますが、建武の中興の政策が動き始めると足利尊氏と対立し、やがて後醍醐天皇とも不仲になって、ついに父の命によって捕らえられ鎌倉に送られました。

当時、鎌倉は尊氏の弟の足利直義が治めていて、その監視下に置かれ、二階堂にあった東光寺の土牢に幽閉されたと『太平記』は記しています。
東勝寺で自決した14代執権北条高時の遺児、北条時行が、建武2年(1335)、鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉に迫ります。鎌倉にいた足利直義は鎌倉を脱出する際に護良親王の殺害を命じました。時行が護良親王を擁して建武の新政側に対抗することを恐れてのためと考えられています。
明治維新を成し遂げた明治政府は天皇親政国家を目指しました。後醍醐天皇の建武の中興を鏡としました。建武中興に尽力した人々の功を賛える中で、明治天皇は護良親王を祭る神社の創建を命じ、東光寺跡の現在地に鎌倉宮が造営されました。明治2年(1869)のことでした。

284回-5
護良親王の墓所を守った理智光寺 その跡 -鎌倉市二階堂748のあたり
鎌倉宮の南側の道路を東の方、永福寺跡、瑞泉寺方面に向かうと、左手に永福寺跡、その反対側に二階堂川にかかる理智光寺橋があります。この橋を渡って進むと住宅地として開発されていますが、地名を「理智光寺谷」といいます。おそらくかつてはこの谷(やつ)の全部が理智光寺の寺域だったろうとされています。
開山は願行坊憲静(?―1295 願行上人)、寺の名は鎌倉時代の末期から現れます。初めは理知光院と名乗っていましたが、戦国時代の16世紀半ばから理智光寺と書かれ、その頃は勢いを失っていたようです。

江戸時代末期に作られた『鎌倉攬勝考』(かまくららんしょうこう 文政12年:1829)には「尼寺となって東慶寺の末寺」と、また『新編相模国風土記稿』(天保12年:1841)には「東慶寺の末寺で阿弥陀堂のみ」と書かれているそうですから、もっと衰退していたようです。
『鎌倉廃寺事典』は、廃寺になったのは鎌倉宮御造営のころ(明治2年)で、その後は、今の護良親王御陵の石段の前に2間×3間の庫裡があって手習師匠のお婆さんが住んでいたという興味深い話を引用しています。
このように理智光寺の歴史をたどってもあまり面白くもないのですが、注目点は、大塔宮護良親王とこの寺との関係です。
今は宮内庁の管理になっている護良親王墓所が、この理智光寺谷の一角、理智光寺橋を渡ってすぐの小高い丘の上にあります。『太平記』巻13に、建武2年(1232)、鎌倉を脱出する足利直義が、部下に命じて土牢に捕らえられていた親王を殺害し、その首を捨てたのを、理知光院の長老が拾って葬った話が載っています。親王の墓所はこの話を元に築かれたのでしょう。
寺の創建はこの事件より前であったにしても、理智光寺は護良親王の霊を祭ることを大きな役目としていたのではないでしょうか。

284回-6
願行上人が試みの鉄仏を作った大楽寺 その跡 -鎌倉市二階堂421覚園寺の近く
理智光寺の開山といわれる願行坊憲静が試みの鉄不動を、大楽寺で作ったという話が「大山不動霊験記」(江戸時代)に載っています。伊勢原市大山にある大山寺の本尊、国指定重要文化財の鉄不動を作るにあたって、大楽寺で試作したという内容です。

大楽寺の本尊はこの試みの鉄不動だったと伝えられています。大楽寺が廃寺になると、他の諸仏とともに、近くの覚園寺に移されました。
創建は鎌倉時代末期の文保3年(1317)、開山は公珍。胡桃谷(くるみがやつ 現在は浄妙寺4丁目の当たり)に建てられました。
それが、永享元年(1429)に貰い火から全焼し、薬師堂が谷(現住居表示は二階堂)に移りました。『風土記稿』には「胡桃山千秋大楽寺」とあります。
大塔宮鎌倉宮の前を北に進み、道の右側に庚申塔があります。そこから斜め左に入ったところに寺があったと『鎌倉廃寺事典』に書かれています。この頃は覚園寺(鎌倉市二階堂421)が管理していたようです。同事典は明治維新で廃寺になったのであろうとしています。

284回-7
仏殿が円覚寺の舎利殿となった太平寺 その跡 -鎌倉市西御門1丁目11-1来迎寺のあたり
『新編鎌倉志』に「円覚寺の開山塔の昭堂(=舎利殿)は、太平寺の仏殿なり」とあります(西御門村高松寺の項 雄山閣版6巻17頁)。
今、国宝指定を受けて有名な円覚寺舎利殿は、西御門にあった太平寺の仏殿を移築したものという意味です。
太平寺の創建は弘安年間(1278-1287)、妙法尼によるとされています。
時代は下って、初代鎌倉公方(在位1349-1367)の足利基氏(1367死去)の後裔とも室ともいわれている清渓尼が中興の祖とされています。鎌倉時代には衰退していたのかも知れません。復興は基氏の没後始まったと『鎌倉廃寺事典』にあります。
さらに時代は下って戦国時代、青岳尼(1576没)が住持のとき、小田原北条氏と敵対していた安房国の里見の兵が鎌倉に攻め入って、本尊の聖観音立像と青岳尼を連れ去りました。そして住持を失った太平寺は消滅します。
太平寺の仏殿が円覚寺に移されたのは、円覚寺開山堂が火災に遭った永禄6年(1561)後とされています。仏殿が移設されるのですから、その頃はもう太平寺は機能していなかったものと思われます。

Photo 平野会員
Report 山本会員 平野会員

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280回 鎌倉市 鎌倉五山 平成29年5月22日(晴)



280回-00
はじめに
北鎌倉駅から円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺と鎌倉五山寺院のうち、四つの禅宗寺院を訪ねて鎌倉駅で解散しました。
まず、北鎌倉駅横の円覚寺前で、minamoto会員が中国に発する五山制度の由来、鎌倉・京都の五山寺院とその文化について説明しました。
そして、今日の説明はわたくしyamamotoでした。
つい口をすべらせ、「JRの線路の向うの池、百鷺池(びゃくろち)の先に見える石垣までが元々の境内で、明治政府により横須賀の海軍鎮守府まで鉄道を通す必要から分断された」と言ったところ、「向こうにも門があったのですか」と質問され、「エエ、ありました。」とあやふやに応えてしまい、まずい、また宿題を抱えてしまいました。
調べてみますと、円覚寺の古絵図では、池を囲む様に築地塀があり、その凹型の外側に馬道があり凹型の左右の先端を南北に今の鎌倉みちが通っていました。つまり見えていた石垣のさらに向こうに馬道があったという事です。門は凹型の側面左右下部に南門北門と二つあったことが分かりました。

280回 1-01
円覚寺 (鎌倉市山ノ内409)

臨済宗大本山 瑞鹿山(ずいろくさん)円覚寺

「瑞鹿山」の額の総門
三門(山門)

 

「漱石」銘の手水鉢

 

 

 

 

 

鎌倉五山第二位、開基は8代執権北条時宗、開山は無学祖元(仏光国師)
蒙古襲来の文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で戦死した両軍兵士の菩提を弔うために弘安5年(1282)に建立されました。総門から入り、三門(山門)をくぐり仏殿に向かうと、右側に手水石があり、「漱石」と彫ってあります。「水に枕し、石で口注ぐ」の中国の古文からとった文句で、夏目漱石も自分の号の由来としています。天保6年(1835)年の銘があり、1867年生まれの夏目漱石とは何の関係もありませんが、漱石は塔頭(たっちゅう)の帰源院に来ているので、面白いと思いました。

280回 1-02
仏殿 宝冠釈迦如来像 白龍の図 開山の無学祖元の頂相
円覚寺の境内は広大で全てを見学するのは時間的に難しいので、桂昌庵(十王堂、徳川五代将軍綱吉生母、桂昌院ゆかりの建物)、選仏場、柳生道場を移した居士林(在家修行者のための専門道場)を観て、仏殿に入り本尊宝冠釈迦如来像を拝観しました。
天井絵は日本画家の前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図です。
関東大震災で倒壊したため、現在の仏殿は元亀4年(1573)の「仏殿指図」を基に昭和39年に鉄筋コンクリート造で再建されました。

280回 1-03
鎌倉石の露頭と鎌倉石の石垣
鎌倉では方々で鎌倉石の露頭を見ることができます。円覚寺の境内にも巨大な崖となって露出しています。鎌倉石は柔らかい石で加工しやすく、かつてはたくさん切り出されていました。石段、敷石、擁壁、かまど、水路の樋などに利用されていましたが、現在は切り出しが禁止されているそうです。三門の通路の敷石も鎌倉石が敷き詰めてありました。

280回 1-04
妙香池・舎利殿
仏殿を出て、方丈の横を、妙香池を左手に見ながら進み、仏日庵の手前を左に折れると、鎌倉で唯一の国宝建築物で、かつ日本最古の唐様建築物の舎利殿があります。
下見をした5月3日には特別公開されていましたので間近に見られたのですが、この日は門の外からしか見られませんでした。教科書で見た建物が遠くに見られるだけでした。横浜の県立歴史博物館では、原寸大の実物模型を展示しています。
花頭窓(かとうまど)や弓欄間(ゆみらんま)、粽柱(ちまきばしら)に裳階(もこしなどが特徴です。

