はじめに
暮れも押し詰まった12月25日(月)、参加者は少なかったですが、鎌倉の廃寺跡をめぐりました。
コースは①理智光寺跡、②永福寺跡、③鎌倉宮、④法華堂跡(持仏堂跡)、⑤太平寺跡、⑥宝戒寺、⑦東勝寺跡としました。
鎌倉宮や宝戒寺は廃寺ではありませんが、話の続き具合と道順の関係からコースに取り込んだものです。
めぐったのは上記のとおりですが、ここにその報告をするにあたっては、⑥宝戒寺を除外し、①理智光寺の願行上人との関係から大覚寺跡を加え、また記述の順番を回った順番と違えました。これは関連ある内容毎にまとめたためです。
『鎌倉廃寺事典』(昭和55年有隣堂刊)を大いに参照しました。
284回-1
鎌倉に居を構えた頼朝は、二つの巨大寺院を建立しました。
勝長寿院と永福寺(ようふくじ)です。
勝長寿院は大御堂ヶ谷(住居表示は鎌倉市雪ノ下)に父 義朝の菩提を弔うために建てたもので、文治元年(1185年)に落慶供養が行われました。
永福寺は二階堂に建てました。頼朝は文治5年(1189)に陸奥国の藤原氏を倒します。現地で中尊寺の二階大堂、大長寿院を見て感激し、これを鎌倉に再現して、奥州の戦いで死亡した多数の怨霊を弔うためであったと『吾妻鏡』は記しています。
頼朝が鎌倉に帰ってすぐに準備は始められたようです。計画はすでに奥州中尊寺でたてられていたのでしょう。
建久2年(1191)2月15日の『吾妻鏡』に、頼朝は寺の位置を定めるために大倉山の辺を歴覧したと書いてあります。
『鎌倉廃寺事典』は『吾妻鏡』を引きながら、永福寺が出来る課程とその後についてくわしく記しています。ただ『鏡』の書きぶりは、建設工事の進捗よりも、その庭造りに頼朝がいかに心を配ったかに関心をもっていたかのようです。永福寺の庭園は完成後に名園として知られていました。三方を小高い山に囲まれて、東向きに建てられ、前に池がありました。奥(北)に薬師堂、中央に永福寺(二階堂と呼ばれた)、南に阿弥陀堂の三つの建物が回廊でつながって一直線に並んでいました。しかし二つの堂と永福寺はそれぞれ別の寺として運営されていたようです。
建久3年(1192)12月25日に竣工式に当たる永福寺供養が行われました。阿弥陀堂の供養はその翌年の11月27日、薬師堂は建久5年(1194)12月26日で、それぞれ京都から高僧を迎えて導師としています。堂供養の年は1年ずつ違っていますが建物は同時に完成していたのではないでしょうか。
その後火災に遭ったり修理されたりしますが、15世紀半ばまで記録に表れているそうです。いつ廃絶したかは明確ではないようです。
284回-2
頼朝の霊をまつった法華堂 その跡 -鎌倉市西御門2丁目5-5
頼朝は子どものころから聖観音の像を自分の守り本尊として信仰していました。
治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れて落ちるときに、その像をある岩窟に安置しておきました。鎌倉に凱旋したあと、一人の僧がこの像を持って頼朝の元にやっ
てきました。
文治5(1189)、奥州討伐に出かけるとき、この僧に「出発後20日たったら、館(大蔵幕府)の後ろの山にこの観音像を祭るように」と指示しました。僧は、仰せに従い仮屋を設けてまつり観音堂と名付けました。
建久2年(1191)2月21日、頼朝は持仏堂に阿弥陀三尊の画像を安置し、御堂供養を行いました。同6年(1195)、この持仏堂に造作を加えます。仮屋だった観音堂を本格的な寺院(持仏堂)に建て替えたものだろうと『鎌倉廃寺事典』は記しています。
同事典は観音堂がそのまま持仏堂になり、その後法華堂と呼ばれるようになり、その場所は動かなかった解釈しています。しかし、現在頼朝の墓所されている場所と法華堂の位置関係については諸説があるようです。事典は諸説についても論及しています。
正治元年(1199)1月13日頼朝が亡くなりました。
同年3月2日頼朝の四十九日、4月23日の百ヶ日、翌年正月13日の一周忌仏事は持仏堂で行われました。この一周忌法要の場所として初めて法華堂の名が出てくるそうです。