280回 1-05
仏日庵 時宗の像
舎利殿の先に仏日庵があります。円覚寺の開基 北条時宗の廟所です。
9代貞時(時宗の子)、14代高時(時宗の孫)も合葬されています。
この日は高時の命日に当たり、札がでていました。
またこの日は、元弘3年=正慶2年(1333)、東勝寺で北条一門が滅亡した日で、宝戒寺では「得宗権現会」が行われていますが、そちらにも回るのは時間的に不可能でした。
仏日庵は門外から中の様子を見て、寄らずに進みました。

280回 1-06
白鹿洞(びゃくろくどう)
「円覚寺開堂の日、集まった人々と共に、無学祖元禅師(むがくそげんぜんじ)の説法を聞こうと、洞穴から白鹿が群れをなして現れた。この奇瑞譚によって円覚寺の山号を瑞鹿山(ずいろくさん)という」
と説明版に書いてありました。
この山号は総門に掲げられています。

 

280回 1-07
弁天堂 洪鐘(おおがね)
鎌倉三名鐘の一つ国宝の洪鐘(おおがね)を見るために,急で高い石段を登りました。数えると百段余り、苦しい記憶のみ残っています。
画像はその登り口です。
円覚寺では梵鐘のことを洪鐘といっています。そばに立ててある説明板に次のように書いてありました。
「時宗の子、貞時によって1301年(正安3年)に鋳造された。鋳造がうまくいかず、江ノ島の弁天様に祈願したところ、百鷺池の底をさらえとの夢告があり、金銅の塊を得て、それを使ってこの鐘を作った。貞時は江ノ島弁才天を洪鐘の神体として弁天堂を建てて祭った」
弁天堂のそばに茶屋と富士山の見える見晴らし所がありました。

280回 2-01
浄智寺(鎌倉市山ノ内1402)
臨済宗円覚寺派金寶山浄智寺
鎌倉街道を南に進むと、踏切手前右側に五山第四位の浄智寺があります。
開基は北条宗政とその子師時(後の10代執権)です。5代執権時頼の3男宗政が29歳で若死にしたため、宗政の夫人が一族の支援により、夫と遺児である師時の名で開基としたと伝わります。
開山は三人といわれています。「当初開山に招かれた日本人僧の南洲宏海が、自分が開山となるには大任過ぎるといって、師である宋の僧、大休正念を迎えて入仏供養を行い、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧(ごったんふねい)を開山としたため」と説明板に書いてありました。
総門の前には鎌倉十井の一つ甘露ノ井があります。

鐘楼門
山門は二階建てです。2階は鐘楼になっていて、鐘楼門と呼ばれています。

280回 2-02
曇華殿(どんげでん)
鐘楼門をくぐると仏殿(曇華殿)があります。
当寺の本尊の阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来を安置してあります。
この三体を「木造三世仏座像」といい、それぞれ過去、現在、未来を表しているそうです。三体の姿はほぼ同じで、中央のお釈迦様がわずかに高く、その外の違いは指の組み方です。向かって左の阿弥陀如来の印相が弥陀の定印で、他の二体は法界定印のように見えます。
鎌倉に多い衣の裾を台座の下まで長く垂らした「法衣垂下様式」で室町時代の作と言われています。

280回 2-03
観音鎌倉札所三十一番
曇華殿を、向かって左に回り込むと裏手に木造観音立像が祭ってあります。観音様の脇に板碑が立ててありました。

 

 

この観音様の頭上には木板の額が架かっていて、次のように書いてありました。
鎌倉札所第三十一番/山ノ内 浄智寺/観世音菩薩像/けふよりそ(ぞ) こかね(黄金)の/やまに入りにけり/きよきさとりの/ちゑをとりつゝ/東京深川木場/伊勢㐂店主/施主材木商/初代齋藤夘兵衞/安政三年三崎町西浜/大井家ニ生化齢七十三才
安政3年は西暦1856年です。

観音堂にはこのような額が架かっていました。
右から左に「◯◯殿」の「◯◯」が読めません。
境内を散策していますと、宝篋印塔や五輪塔に出会います。

 

280回 2-04
鎌倉時代から現代に続く墓地
本堂の裏手は鎌倉石の露頭で、そこにやぐらが穿たれています。やぐらの中も、その前にも現代の墓石が林立していて、この一角の墓地は鎌倉時代にさかのぼることを表しています。
現代の墓石が多いなか、江戸時代の供養塔もありました。3基の中の右側二つが古く、その向かって左は「元禄三庚午」(1690)、右は「寛文九乙酉」(1669)の年銘でした。庶民が墓石を建てるようになったころのものです。

280回 2-05
横井戸の跡
鎌倉石を掘った井戸跡がありました。説明板に、
「横井戸 山の水をためて用水に使うため、かなり古い時代に掘ったものとおもわれます。三十数年前まではコウモリのすみかになっていました。」と書いてありました。

 

280回 2-06
5月の風 渡る
境内に茅葺きの大きな建物があります。中に上がることはできませんが、玄関から眺めると畳の間を通して庭園の一角が広がっています。
このカメラアングルは多くの人の目を引いたらしく、ネット上にたくさんの画像が掲載されています。
浄智寺を辞するあたり、私たちも一枚!

 

280回 3-01
建長寺 境内図 (鎌倉市山ノ内8)
建長寺は鎌倉五山第一位です。
開基、北条時頼が、開山に蘭渓道隆(大覚禅師)を中国(宋)から迎えて建長5年(1253)に創建されました。禅宗寺院を模したもので、総門、三門(山門)、仏殿、法堂、方丈など主な建物が直線上に並ぶ、中国禅宗様式に基づいているそうです。
現在もほぼ直線をなしていて、三門、仏殿、法堂、唐門は国指定重要文化財、梵鐘は国宝です。

280回 3-02
三門(山門)
「三解脱門」の略で「三門」というと説明板にありました。この門をくぐることであらゆる執着から解き放されるそうです。
楼上に、釈迦如来、十六羅漢、五百羅漢の像が安置されていると説明板に書かれています。
安永4年(1775)に再建されたともありました。
楼上の巨大な額に「建長興/国禅寺」とあります。創建が建長5年、禅によって国の興隆をはかるという意味が込められています。
この門の下で、お賓頭盧(びんずる)様が参拝者を迎えておられます。手でなでられてツルツルです。
毎年7月15日に、この三門の下で施餓鬼会が行われています。このとき、梶原景時の亡魂も供養するそうです。

280回 3-03
柏槇(ビャクシン=柏樹)
禅宗寺院にはよくビャクシンが植えられています。禅問答の「庭前の柏樹子」の話に関係があるのでしょうか。あるいは、禅宗寺院に植えられることが多いから、この話が作られたのかもしれません。
開山蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を創建の際に撒いたと伝えられているそうです。「かながわの名木百選」に選ばれ「鎌倉市指定保存樹木」になっています。

 

280回 3-04
仏殿
巨大な木造建築です。説明板に、「創建当初より4代目のもので、芝の増上寺あった徳川秀忠夫人お江の方の御霊屋を移築した。建長寺の本尊、地蔵菩薩を安置する」とありました。
格天井と上方の小壁に絵と彫刻があります。当初は見事なできばえだったと思われますが、たいへん痛んでいて、特に絵は何が描かれているかはっきりしません。
いくつかある彫刻の中から迦陵頻伽(がりょうびんが)の画像を載せておきます。極楽浄土に住むといい、上半身ヒト、下半身鳥だそうです。この彫刻ではわかりにくいですが、顔がヒトになっていて、蓮華を持って飛んでいます。

280回 3-05
法堂
説明板によると江戸時代の文化11(1814)に再建とありました。元は建長寺全体の修行道場として使われていたそうです。
本尊として千手観音が祭られています。
その前には苦行中のお釈迦様の坐像があります。確認しませんでしたが、パキスタンで作られたものと書いてあったとのことです。
天井の雲龍図は建長寺の創建750年を記念して描かれたのだそうです。

280回 3-06
唐門
金色のピカピカの建物です。説明板に「寛永5(1628)に芝の増上寺に、徳川二代将軍秀忠夫人の御霊屋の門として作られたもので、正保4(1647)に仏殿などと共に建長寺にもたらされた。いまは方丈(龍王殿)の正門として使われている」とありました。
ピカピカなのは平成23年に解体修理を済ませたからです。
紹介しませんでしたが、円覚寺にも唐門があります。彫刻がすばらしく、素木の落ち着いた感じの建物です。彫刻師の名があるかとしきりにさがしましたが見当たりませんでした。

280回 3-07
庭園
方丈から見ることができます。方丈はいつも解放されているようです。
建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 大覚禅師)の作庭だそうです。
寺の創建750年を記念して、平成15年に大改修されたとありました。国の史跡指定を受けています。

 

280回 3-08
半僧坊に登る
方丈の横を先に進むとやがて上り坂になります。この坂を上ったところに半僧坊があります。

 

 

 

280回 3-09
烏天狗の群れが迎えます

 

 

半僧坊本殿
「半僧坊縁起」という説明板が壁に掛けてありました。それによると、
「今から五代前の住職あおぞら貫道老師が半僧半俗の老人に山中で会い、自分を清浄の地に祭るならいよいよ栄え、ありがたい事が絶えることなしという夢を見た。その老人こそ建長寺の鎮守にふさわしいと、静岡県浜松市の方広寺を訪ね、分霊を勧請し、建長寺内で最も見晴らしの良い現地に御堂を建てて祭った。明治23年5月のことだった。当時は一都二十数県に広まり信者は5万人を数えた」
と書いてあります。
浜松市の方広寺は臨済宗方広寺派大本山を名乗り、鎮守として「奥山半僧坊大権現」を祭っています。寺のHP詳しく掲載してあります。

280回 3-10
半僧坊の御利益
烏天狗が登場し、山の高いところに社殿を構えていること、現世利益をうたうところなどから、半僧坊信仰は、修験系の山岳信仰に基づくものでしょう。

 

 

280回 3-11
建長寺の梵鐘
半僧坊の山を下って、国宝の梵鐘を見学し、建長寺を後にしました。
重さは2.7トンだそうです。平成28年の建長寺の施餓鬼を訪ねたとき、この梵鐘の音が重く響き渡りました。
説明板に、
「開基の北条時頼の発願によって広く施主をつのり、開山の大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、鋳物師の物部重光によって建長7(1255)に鋳造された。この梵鐘の奥に、大覚禅師を祭る塔頭(たっちゅう)の西来庵がある」とあります。

280回 3-12
建長寺の四方鎮守 第六天(鎌倉市山ノ内1523)
建長寺には四方鎮守というものがあるそうです。
寺を後にして、鎌倉街道を北鎌倉駅方面に戻る途中、進行方向左手の崖の上に、その一つの第六天が祭ってありました。
社殿は急な石段の参道の上で、見えません。
参道入口にある説明板に次のように書いてありました。
「四方鎮守は、中央に五大尊、東に八幡、北に熊野、西に子神、南に第六天。これらは江戸時代の記録に出てくる。第六天は、棟札によって社殿建立と修復再建は宝永4年(1707)、天保2(1831)と分かる。社殿内に江戸時代作の第六天像、四天王が安置されている。四方鎮守の中で、今も明らかなのはこの第六天だけである。」
この第六天は、鎌倉市山ノ内の上町町内会で祭っているそうです。

280回 4-01
岩船地蔵堂(鎌倉市扇ガ谷3丁目3)
第六天の先数十㍍の所を進行方向左に折れると亀ヶ谷坂の細道になります。この道をたどって寿福寺を目指しました。
やがて横須賀線の線路に出会いますが、この三叉路に岩船地蔵堂があります。
栃木県岩舟町にある天台宗岩船山光勝寺は本尊に地蔵菩薩を祭る古刹です。
江戸時代に、この光勝寺の地蔵信仰が広まりました。各地に、お地蔵様が船に乗っている姿の石仏が作られています。茅ヶ崎にはありませんが、藤沢市などで見ることができます。
その一つがここ、扇ガ谷にもあり、海蔵寺が管理しているようです。

閉扉してあり参拝することができません。
御堂の横に説明板があって、次のように書いてあります。
堂内に木造と石像の地蔵尊が祭ってある。石像を本仏とし木仏を御前立とする。木仏には体内銘があり「頼朝の息女、大姫の守り本尊だった。元禄3年(1690)に堂を建て、本像を造立した」旨が書かれていた。
しかしこの説明板、文字が薄れていてほとんど読めないのです。
扉の隙間から覗くと、御前立の地蔵様が見えました。

280回 5-01
寿福寺 外門(扇ガ谷1丁目17−7)
亀谷山(きこくさん)寿福寺金剛禅寺。臨済宗建長寺派。
頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、頼朝夫人政子が、明庵栄西を開山として創建しました。鎌倉五山の第三位。
「此地は、もと源頼朝の父、義朝の館があったといわれている。治承4年(1180)鎌倉入りした頼朝はここに館を構えようとしたが、すでに岡崎義実が義朝の菩提を弔うために御堂を建てていたのでやめたといわれている」と説明板にあります。
亀谷山の額
外門に架かる額です。

 

 

 

280回 5-02
参道を歩く郷土会の一行
境内は国指定の史跡になっています。
外門から山門に至る敷石道です。

 

 

280回 5-03
境内の柏槇(ビャクシン)
仏殿の前に4株のビャクシンがあります。

 

 

 

280回 5-04
墓地
寺の裏手は鎌倉石の岩盤で、それを穿って鎌倉時代からやぐらが作られてきました。今も墓地として使われています。

 

 

280回 5-05
政子の墓
三代将軍実朝と政子の墓と伝えられる五輪塔がやぐらのなかに安置してあります。写真は政子のものといわれている方です。
五輪塔は形もよく、鎌倉時代のものと思われます。

 

 

280回 5-06
双体像の墓石
苔むしているので像も銘もはっきりとは見えませんが、双体道祖神の初期の形によく似た石塔を見つけました。個人墓地の中にあったものです。
中井町あたりにはサイノカミ(道祖神)像の初期のものがあります。それらは双体僧形の立像です。
また時に、墓石のなかに双体僧形の供養塔を見ることがあります。サイノカミの石仏は、この形の供養塔をモデルにしているのではないかと思うほど、形が似てるのです。
私たちは寿福寺を後にして、この年5月15日に開館したばかりの鎌倉歴史文化交流館(鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1)を見学して鎌倉駅に出て解散しました。

この日の説明・案内 山本会員
Photo 前田会員 平野会員
Report 山本会員 平野会員

 

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第286回 鎌倉市 (『太平記』の舞台 2018.3.26(月)

太平記の舞台を訪ねるのコース

29年度の最後にして7回目でした。
鎌倉市の西部に点在する『太平記』の舞台を、源氏山公園の頼朝公の像、日野俊基墓、葛原岡神社を過ぎ、銭洗弁財天宇賀福神社の脇の坂道を下り、江ノ電の和田塚駅まで歩き、そこから極楽寺駅までは電車に乗り、南に下って稲村ヶ崎で解散というコースをたどりました。
訪ねた順に次のようにまとめました。『太平記』と関係のない場所も含んでいます。
①鎌倉駅西口に集合 ②正宗工芸美術製作所 ③焼刃稲荷(やいばいなり) ④寿福寺そばの岩を穿(うが)ったトンネル ⑤源氏山への急な坂道 ⑥ハイキングコース途中に太田道灌の墓 ⑦源氏山の頂上 頼朝像の前で記念撮影 ⑧源氏山に登って下りた道順 ⑨日野俊基(ひのとしもと)の墓 ⑩葛原岡神社(くずはらがおかじんじゃ) ⑪日野俊基 終焉の地 ⑫銭洗弁天への入口とやぐらの跡 ⑬銭洗弁天宇賀福神社 ⑭塔之辻の碑 ⑮是より東海道の碑 ⑯江ノ電 和田塚駅への細道と和田塚駅 ⑰江ノ電 極楽寺駅 ⑱極楽寺と極楽寺坂の攻防戦 ⑲極楽洞(ごくらくどう) ⑳大館宗氏主従の墓 十一人塚 ㉑稲村ヶ崎
画像はクリックしてください。大きくして見ることができます。あなた様が写っているかもしれませんよ。

286回―01
鎌倉駅西口に集合
天気も良く、学校は春休み中とあって駅前は混雑していました。参加者は会員外も入れて21人でした。案内と説明は山本会員でした。

 

 

286回―02
正宗工芸美術製作所 鎌倉市御成町13-29
刀の名工、五郎正宗の家系を誇り、今は刀剣をはじめとして、包丁やはさみなどの刃物類の作成、販売をしています。
製作所のHPには次のようにあります。
鎌倉時代中期に五郎入道正宗が相州伝の祖を築く。正宗後五代を経て、廣正の時、小田原北条氏に仕え、二代氏綱より綱の一字を賜り綱廣と名乗り、以後綱廣の名前を襲名するようになる。江戸時代は、徳川直参の刀匠として仕える。明治時代の始まりまでは刀鍛冶として栄えた。
訪れた日、店は閉まっていました。

286回―03
焼刃稲荷(やいばいなり)
正宗工芸から少し行った所の道ばたにある立派な石祠の稲荷社です。その前に立ててある石碑に稲荷社 正宗屋鋪 焼刃渡と彫ってあります。
正宗屋鋪とあるから、正宗工芸が現地に移る前の屋敷と伝える無量寺ヶ谷の正宗屋鋪内にあったということでしょうか。また焼刃渡については、『広辞苑』に「刀屋が拵えあげた刀剣を注文主に引き渡すこと」とあり、ネット情報では「焼刃渡し 刀剣を鍛えて刃をつけること」とありますが、この銘が何を表しているのか分かりません。正宗工芸にたずねれば分かることでしょうが。

286回―04
寿福寺そばの岩を穿(うが)ったトンネル
鎌倉市は三方を丘陵に囲まれている。その丘陵は鎌倉石と呼ばれる凝灰質砂岩から出来ていて、露頭を方々で見ることができます。鎌倉石は柔らかいので加工がしやすいために昔は切り取ってかまどや建物の土台にたくさん使われましたが、今は採掘が禁じられているようです。
鎌倉に切り通しが多いのも、掘りやすかったためでしょう。寿福寺に通じる細道もこの岩盤をうがち抜いてつくられています。寿福寺側から撮影した画像です。

286回―05
源氏山への急な坂道
案内者の「これが近道です」との一声に、一同は疑いも抱かず、迷いもせず、急な細い坂道にとりつきました。

 

 

急坂の細道はこんな風になっていました
地盤は鎌倉石(凝灰質砂岩)からできています。この細道も誰かが掘り下げて作ったのでしょう。道の中央をさらに掘り下げてあるのは雨水を流すためでしょうか。

 

286回―06
ハイキングコースの途中に太田道灌の墓
なんでこんな所に と思うように太田道灌の墓がありました。
そばにある東光山英勝寺 太田道灌公墓前祭実行委員会 が立てた説明板に次のように書いてありました。
江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰(かさい)として活躍した。その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の養母となり、徳川家を支えた。彼女は出家後に栄勝院と号し、三代将軍家光からここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開いた。この太田道灌の墓は文政九年(1826)に水戸徳川家の子孫である英勝寺住職が以前の墓を再現したものです。
しかし、この説明文を読んでも なぜここにあるの? の疑問は解けません。