鶴岡八幡宮寺は二十五坊と呼ばれた供僧によって運営されてきました。応永22年(1415)、坊号をあらためて院号としたとき、その一坊だった頓学坊は相承院と名前を変えます。戦国時代の記録には、法華堂は相承院が管理するとあるそうです。
江戸時代になって、寛文3年(1663)、延宝8年(1680)の文書に、相承院が法華堂を支配しているとあります。『新編鎌倉志』(貞享2年:1685)にも法華堂は相承院が領するところで、頼朝の観音像は相承院に安置されているとあります(雄山閣版6巻15頁)。
さらに時代が下り、神仏分離のときに相承院は廃寺になります。法華堂も消滅し、その跡に白旗神社が出来たといわれています。とすると、法華堂は、いつの頃か今の白旗神社の所に下りてきていたのでしょうか。
284回-3
北条氏一門が自決した東勝寺 その跡 -鎌倉市小町3丁目10
頼朝が幕府を開いてから約150年、鎌倉に拠点を置いていた鎌倉幕府は滅亡しました。
元弘3年(正慶2年)(1333)、新田義貞の軍勢が鎌倉を襲いました。
5月8日に上野国で旗揚げした新田義貞は援軍を増やしながら鎌倉を目指します。阻止しようとする鎌倉方は14代執権北条高時のもと、各地で迎え撃ちますがいずれも突破され、新田勢はついに5月18日、巨福呂坂、極楽寺坂、化粧坂の三方から攻撃を開始します。しかしこの切り通しの守りは堅く、死者の数ばかりが増えていきました。
『太平記』によれば21日夜、義貞は龍神の庇護のもとに潮の引いた稲村ヶ崎を越えて、鎌倉に突入し、稲瀬川のあたりの人家に火を放ちます。海風にのって鎌倉中に燃え広がった中で死闘が続き、北条勢は追い詰められ、菩提寺の葛西ヶ谷、東勝寺で自決しました。その数を『太平記』は一門の者283人、殉死者と合わせて870余人と記しています。
『鎌倉廃寺事典』によると東勝寺の開基は2代執権北条泰時、開山は退耕行勇。行勇は仁治2年(1241)東勝寺で示寂とありますから鎌倉時代前期の創建です。
同事典には廃絶の時期は不明としますが、文明18年(1486)の文には寺名がないとしています。
高時の霊は、東勝寺から滑川を越えた宝戒寺で祭られています。宝戒寺は歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝えられています。高時の慰霊のために後醍醐天皇、足利尊氏によって創建されたといわれています。
284回-4
護良親王をまつる鎌倉宮 -鎌倉市二階堂154
もちろん鎌倉宮は廃寺ではありません。ここに取り上げたのは鎌倉幕府滅亡後、建武の新政を支えた護良親王を語るためです。
護良親王は鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇の子どもです。『太平記』には第3宮とあります。父と共に倒幕のために転戦しますが、建武の中興の政策が動き始めると足利尊氏と対立し、やがて後醍醐天皇とも不仲になって、ついに父の命によって捕らえられ鎌倉に送られました。
当時、鎌倉は尊氏の弟の足利直義が治めていて、その監視下に置かれ、二階堂にあった東光寺の土牢に幽閉されたと『太平記』は記しています。
東勝寺で自決した14代執権北条高時の遺児、北条時行が、建武2年(1335)、鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉に迫ります。鎌倉にいた足利直義は鎌倉を脱出する際に護良親王の殺害を命じました。時行が護良親王を擁して建武の新政側に対抗することを恐れてのためと考えられています。
明治維新を成し遂げた明治政府は天皇親政国家を目指しました。後醍醐天皇の建武の中興を鏡としました。建武中興に尽力した人々の功を賛える中で、明治天皇は護良親王を祭る神社の創建を命じ、東光寺跡の現在地に鎌倉宮が造営されました。明治2年(1869)のことでした。
284回-5
護良親王の墓所を守った理智光寺 その跡 -鎌倉市二階堂748のあたり