286回―07
源氏山の頂上 頼朝像の前で記念撮影
長谷の大仏様ほど大きくはないが、見上げるほどの頼朝公が座っておられます。像の脇にある説明碑に、頼朝が治承4年(1180)10月に鎌倉入りして800年目に当たることを記念して、昭和55年10月、多くから寄せられた浄財をもとにこの像を造ったと書いてありました。
この記念写真はmaeda会員撮影の一枚です。

 

286回―08
源氏山に登って降りた道順
頼朝公の像の前を通って葛原岡神社の方へ少し行った所に源氏山公園周辺の案内図がありました。その案内図に、鎌倉駅を出発し、源氏山を降りるまでに通った順路を赤い矢印で入れてみました。
図の頼朝公の像のそばに化粧坂とあります。この化粧坂について、平成21年に鎌倉市教育委員会が立てた説明板には次のように書いてありました。
国指定史跡 化粧坂 鎌倉の北西から武蔵方面に抜ける「鎌倉往還上ノ道」(武蔵路)の出入り口に当たる。鎌倉の交通の要衝であったことから元弘3年(1333) 新田義貞の鎌倉攻めでも戦場となった。(略)坂の頂上部は葛原岡とも呼ばれ、元弘2年(1332)後醍醐天皇の統幕計画に加わった日野俊基が斬首された刑場でもあった。指定地内北側には地蔵像や五輪塔などの浮き彫りをもつ特徴的なやぐら群(瓜ヶ谷やぐら群)がある。また周辺の発掘調査で多数の火葬跡が発見されており、化粧坂は交通の要衝であると同時に、都市鎌倉の境界に位置する葬送の地であったことが明らかになった。
化粧坂には「けはいざか」とルビがふってありました。
『太平記』巻十には、鎌倉幕府を攻める新田義貞は60万7千余騎の自軍を三つに分け、自らはその第3軍を率いて「化粧坂よりぞ寄せられける」と記されています。

286回―09
日野俊基(ひのとしもと)の墓
日野俊基は、鎌倉幕府の打倒をはかる後醍醐天皇の命を受けて暗躍した公卿。正中元年(1324)に幕府に捕らえられたが、このときは許されました。なおも後醍醐天皇の倒幕計画に加わっていたため、元弘元年(1331)再び捕らえられて鎌倉に送られ、翌年の6月3日に葛原岡で処刑されました。
柵に囲まれて、俊基の墓といわれているのは室町時代の宝篋印塔です。ここに俊基の墓が作られたのは、南朝を正統とみるようになった明治時代のことですが、それが何年のことだったかは分かりませんでした。昭和2年(1927)4月8日に国指定史跡に指定されたと説明板に書いてありました。

286回―10
葛原岡神社(くずはらおかじんじゃ)(鎌倉市梶原5-9-1)
葛原岡で処刑された日野俊基を祭神とする神社。境内に立っている石の説明板に次のように書いてあります。
社殿は、明治天皇の思し召しにより、地元有志の方々の骨折りで全国の崇敬者の協力を得て、明治21年に創建された。例大祭は、ご命日の6月3日。
しかし神社のHPには
明治天皇は俊基卿の足跡を明治維新の先駆けとして深く追慕せられ、明治17年勅旨をもって従三位を追贈され、同20年にご最期の地であるここ葛原岡に俊基卿を御祭神として神社を創建、宮内省よりの下賜金をもって御社殿を造営、鎮座祭が執り行われました。
とあります。説明板とHPとでは、創建の年が違っていますが、HPにある明治20年創建という方が一般に使われているようです。
満開の桜のもと、訪れた人でにぎわっていました。

286回―11
日野俊基 終焉の地
俊基は葛原岡で処刑されましたが、それがどの地点かは実は分からないのです。
しかし、社殿に向かって左手に竹垣が結ってあって、中に「俊基卿終焉之地」と彫った自然石が立ててありました。
俊基処刑の有様を『太平記』巻二は次のように記しています。
俊基、ふところから紙を取り出し、辞世の頌(じゅ)を書き給う。
古来の一句 死も無く生も無し 万里雲尽きて 長江水清し
(頌の訳 昔より言いふるされたことながら、まこと死も生も恐るるに足らず、さながらわが思い、清く流れ行く揚子江の如し)
<訳は新潮日本古典集成『太平記』(一)87頁>
筆をさしおいて、びんの髪をなでたまう程こそあれ、太刀かげ 後ろに光れば、首は前に落ちけるを、(俊基は)自ら抱えて伏し給う
なお、鎌倉幕府北条氏が潰え去るのは俊基が処刑された次の年です。俊基に同情する立場からは「もう一年生きておればなぁ。歴史は非情だなぁ。」ということになるのでしょう。

286回―12
銭洗弁天への入口とやぐらの跡
葛原岡を下る道は整備されて、自動車が通う道幅になっています。下って少し行った所に、このあたりでよく見る凝灰質砂岩の岩盤にトンネルをうがって弁天社(宇賀福神社)への入口が作られています。
写真の鳥居の上を見てください。これは鎌倉時代に使われていた「やぐら」(死体の安置所、つまりお墓)の跡です。ということは、この道路整備が行われる前には、やぐらの高さに道があったもので、道路は現在の位置まで掘り下げられて作られたことを示しています。
この道路に沿って、やぐら跡がいくつかありました。

286回―13
銭洗弁天 宇賀福神社
境内の説明板に次のように書いてありました。
銭洗辨財天 宇賀福神社 御由緒
祭神 本社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)  奥院 辨財天
由緒 草創は鎌倉時代に遡るといえる。口碑によると、源頼朝、霊夢の告げによって宇賀福神を崇拝して…(略)神仏習合によって久しく辨財天の名で親しまれ、明治の神仏分離で神社となる。銭洗い水で金円を洗うと心を清め、不浄の金をあらうことにより、寿福幸運が授けられる。

また別の説明板には次のようにありました。
正嘉元年(1257)、巳の年に執権北条時頼公は、頼朝公の信心を受け継いで隠里の福神を信仰した。そのとき、公は「辛巳」「なる」「かねの日」がすべての人々に福徳が授けられる日だと調べ、この日に人々が参詣する事をすすめたということです。
頼朝が夢告によって宇賀神を崇拝したとか、北条時頼が人々に参詣するよう勧めたとかの話が何に基づいているのか知りたいと思いました。または、縁起伝説は自ずから尾ひれをつけて次第に成長する場合があることの事例の一つと考えるべきでしょうか。
奥宮も鎌倉石の岩盤をうがって作られています。この奥に、お金が貯まることを願って参詣者が銭を洗う場があります。

286回―14
塔之辻の碑
源氏山を降りて稲村ヶ崎までの道は長かった。住宅地の中を通る旧道と思われる細道で、ほぼまっすぐ南向し、江ノ電 和田駅のそばまで続いています。この道は和田駅近くで、若宮大路の下馬交差点から西へ、六地蔵を通って長谷観音前の交差点に通じる道路を横切ります。横切るところに鎌倉彫寸松堂の三重塔のような建物があります。
そのそばに鎌倉町青年団が立てた塔之辻の碑がありました。寸松堂の建物が塔のように見えるので、このことを指しているのかと思いましたが、碑文を読むと全く違いました。
由比の長者太郎太夫時忠の愛児が鷲にさらわれた。父と母はさがしたが見つけることが出来なかった。処々方々で片骨塊肉を見、これが我が子のなれの果てかと、それらの場に塔を建てて供養した。故に鎌倉にはあちこちに塔の辻がある。
というようなことが彫ってあります。由比の長者の子は成長して良弁僧正(ろうべんそうじょう)といわれ、東大寺の初代別当になったと「大山寺縁起」に書いてあります。子供の頃、鷲(わし)にさらわれて奈良まで連れて行かれたという話です。塔之辻碑に書いてある話は、その別タイプの伝説でした。
肝心の塔は、寸松堂の前を渡った先にあったようですが、見落としました。

286回―15
是より東海道の碑
寸松堂の前を東西に延びる大きな道路は長谷小路とも呼ばれているようです。寸松堂の店の前に是より東海道とある小さな碑がありました。長谷小路は鎌倉時代には大町大路とも呼ばれていたようです。この地点で「是より東海道」というから、西に向かうと京都に続いたのでしょう。

 

286回―16
江ノ電 和田塚駅への細道と和田塚駅
塔の辻から江ノ電和田駅までは近い。近いが、駅に至る通路がすごい。なにがすごいといってその通路は、線路との間に華奢な柵一列を隔てただけの、人が横になっては絶対歩けない細道なのです。別に、駅に入るチャンとした通路があるのかも知れませんが、私たちは西側から線路沿いにこのすごい道を通りました。
もっとすごいものもありました。駅ホームから線路を越した反対側に、この線路に向いて店を開いている甘味処 無心庵があるのです。「おしるこ」と染めぬた赤い小旗を立てて開店していました。
ホームに近づく通路は線路と同じレベルになっているので、ホームの面が目の高さより少し低い位置に当たり、鎌倉駅からやってきた電車がちょうどホームに入る所をねらってシャッターを押しました。まるでホームに腹ばいになって撮ったような写真になりました。

286回―17
江ノ電 極楽寺駅
いい雰囲気の駅です。昭和の初めころに戻ったような気分になりました。私は昭和22年うまれですが。
赤い郵便ポストも今は数の少なくなった貴重品でしょう。そして駅名を書いた表示板は緑色。ポストの赤を意識して、その補色関係にある緑を用いたなと、私は思ったものです。
和田駅から極楽寺駅までは電車に乗ったのであります。
『太平記』とは全く関係ない風景ですが、このような所がいきなり現れる、実に楽しい茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりなのであります。
わが世の春は楽しめるときに楽しんでおくものだと思っています。

286回―18
極楽寺と極楽寺坂の攻防戦
江ノ電極楽寺駅舎を見て、のほほんとなっていたのですが、「アァ、ここは極楽寺の切り通しだ」と思い至りました。『太平記』巻十 鎌倉合戦の事の中に、この切り通しでの激戦の模様が書かれています。
正慶2年(元弘3年)(1333)5月、勝ちに乗じた新田義貞軍は鎌倉を包囲します。60万7千余騎の兵を三手に分け、極楽寺坂、巨福呂坂、化粧坂から進入を図ります。この極楽寺坂が今の極楽寺駅・極楽寺の前の坂道で、合戦の頃はもっと高い位置にあったそうです。ここの大将には大館次郎宗氏(おおだてじろうむねうじ)と江田三郎行義(えださぶろうゆきよし)が命ぜられました。『太平記』にその勢すべて十万余騎、極楽寺の切り通しへぞ向かわれける。とあります。正慶2年(1333)5月18日のことでした。
正慶2年5月はユリウス暦でも5月で(Wikipedia)、今の時節と変わらなかったようです。私たちが極楽寺を訪れたのは3月の末で、桜がほぼ満開でした。鎌倉時代には、約2 ヶ月後にここで死闘があったのです。やがて戦場になるとはつゆ知らず、忍性(にんしょう)さんゆかりの古刹の境内をのんきに経めぐっておりました。

286回―19
極楽寺洞(ごくらくどう)
名前だけを聞けば怪しげな雰囲気の洞窟を思い浮かべますが、江ノ電のトンネルです。「極楽」は地名を取ったものでしょう。「洞」はトンネルのことでしょう。極楽寺駅とこのトンネルの間にある橋の上からよく見ることができます。鎌倉市と土木学会がそれぞれ建てた説明板があって次のように書いてありました。

鎌倉市景観重要建造物等33号 平成22年11月24日指定 江ノ島電鉄株式会社が所有する煉瓦造りの坑門で、右手の桜橋から見ることができる。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、全国的にめずらしい。今なお建設当時の原型をとどめている。 建設年 明治40年(1907) 設計者土井治男

土木學會選奨土木遺産 2014 「江ノ島電鉄(極楽洞)」
江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道)
江ノ島電鉄は明治35年(1902)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては日本最古である。極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907)竣工。藤沢方には極楽洞、鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。平成22年(2010)鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。延長209メートル、高さ5.285メートル、幅3.940メートル

286回―20
大館宗氏主従の墓 十一人塚
先に18―極楽寺の説明中に触れましたが、新田義貞は極楽寺から攻める大将の一人に大館次郎宗氏を充てました。『太平記』は、大館宗氏が三万騎をもって極楽寺坂に布陣し、鎌倉打ち込みの指令を今か今かと待っていたと書いています。
一方鎌倉幕府方には、大仏貞直(おさらぎさだなお)に仕える本間山城左衛門という武将がいて極楽寺坂を守っていました。本間は、自分の主人である直貞から何事かの嫌疑をかけられ蟄居させられていたのですが、その汚名をそそぐには、ここで敵方の大館宗氏を討って手柄を立てるしかないと考え、わずかの手兵と共にその陣中に打って出て、やっとのことで宗氏の首を掻き、主人の直貞にその旨を報告して面目を施したのち自害したとあります。
極楽寺を出て私たちは極楽寺坂を、新田軍とは逆に南西の方向へ稲村ヶ崎をめざしました。やがて国道134号と海が間近になった辺り、道の脇に十一人塚があり、そこに立つ碑に次のように彫ってありました。
十一人塚碑 元弘三年五月十九日 新田勢大館又次郎宗氏ヲ大将トシテ極楽寺口ヨリ鎌倉ニ攻入ラントセシニ 敵中本間山城左衛門手兵ヲ率ヰテ大館ノ本陣ニ切込ミ 爲メニ宗氏主従十一人戦死セリ 即遺骸ヲ茲ニ埋め十一面観音ノ像ヲ建テ 以テ其ノ英魂ヲ弔シ之ヲ十一人塚ト称セシト云フ /昭和六年三月 鎌倉町青年團
どういう訳か、大館次郎宗氏と「又」の一字が増えていました。
またここには小型の石柱が立ててあり、その正面に元弘三癸酉年五月十九日/大館又次郎源宗氏主従十一人墓と、右側面に于時文久二年壬戌年(1862)と彫ってありました。「于時」は「時に」と読みます。
この攻防戦で大館宗氏はすぐに討たれてしまいます。主役はむしろ本間山城左衛門です。『太平記』は本間の行為を徳を以て(主の)怨みに報ずと讃えているのです。碑を建てて顕彰するなら本間山城左衛門をこそだと思うのです。なぜ大館宗氏になるのでしょうか。
また、南朝が正統とされるのは明治時代になってからですが、新田義貞方の大館宗氏の墓がすでに江戸時代の文久2年に建てられているというのも、不思議な気がします。
討ち死にした大館主従が十一人だったと断定されていることにも唐突な感じがします。
この十一人塚には、まだ説明されていない、隠れた何かがあるようです。

286回―21
稲村ヶ崎
やっと、この日の最終地、稲村ヶ崎に到着しました。まず、例の如く鎌倉町青年団が立てた碑を見学します。
稲村崎 元弘三年五月二十一日 新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ禱(いの)レリト言フハ此ノ處ナリ/ 大正六年三月建之 鎌倉町青年團
新田軍の極楽寺坂担当の大将 大館宗氏が撃たれたために、義貞は一端、兵を片瀬・腰越まで引いて、21日、再度2万の兵を率して極楽寺坂で敵の陣を望むと……。 『太平記』の記述をたどりますと、
北は切り通しまで山高く、路けわしきに、(敵は)木戸(=城門)を構え、かい楯を掻いて数万の兵、陣を並べて並みいたり。南は稲村崎にて、砂浜の路せまきに、波打ち際まで逆木(=さかぎ、柵)を引き懸けて、沖四、五町が程に大船を並べて、横矢(側面から射かける矢)を射させんと構えたり。
進むことができなくなったのです。
義貞馬から下りたまいて、冑(かぶと)を脱いで海上を伏し拝み、龍神に向かって祈誓(きせい)したまいける。(略)至信(ししん)に祈念し、みずから佩(は)きたまえる金作(こがねづくり)の太刀を抜いて海中へ投げたまいけり。
すると明け方になって、
にわかに二十町あまり干あがって平沙(砂浜)渺々(びょうびょう=広々)たり。(略)六万余騎を一手に成して稲村﨑の遠干潟を真一文字に駆け通りて、鎌倉中へ乱れ入る。
この後の、鎌倉幕府北条一族の滅亡のくだりは、平成29年12月25日におこなった第284回史跡めぐり「鎌倉の廃寺跡を訪ねる」で取り上げます。

この日の案内 山本会員
photo 前田会員 平野会員
report 平野会員

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282回 鎌倉市 日蓮上人の足跡 9月25日


本番は9月25日(月)、下見は同月16日(土)、本番は快晴、下見のときは朝から雨でした。
この記録には下見のときに撮影した画像も使っています。
日蓮上人の足跡をたどるため、小町大路の妙隆寺・辻説法跡から大町に向かう、鎌倉時代で言えば武家と商家混在の町から商人町に至るコースを考えて下見も行ったのですが、本番では最後を龍口寺にしました。
またメインの見学地の一つ安国論寺が月曜休みで拝観出来ないと分かったことから材木座の長勝寺を加えました。
最後が江ノ電利用と道のりが遠くなったので、最初の長勝寺までバスに乗り、そこから歩いて鎌倉駅まで戻り、江ノ電に乗るコースでした。日蓮上人の足跡をたどるがテーマでしたが、テーマ外で、途中で見たものも含みます。
見学の順序は①長勝寺 ②日蓮乞水(にちれんこいみず)碑 ③大黒堂 ④安国論寺 ⑤妙法寺 ⑥辻の薬師堂 ⑦辻の本興寺 ⑧町屋阯碑・魚町橋 ⑨常栄寺(ぼたもち寺) ⑩妙本寺 ⑪本覚時 ⑫日蓮の辻説法跡 ⑬妙隆寺 ⑭龍口寺でした。

282回 -01
日蓮宗 石井山(せきせいざん)長勝寺 鎌倉市材木座2-12-17
山号は石井山(せきせいざん)。石井藤五郎長勝が伊豆に流されていた日蓮上人のため、鎌倉に用意した庵が寺の起源といわれています。
境内には辻説法の姿を表したという日蓮上人の像(高村光雲作)、その後ろに帝釈堂や四天王像があり、帝釈天ゆかりの霊場とわかります。

法華堂は、境内の説明版に、室町時代の建立とされるとありました。神奈川県指定重要文化財。
門柱ほかいたる所に四角い渦巻き状の帝釈天の紋が見られます。
千葉県中山(市川市)の法華経寺で、毎年11月から百日間の荒行を終えた僧が、長勝寺で2月11日に水行を行う「大國禱会成満祭(だいこくとうえじょうまんさい)は鎌倉の冬の見ものです。
お百度参りの石塔がありました。祈願のある人は、この石とご本尊の間を100回往復して願い事を訴えると叶えてもらえるとされていました。
また境内を見学していると、どういう関係か分からないのですが吉良上野介の層塔を見つけました。