鎌倉宮の南側の道路を東の方、永福寺跡、瑞泉寺方面に向かうと、左手に永福寺跡、その反対側に二階堂川にかかる理智光寺橋があります。この橋を渡って進むと住宅地として開発されていますが、地名を「理智光寺谷」といいます。おそらくかつてはこの谷(やつ)の全部が理智光寺の寺域だったろうとされています。
開山は願行坊憲静(?―1295 願行上人)、寺の名は鎌倉時代の末期から現れます。初めは理知光院と名乗っていましたが、戦国時代の16世紀半ばから理智光寺と書かれ、その頃は勢いを失っていたようです。
江戸時代末期に作られた『鎌倉攬勝考』(かまくららんしょうこう 文政12年:1829)には「尼寺となって東慶寺の末寺」と、また『新編相模国風土記稿』(天保12年:1841)には「東慶寺の末寺で阿弥陀堂のみ」と書かれているそうですから、もっと衰退していたようです。
『鎌倉廃寺事典』は、廃寺になったのは鎌倉宮御造営のころ(明治2年)で、その後は、今の護良親王御陵の石段の前に2間×3間の庫裡があって手習師匠のお婆さんが住んでいたという興味深い話を引用しています。
このように理智光寺の歴史をたどってもあまり面白くもないのですが、注目点は、大塔宮護良親王とこの寺との関係です。
今は宮内庁の管理になっている護良親王墓所が、この理智光寺谷の一角、理智光寺橋を渡ってすぐの小高い丘の上にあります。『太平記』巻13に、建武2年(1232)、鎌倉を脱出する足利直義が、部下に命じて土牢に捕らえられていた親王を殺害し、その首を捨てたのを、理知光院の長老が拾って葬った話が載っています。親王の墓所はこの話を元に築かれたのでしょう。
寺の創建はこの事件より前であったにしても、理智光寺は護良親王の霊を祭ることを大きな役目としていたのではないでしょうか。
284回-6
願行上人が試みの鉄仏を作った大楽寺 その跡 -鎌倉市二階堂421覚園寺の近く
理智光寺の開山といわれる願行坊憲静が試みの鉄不動を、大楽寺で作ったという話が「大山不動霊験記」(江戸時代)に載っています。伊勢原市大山にある大山寺の本尊、国指定重要文化財の鉄不動を作るにあたって、大楽寺で試作したという内容です。
大楽寺の本尊はこの試みの鉄不動だったと伝えられています。大楽寺が廃寺になると、他の諸仏とともに、近くの覚園寺に移されました。
創建は鎌倉時代末期の文保3年(1317)、開山は公珍。胡桃谷(くるみがやつ 現在は浄妙寺4丁目の当たり)に建てられました。
それが、永享元年(1429)に貰い火から全焼し、薬師堂が谷(現住居表示は二階堂)に移りました。『風土記稿』には「胡桃山千秋大楽寺」とあります。
大塔宮鎌倉宮の前を北に進み、道の右側に庚申塔があります。そこから斜め左に入ったところに寺があったと『鎌倉廃寺事典』に書かれています。この頃は覚園寺(鎌倉市二階堂421)が管理していたようです。同事典は明治維新で廃寺になったのであろうとしています。
284回-7
仏殿が円覚寺の舎利殿となった太平寺 その跡 -鎌倉市西御門1丁目11-1来迎寺のあたり
『新編鎌倉志』に「円覚寺の開山塔の昭堂(=舎利殿)は、太平寺の仏殿なり」とあります(西御門村高松寺の項 雄山閣版6巻17頁)。
今、国宝指定を受けて有名な円覚寺舎利殿は、西御門にあった太平寺の仏殿を移築したものという意味です。
太平寺の創建は弘安年間(1278-1287)、妙法尼によるとされています。
時代は下って、初代鎌倉公方(在位1349-1367)の足利基氏(1367死去)の後裔とも室ともいわれている清渓尼が中興の祖とされています。鎌倉時代には衰退していたのかも知れません。復興は基氏の没後始まったと『鎌倉廃寺事典』にあります。
さらに時代は下って戦国時代、青岳尼(1576没)が住持のとき、小田原北条氏と敵対していた安房国の里見の兵が鎌倉に攻め入って、本尊の聖観音立像と青岳尼を連れ去りました。そして住持を失った太平寺は消滅します。
太平寺の仏殿が円覚寺に移されたのは、円覚寺開山堂が火災に遭った永禄6年(1561)後とされています。仏殿が移設されるのですから、その頃はもう太平寺は機能していなかったものと思われます。
Photo 平野会員
Report 山本会員 平野会員