 

282回 -02
日蓮乞水の石碑
境内を出て名越切通に向かう途中には、鎌倉五名水の一つ、日蓮乞水(にちれんこいみず)があります。日蓮上人が最初に鎌倉に入った時、水を求めて地面に杖を突き刺すと清水が湧き出たと言われています。
先を急ぐのと、そばにある橋のたもとに日蓮水の石碑があったので、「乞水」の現地に行かないで石碑を見るだけで済ませてしまいました。
石碑にあった文字を写しておきます。□と[ ]は読めない文字、/は改行を表します。
[右側面]昭和二年三月  大□寺住職 [     ]田邊新之助□
[正面]「日蓮水」の文字の下に次の文字があります。
建長五年五月日日蓮太古の渇を醫してより七百年矣/
混混として晝夜を舎□す□霖にも増すなし久旱に/
も減するなし□みて鑑すれば清きこと浄明の□□/
如く掬して□へば甘きこと慈母の乳にも似たり嗚/
呼日蓮水是れ亦聖者の餘澤流れて群生の心田に澱/
き永く本有の善苗を霑さん哉
[左側面]醫(得)高僧渇干今七百年餘□/
流久(盡)塵劫漑心田

282回 -03
大黒堂の石仏
長勝寺を出て、横須賀線の線路を越え、安国論寺へ向かう細道の脇に小さな神社がありました。ネット配信の地図には「大黒堂」と出ています。
境内の奥に三基の石仏が並んでいます。向かって右から「名越講中/青面金剛/弘化五年(1848)戊申二月□□日」とある庚申塔、中央は地蔵立像と思われ、左は青面金剛像の足下に一匹の猿がある庚申塔でした。
境内の鳥居の脇にも三基の石仏があります。向かって右から、摩滅して尊容不明の石仏、中央は「猿田彦大神/北斗尊星/天鈿女命」と彫ってある石碑、左は「元禄」とだけ読める聖観音立像です。
中央の石仏がおもしろいと思いました。サルタヒコとアメノウズメは天孫降臨の場面に登場する神様ですが、「北斗尊星」とあるのは珍しいです。下の方には多数の造立者銘があり。年号銘は破損していて「吉日」だけしか読めませんが、幕末から明治の頃のものと思われます。北斗尊星とあるのは庚申信仰との関係かと思われますが、サルタヒコとウズメと一緒に並んである理由が分かりません。

 

 

 

 

282回 -04
日蓮宗 妙法蓮華山安国論寺 鎌倉市大町4-4-18
月曜日は閉門していると聞いていたので寄らない予定でしたが、門が開いていたので、案内文(縁起)を読みながら、みんなでしばらく中を覗きました(決して境内に入ったわけではありません)。

ここで日蓮上人の四大法難について書きますと、日蓮上人が建長5年(1253)鎌倉に入り松葉ヶ谷に草庵を開き、小町大路で辻説法をしていた。当時、天変地異や流行っていた疫病は、念仏など邪教が興隆するからで、正しい教えが広まらず、内乱や異国からの侵略を招く所以であると予言し、文応元年(1260)、39歳で、時の最高権力者北条時頼に『立正安国論』を上奏した。その1ヶ月後に念仏信者等に草庵を襲われた。これが、一回目の松葉ヶ谷法難で、長勝寺や安国論寺、妙法寺が、法難比定の草庵であると言われています。
他の三つの法難は、1年後の伊豆の法難、その3年後の小松原の法難(千葉県鴨川市)、さらにその7年後の龍ノ口(竜の口)の法難、または同年の佐渡の法難ですが、資料によって、佐渡を入れる場合は松葉ヶ谷法難が入っていないようです。ちなみに日蓮が被る綿帽子は、小松原法難の際に洞窟にひそんでいた時、世話をした老婆が、自分の綿帽子を掛けてくれた事にちなむといわれています。

282回 -05
日蓮宗 楞厳山(りょうごんさん)妙法寺 鎌倉市大町4-7-4
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗。楞厳山妙法寺。建立、延文2年(1357)。
開祖は日蓮聖人、中興は日叡上人。
布教のため安房から鎌倉に入った日蓮聖人が最初に草案(松葉ヶ谷御小庵)を結んだと伝えられている。松葉ヶ谷法難もこのあたりという伝承がある。
のちに、護良親王の皇子である楞厳丸(りょうごんまる=日叡上人)が父の供養と、日蓮聖人の遺跡を守るためこの寺を建てた。
本堂は肥後細川家の寄進による。」
受付で線香を頂き、先ず細川家寄進の本堂に参り、各々が線香を手向けた後、加藤清正を祭る大覚殿を右手に見て、仁王門に進むと、

全身真っ赤に塗られた金剛力士が迎えてくれます。
向かって右の像は阿像、左は吽像と型どおりの並び方。
その先の石段は苔に覆われていました。苔の保護のために登ること禁止。右側にある急な石段を登るようになっています。このために苔寺とも呼ばれています。

石段を登ると釈迦堂跡で、さらに登ると水戸家寄進の法華堂があります。大きな建物で彫刻がすばらしいです。

 

さらに登った右手山頂には妙法寺を中興した日叡の父、護良親王の墓が、左手山頂には自身と母の墓があるそうですが行きませんでした。
下見のときはhirano会員とkatada会員が護良親王の墓にお参りしました。素晴らしい景色だったとの話。この日皆さんは法華堂止まりで、誰も素晴らしい景色を見に行かなかったのでした。

山門を出ると、キンモクセイが満開でした。

 

 

 

282回 -06
辻の薬師堂  鎌倉市大町2丁目4
本興寺とは道路を挟んで向かい側に辻薬師堂があります。中に祭ってあった木造薬師三尊立像と木造十二神将立像は、現在、鎌倉国宝館に寄託展示されていますので、代わりの仏像が置かれています。薬師三尊像は平安仏、十二神将像は室町時代のものと言われています(「有隣」399号)。共に神奈川県指定重要文化財です。

お堂は暗く中が良く見えません。お賽銭を入れると、何分間か灯りがつき、小さな穴から覗くという仕組みで、なかなか面白く、何人も見ていました。
「辻の薬師堂」と呼び、「辻の本興寺」というのは、この辺りを辻といっていたことの名残といわれています。鎌倉時代に、鎌倉を東西に横切る「大町大路(おおまちおおじ)」と、南北に通る「小町大路(こまちおおじ)」が交わっていたからだと説明されています。おそらく賑わいを見せていたのでしょう。日蓮上人はそのような所に出て大衆を相手に辻説法をおこなったといわれています。

扉に、これらの仏像の説明文が貼ってあって、おうよそ次のように書いてありました。
「二階堂にある鎌倉宮は明治時代にできた神社だが、鎌倉時代にはそこに東光寺という寺があって、薬師三尊が祭られていた。その後東光寺が廃絶するときに三尊像は名越にあった長善寺という寺に移された。長善寺はその後も移転を繰り返したが、幕末に火災に遭って廃寺となり、諸像だけが残された。明治22年に横須賀線が敷設されるに際し、現在地に移され、以来辻の薬師堂として地元によって祭られてきた。しかし地元管理が難しくなってきたことから平成5年に鎌倉国宝館に移された。
諸像は傷みがひどいので修理が施されて国宝館内で公開されている。現在堂内に祭ってある薬師三尊像と、十二神将像のうち迷企羅大将像と波夷羅大将像の2躯は新たに造像されたものである。           平成25年 辻薬師堂保存会」

282回 -07
日蓮宗 法華山本興寺 鎌倉市大町2-5-32

 

 

 

バス通り南の脇道を直進し、大町四つ角の南側に出ると、すぐ横が本興寺。ここにも「本興寺略縁起」の石碑がありました。この碑、形は似ていますが、鎌倉市内にたくさんある鎌倉青年団の碑とは違っていて、お寺で建てたもののようです。
碑文を写しておきます。/は改行です。
(上部に横書き)日蓮大聖人/辻説法之舊地/
日蓮大聖人鎌倉御弘通の當時此の地点は/
若宮小路に到る辻なるに今猶辻の本興寺/
と稱す御弟子天目上人聖躅(せいちょく=日蓮聖人の足跡)を継いで又/
此地に折伏説法す實に當山の開基なり/
後年日什上人(顕大法華宗/開祖)留杖せられ寺観/
大いに面目を改む常楽院日経上人も亦/
當寺の第廿七世なり

本興寺という寺院は、横浜市泉区上飯田町にもあります。横浜市の本興寺(日蓮宗 本山 法華山 本興寺)の公式サイトにはおよそ次のように記してあります。この記事によって碑にある天目上人、日什上人、日経上人のことがわかります。
「本興寺ははじめ、日蓮聖人の直弟子・天目上人が鎌倉に開創した。聖人が辻説法の途中、休息された地というので、『休息山本興寺』と称していた。
天目上人は、「迹門不読説」を主張し弟子たちもこれを唱えたが、日什門流の開祖・日什大正師の教化にふれ改派、『法華山本興寺』と改称した。これをもって日什上人を事実上の開祖としている。
27世の常楽院日経上人は、慶長13年(1608)に法難に遭う。日蓮宗の不受不施の一派や日経上人の流れをくむ者への迫害が厳しくなり、万治3年(1660)現在の地(編集者注 横浜市泉区上飯田)に寺の一切を移した。」

上飯田に移った後も、大町に同じ名前の本興寺があることについては、ネット情報(Wikipedia)に、
「その10年後の寛文10年(1670)、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興した。妙本寺末寺となって現在に至っている。」とありました。
今も「辻の本興寺」と呼ばれていて、日蓮の辻説法の場所の一つといわれています。

282回 -08
町屋阯の碑・魚町橋
薬師堂を出て北に進むと、鎌倉町青年団建立の石碑があります。碑文は次のとおりです。
町屋阯
此邊ハ往昔ニ於ケル鎌倉繁榮當時/
ノ賈區ニシテ其中央ノ通衢ヲ大町/
大路ト呼ビ其他米町辻町魚町名越/
等ノ區分アリ夫々町屋ノ在リシ所/
トオボシク其ノ稱ハ屡々東鑑ニ見エ/
今ニ其名ヲ存ス/
昭和十一年三月建 鎌倉町青年団/

鎌倉時代には、このあたりは町人の町とされていたそうです。
碑のすぐそばに小さな流れの逆川(さかさがわ)があり、この流れに架かる橋を魚町橋(いおまちばし)といいます。
流れを逆川というのは、北から南へ流れることが普通である鎌倉市内の川が、この近くでは地形の関係から南から北に向かって流れていることによるそうです。近くに、逆川橋(さかさがわばし)という橋もあるのですがこの日は説明するのを忘れていました。

282回 -09
日蓮宗 彗雲山(えうんざん)常栄寺 鎌倉市大町1-12−11
八雲神社の北側に常栄寺(ぼたもち寺)があります。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「日蓮宗彗雲山常栄寺 慶長11年(1606)建立 開山は日詔 開基は日祐法尼
鎌倉幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がも保ちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。」
先にも記しましたが、小松原の法難のとき日蓮上人が受けた刀傷の手当のために、老婆が登場し自分が被っていた綿帽子を被せてくれます。鎌倉でのこの法難のときも「桟敷の婆」が登場して助けてくれる話になっています。この二つの伝説には共通するものがあるようです。

訪れた日は萩の花が盛りで、多くの人が参詣に来ていました。
境内の本堂の前に、開基日祐法尼の供養塔があります。
ひげ題目の下に 當寺開山/日祐聖人/高松寺二世/と彫ってあります。
植木に囲まれていて近寄れませんので、年銘など見えませんが江戸時代の石塔の形をしています。先に紹介した説明版には日祐法尼は開基となっていましたが、この石塔には開山とありました。
なお、『新編相模風土記稿』鎌倉郡十九、常栄寺の項には日祐は中興とあります。確かに桟敷の婆と日祐とでは時代が全く違います。なお、「高松寺」はWikipediaの「鎌倉市内の寺院一覧」にある寛永19年(1643)創建、日隆尼開基とある寺のことです。「関東大震災で全壊し、宮城県若柳町に移転。山門は鎌倉山の檑亭に移築された」と注記してあります。

282回 -10
日蓮宗 長興山妙本寺 鎌倉市大町1-15-1
少し北に行くと 妙本寺に出ます。
谷間のことを「やつ」といいますが、妙本寺は比企谷(ひきがやつ)を寺域としています。
鎌倉時代にはここに比企能員(ひきよしかず)一族の屋敷がありました。
比企能員は北条氏との政争に敗れ、一族は建仁3年(1203)ここで二代将軍頼家の長男の一幡とその母、若狭局(能員のむすめ)ともども滅ぼされています。
境内の説明版に次のように書いてありました。
「建立は文応元年(1260)、開山は日蓮聖人、開基は比企能本(よしもと)
乱から逃れていた能員の末子の能本が日蓮上人に帰依して、この地に建てた法華堂が寺の前身といわれている。」
法華堂が建てられたのが文応元年だったようです。

また、妙本寺の公式ホームページには次のように書かれています。
「日蓮聖人は、文応元年(1260年)比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられました。」

一族を滅ぼされ、鎌倉を追われていた比企能本が鎌倉に帰ることができたのは、頼家のむすめで、後に鎌倉四代将軍藤原頼経の夫人となった竹御所(たけのごしょ)の計らいによるものだそうです。彼女も若くして亡くなり、ここに葬られました。境内の奥の檀家墓地の中に祭られています。

総門を通って緑のトンネルの先に二天門があります。

 

 

 

二天門には向かって右に矛を持つ吽像、左に金剛杵を持つ阿像ががんばっていて、寺に入るものたちをにらみつけています。この像の並びは多数例とは逆になっています。頭上の梁には極彩色を施した二匹の龍の彫刻があります。

龍の彫刻の下、仁王の間を通って境内に進みます。二天門をくぐると、右手に幼くして命を落とした一幡の墓所があり、正面にには巨大な祖師堂があります。「一幡の袖塚」といわれる一角は竹垣で囲ってあり、「源頼家卿嫡男一幡君御廟所/享和三(1803)」癸亥年三月」と彫りつけた標柱と江戸時代の五輪塔が祭ってあります。

祖師堂の横に歴代と比企一族の墓地があります。
「比企能員公一族の墓」とある標柱の奥の築石壇の上に二本の柱が立ち、向かって右の柱には「長興長榮/第四十七祖 □□日教上人福業塔」(□は読めない字)と、左の柱には「本行院日學聖人護法廟」とあります。「長興」は妙本寺、「長榮」は池上本門寺の山号です。妙本寺のHPに「妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続きました」とあるので、47世日教上人が両寺の貫首をつとめていたとき(江戸時代)に、この墓地が整備されたのでしょう。また、左柱にある「本行院日学」は比企能本のことですから、ここに能本の墓もあるということでしょうか。
そして、二つの柱の間にある小型の宝塔4基が一族と能本の墓石とされているのでしょう。向かって左から二つ目だけに文字があり年号らしく見えますが、コケと破損のためによく見えません。実に残念。
傘の上には五輪塔の空風輪がのせてあり、基礎も別石ですから、傘と塔身だけが宝塔の一部ですが、積み替えられているようです。塔身に屋根型があって、日蓮宗独特の形をした珍しい塔身です。時代は室町時代のものではないかと思われます。

袖塚の後ろは妙本寺歴代の墓地のようです。
その中に、大きな五輪塔が建っています。地輪に「経 加賀太守宰相卿之/母公/壽福院殿/日榮逆修/元和第十甲子六月十二日(1624)とあります。
寿福院殿日栄は加賀藩前田利家の側室で、二代藩主利常の母だそうです。熱心な日蓮宗の信者で各地の日蓮宗寺院にいろいろなものを寄進している(Wikipedia福寿院)ので、ここ妙本寺に逆修塔を建立したのでしょう。

最後の写真は、妙本寺の拝観を済ませて、意気揚々と歩く茅ヶ崎郷土会の会員です。

 

 

 

282回 -11
日蓮宗 妙厳山本覚寺 鎌倉市小町1丁目-12-12
境内入り口に立つ説明版に次の様に書いてあります。

 

 

「建立 永享8年(1436) 開山 日出(にっしゅつ)
本覚寺のあるこの場所は幕府裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂(えびすどう)を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮上人が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝(にっちょう)が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。」

 

 

 

 

境内には名刀工正宗の墓もあります。
見上げるほどの大きさで正面に「天保乙未季秋(1835年6年9月)/五郎入道正宗碑」とあり、裏は漢文の碑文で、文字数は1000を超えているでしょう。いつか挑戦してみたいです。
山門には大きな仁王があります。ここの仁王様は恐ろしい形相をしています。

本堂裏手に日蓮上人、日出、日朝の宝篋印塔があります。その前の回廊との間では少し休めそうでしたので、昼も近く急にお腹が空いて、ここで弁当を使えればいいなぁと思ったのは、私だけではなかったようです。

 

本堂前を行く茅ヶ崎郷土会の一行。元気に歩いているように見えますが、実はおなかをすかせているのです。

 

 

 

282回 -12
日蓮聖人辻説法跡 鎌倉市 小町2-22-13-7
現地にある鎌倉市の説明版に次の様に書いてあります。
「日蓮は建長五年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。」

日蓮上人が鎌倉に来た当時、この地は天変地異や疫病に見舞われ、人々は不安と恐怖に怯えていた。これは法華経をないがしろにし、ほかのお経に帰依するからだと幕府を批判し、文応元年(1260)『立正安国論』を著したことから迫害を受けたと考えられています。
ここにある石碑は戦前に戦争批判と死刑廃止、八紘一宇を唱えた宗教学者の田中智学が整備したとのことです。
写真は辻説法跡地付近から、小町通りの南を向いて撮った様子です。下見の日の撮影です。

 

 

 

282回 -13
日蓮宗 叡昌山 妙隆寺 鎌倉市小町2-17-20
境内の説明版に次のように書いてありました。
「叡昌山(えいしょうざん)妙隆寺 建立 至徳2年(1385) 開山 日英上人 開基 千葉胤貞
この辺り一帯は、鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と言われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。
第二祖日親上人は、宗祖・日蓮上人にならい『立正治国論』で室町幕府六代将軍・足利義教(よしのり)の悪政を戒めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれました。
本堂前右手の池は、日親上人が寒中、百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と言われています。」

開基の千葉胤貞や開山の日英上人よりも、鍋かぶりの法難を受けた二代日親上人の方が人気を呼ぶらしく、境内には日親上人の石製坐像、卵塔形式の供養塔、五百遠忌の報恩塔、寒中の水行を積んだ池などがあります。また、小さなお堂に「鎌倉江の島七福神」の一人寿老人が、お供の鹿と共に安置されています。広島で被爆死した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の石碑もあります。

妙隆寺に別れを告げて、鎌倉駅から江ノ電で片瀬を目指しました。

282回 -14
日蓮宗 寂光山龍口寺 藤沢市片瀬3-13-37
今回のコースの最後、龍口寺にお参りし、本堂に参拝の後、五重塔も近くで仰ぎ見ました。
堂塔はほとんど江戸時代のものですが、山門、本堂などに多くの装飾彫刻が施されています。また、後で調べたところ、五重塔には宗祖日蓮の一代記が彫刻されているとのことでした。準備不足で、折角ご案内をしながらお話し出来ずに残念でした。
龍口寺に入る前、私だけでなく皆さんもお腹を空かせていたようで、とても江の島まで歩く気力が無くなり、見かけたバス通りの魚屋さんで昼食もできるとのことで、今日の最後は楽しい昼食で終わることができ、無事に帰着しました。

(この日の説明 山本会員)
(report 山本会員 平野会員)
(photo 平野会員)

 

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相模のもののふたち (9)県内の流鏑馬(山北町・鎌倉市・小田原市・逗子市・三浦市)

県内各地で流鏑馬が行われています。新しく始められたものが多いのですが、昔から行われてきたのは山北町の室生(むろお)神社と鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬です。新しく始まったものは、小田原市曽我別所、逗子市逗子海岸、三浦市荒井浜、寒川町寒川神社などです。
流鏑馬の解説として『國史大辭典』には「武官の騎射(きしゃ)に習い、矢番(やつがえ)の練習として武士に愛され、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)とともに騎射の三ツ物と称された。」とあります。武士が馬を走らせながら矢を放つ練習として行われていたということです。その衣裳は「あやい笠をかぶり、水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)を着て、射籠手(いごて)、行騰(むかばき)を付ける」とあり、今行われている流鏑馬でも、笠を被り、弓を持つ腕を肩から手首まで覆う「いごて」と、袴を覆う鹿革の「むかばき」を付けています。また「室町時代になると弓馬の合戦から槍、鉄砲を使うようになって、神事として形式化した」とあります。
しかし、矢が的に中ったかはずれたかで、物事の出来、不出来などを占うところの、神様の心を問う神事であって、それが武士たちの武術の練習に取り入れられたと考えることもできると思います。
県内の流鏑馬全てを訪ねたのではありませんが、もののふたちの時代をしのんで、そのいくつかをこのコーナーで紹介します。また、写真の中には「茅ヶ崎文化人クラブ」会員の布川貞美さんに拝借したものもあります。お礼を申し上げるところです。

9-01
室生神社の流鏑馬 ―流鏑馬の準備― (山北町山北1200) 
『新編相模国風土記稿』川村山北(雄山閣版1巻202頁)の室生明神社の項に「例祭九月二十九日、流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板(まといた)の料を納むるを例とす。又相撲を興行す」とある。「二的板」は2枚の的板という意味である。
ここの流鏑馬は平成7年2月に神奈川県無形民俗文化財に指定されている。江戸時代末にまでさかのぼることと、騎射を村の人たちが行う古式を残していることなどが指定の理由である。また、平成15年11月3日の流鏑馬奉納に伴って記録を残すために調査が行われ『室生神社の流鏑馬 附鞍三背』という詳細な記録書が、平成16年3月に室生神社流鏑馬保存会から刊行されている。ここに紹介する式次第その他は、この記録書から引用した。

9-02
室生神社の流鏑馬 ―一ノ的(いちのまと)・二ノ的(にのまと)―
風土記稿には「中川、神縄村から隔年交替で的板の料を奉納」とあるが、今は中川村からのみもたらされているそうである。それは長さ3尺(約90㌢)×幅1尺(30㌢)の杉板3枚を麻紐で綴じてあり、的にあたった矢の数によって翌年の稲作(早稲、中稲、晩稲)について占うと、記録書の3頁に記載がある。
的3枚を3ヶ所に立てるのも古式に則っている。
馬場は神社のすぐ前の直線道路に砂をまいて設けられる。

9-03
室生神社の流鏑馬 ―射手は地元の人―
装束は、三つ巴紋の腹掛け、その上に陣羽織をはおって、白い鶏毛を立てた兜を被り、縞柄のむかばきをはき、太刀を佩き、弓を携えて箙(えびら)に矢を入れて負う。馬は2頭。馬に乗る者は、終わるまで馬を下りて地面に足をついてはいけないとされているそうである。食事は萩原地蔵尊の建物でとるが、馬から直接床に降りる。また、馬に乗る際も、神社の社殿の床から乗ることになっている。
平安時代末期に、波多野秀高は河村(現山北)に河村城を開いて、河村氏の祖となった。その子、義秀は大庭景親に従い、やがて頼朝に捕らえられて大庭景義預けの身となった。建久元年(1190)8月の鶴岡での流鏑馬に、ふとしたことから景能の推挙で出場することになり、見事な腕を見せて許され、旧領河村郷を還住することができた。『吾妻鏡』にあるこの有名な話を山北町の人たちは、我が事のように伝えている。

9-04
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―チャンスを狙う― (鎌倉市雪ノ下二丁目1−31)
鶴岡八幡宮の流鏑馬は、9月15日の例大祭の折に、翌16日に行われる。八幡宮のホームページには次のようにある。
「毎年9月14日から16日までの3日間、当宮では例大祭が盛大に執り行われます。『吾妻鏡』によれば、文治3年(1187)8月15日に放生会(ほうじょうえ)と流鏑馬が始行されたとあり、これが当宮例大祭の始まりとなります。以来絶えることなく800年の歴史と伝統が現在に伝えられており、一年を通して最も重い祭事です。」
鶴岡八幡宮は京都の石清水八幡社を勧請したといわれ、その石清水八幡社は大分県宇佐市の宇佐八幡を勧請したものである。
先のホームページの記事にあるように、八幡宮の今の例大祭の前身は放生会で、そしてこの放生会は宇佐八幡の重要な祭礼だった。
鶴岡八幡宮では鎌倉時代に、放生会に加えて流鏑馬が始められた。頼朝一族の守り神として新たな展開を迎えたことがそのきっかけとなったものだろう。
八幡宮の流鏑馬には大勢の観光客がつめかける。写真を取るのは一苦労である。

9-05
鶴岡八幡宮の流鏑馬 ―騎射が終わって―
3枚の的(まと)を射おわると、射手たちは同じ馬場をゆっくりと出発点に戻る。射手の衣裳は古式そのものである。

 

 

9-06
曽我梅林の流鏑馬  ―うまくとらえた一枚― (小田原市曽我別所)
小田原梅祭りに行われる。梅の咲く頃の2月中である。平成29年は31回を数えるそうである。
曽我の地は、鎌倉時代に、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の居館があったと伝えられている。鎌倉武士をしのんで流鏑馬が行われる。
流鏑馬を撮影するときは、どこに陣取ってカメラを構えるかが大事である。見物人が多いと、一旦座り込んだあとは移動するのが大変だ。
この写真は、飛んでいる矢をうまく捕らえている。撮影者の技量によるか、偶然のシャッターチャンスだったのか。
(この写真は平成30年2月11日撮影です)

9-07
曽我梅林の流鏑馬 ―騎馬武者そろい―
流鏑馬の射手になるには、弓道と馬術の練習が必要なようだ。流鏑馬の流派には武田流と小笠原流などがあるとのこと。パソコンで検索すると、あーだこーだのウンチクが出てくる。
それにしても、馬に乗った射手たちは何と格好がいいのだろう。

9-08
逗子海岸の流鏑馬 ―これじゃぁ 私は射られたい― (逗子市逗子海岸)
ネット情報に、昭和20年、逗子海岸のホテルに宿泊していたアメリカの駐留軍人に見せるために始めたことによると出ていた。県内の新しい流鏑馬はほとんど戦後に始めているが、逗子海岸の流鏑馬はその中でも最も長い歴史を持つ。
武者行列と併せて行われているらしい。
「政治の世界にもっと女性の進出を!」と叫ばれているが、一般社会ではもう女性の武者が活躍しているのだ。

9-09
逗子海岸の流鏑馬 ―こっちは当てられたら痛かろう―
黒味がかった毛色の馬を黒鹿毛(くろかげ)といい、それより黒色が強い馬を青鹿毛(あおかげ)といい、全身真っ黒になると青毛(あおげ)というそうだ。
黒い馬は写真で見ただけでも強そうで早そうに見える。
失踪する青毛に乗って、手綱を持たずに矢を射るにはどれだけ練習を積んだのだろうか。

9-10
逗子海岸の流鏑馬 ―オッ 当たったか!―
的のそばには何人かが控えている。飛んだ矢を拾う役なのか、当たったことを確認するのが仕事なのか。
『吾妻鏡』に、射手ではなくて的(まと)の役を仰せつかって、「そんな端役が務められるか!」と頼朝に食ってかかったもののふの話が出ていた。今、その所が何頁にあったかを調べる余裕がなくて残念だ。

9-11
荒井浜の流鏑馬  ―これぞ流鏑馬― (三浦市三崎町小網代)
荒井浜はあの新井城の下にある海水浴場である。城で討ち死にした三浦道寸義同(よしあつ)をしのんで開催される道寸祭りに流鏑馬が行われている。時期は毎年5月らしい。昭和54年が第1回だった。
流鏑馬の射手はどなたも実にカッコイイが、女性の射手となると言葉を絶するほどのカッコ良さである。


photo 源会員 平野会員
report 平野会員

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