280回 鎌倉市 鎌倉五山 平成29年5月22日(晴)



280回-00
はじめに
北鎌倉駅から円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺と鎌倉五山寺院のうち、四つの禅宗寺院を訪ねて鎌倉駅で解散しました。
まず、北鎌倉駅横の円覚寺前で、minamoto会員が中国に発する五山制度の由来、鎌倉・京都の五山寺院とその文化について説明しました。
そして、今日の説明はわたくしyamamotoでした。
つい口をすべらせ、「JRの線路の向うの池、百鷺池(びゃくろち)の先に見える石垣までが元々の境内で、明治政府により横須賀の海軍鎮守府まで鉄道を通す必要から分断された」と言ったところ、「向こうにも門があったのですか」と質問され、「エエ、ありました。」とあやふやに応えてしまい、まずい、また宿題を抱えてしまいました。
調べてみますと、円覚寺の古絵図では、池を囲む様に築地塀があり、その凹型の外側に馬道があり凹型の左右の先端を南北に今の鎌倉みちが通っていました。つまり見えていた石垣のさらに向こうに馬道があったという事です。門は凹型の側面左右下部に南門北門と二つあったことが分かりました。

280回 1-01
円覚寺 (鎌倉市山ノ内409)

臨済宗大本山 瑞鹿山(ずいろくさん)円覚寺

「瑞鹿山」の額の総門
三門(山門)

 

「漱石」銘の手水鉢

 

 

 

 

 

鎌倉五山第二位、開基は8代執権北条時宗、開山は無学祖元(仏光国師)
蒙古襲来の文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で戦死した両軍兵士の菩提を弔うために弘安5年(1282)に建立されました。総門から入り、三門(山門)をくぐり仏殿に向かうと、右側に手水石があり、「漱石」と彫ってあります。「水に枕し、石で口注ぐ」の中国の古文からとった文句で、夏目漱石も自分の号の由来としています。天保6年(1835)年の銘があり、1867年生まれの夏目漱石とは何の関係もありませんが、漱石は塔頭(たっちゅう)の帰源院に来ているので、面白いと思いました。

280回 1-02
仏殿 宝冠釈迦如来像 白龍の図 開山の無学祖元の頂相
円覚寺の境内は広大で全てを見学するのは時間的に難しいので、桂昌庵(十王堂、徳川五代将軍綱吉生母、桂昌院ゆかりの建物)、選仏場、柳生道場を移した居士林(在家修行者のための専門道場)を観て、仏殿に入り本尊宝冠釈迦如来像を拝観しました。
天井絵は日本画家の前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図です。
関東大震災で倒壊したため、現在の仏殿は元亀4年(1573)の「仏殿指図」を基に昭和39年に鉄筋コンクリート造で再建されました。

280回 1-03
鎌倉石の露頭と鎌倉石の石垣
鎌倉では方々で鎌倉石の露頭を見ることができます。円覚寺の境内にも巨大な崖となって露出しています。鎌倉石は柔らかい石で加工しやすく、かつてはたくさん切り出されていました。石段、敷石、擁壁、かまど、水路の樋などに利用されていましたが、現在は切り出しが禁止されているそうです。三門の通路の敷石も鎌倉石が敷き詰めてありました。

280回 1-04
妙香池・舎利殿
仏殿を出て、方丈の横を、妙香池を左手に見ながら進み、仏日庵の手前を左に折れると、鎌倉で唯一の国宝建築物で、かつ日本最古の唐様建築物の舎利殿があります。
下見をした5月3日には特別公開されていましたので間近に見られたのですが、この日は門の外からしか見られませんでした。教科書で見た建物が遠くに見られるだけでした。横浜の県立歴史博物館では、原寸大の実物模型を展示しています。
花頭窓(かとうまど)や弓欄間(ゆみらんま)、粽柱(ちまきばしら)に裳階(もこしなどが特徴です。

280回 1-05
仏日庵 時宗の像
舎利殿の先に仏日庵があります。円覚寺の開基 北条時宗の廟所です。
9代貞時(時宗の子)、14代高時(時宗の孫)も合葬されています。
この日は高時の命日に当たり、札がでていました。
またこの日は、元弘3年=正慶2年(1333)、東勝寺で北条一門が滅亡した日で、宝戒寺では「得宗権現会」が行われていますが、そちらにも回るのは時間的に不可能でした。
仏日庵は門外から中の様子を見て、寄らずに進みました。

280回 1-06
白鹿洞(びゃくろくどう)
「円覚寺開堂の日、集まった人々と共に、無学祖元禅師(むがくそげんぜんじ)の説法を聞こうと、洞穴から白鹿が群れをなして現れた。この奇瑞譚によって円覚寺の山号を瑞鹿山(ずいろくさん)という」
と説明版に書いてありました。
この山号は総門に掲げられています。

 

280回 1-07
弁天堂 洪鐘(おおがね)
鎌倉三名鐘の一つ国宝の洪鐘(おおがね)を見るために,急で高い石段を登りました。数えると百段余り、苦しい記憶のみ残っています。
画像はその登り口です。
円覚寺では梵鐘のことを洪鐘といっています。そばに立ててある説明板に次のように書いてありました。
「時宗の子、貞時によって1301年(正安3年)に鋳造された。鋳造がうまくいかず、江ノ島の弁天様に祈願したところ、百鷺池の底をさらえとの夢告があり、金銅の塊を得て、それを使ってこの鐘を作った。貞時は江ノ島弁才天を洪鐘の神体として弁天堂を建てて祭った」
弁天堂のそばに茶屋と富士山の見える見晴らし所がありました。

280回 2-01
浄智寺(鎌倉市山ノ内1402)
臨済宗円覚寺派金寶山浄智寺
鎌倉街道を南に進むと、踏切手前右側に五山第四位の浄智寺があります。
開基は北条宗政とその子師時(後の10代執権)です。5代執権時頼の3男宗政が29歳で若死にしたため、宗政の夫人が一族の支援により、夫と遺児である師時の名で開基としたと伝わります。
開山は三人といわれています。「当初開山に招かれた日本人僧の南洲宏海が、自分が開山となるには大任過ぎるといって、師である宋の僧、大休正念を迎えて入仏供養を行い、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧(ごったんふねい)を開山としたため」と説明板に書いてありました。
総門の前には鎌倉十井の一つ甘露ノ井があります。

鐘楼門
山門は二階建てです。2階は鐘楼になっていて、鐘楼門と呼ばれています。

280回 2-02
曇華殿(どんげでん)
鐘楼門をくぐると仏殿(曇華殿)があります。
当寺の本尊の阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来を安置してあります。
この三体を「木造三世仏座像」といい、それぞれ過去、現在、未来を表しているそうです。三体の姿はほぼ同じで、中央のお釈迦様がわずかに高く、その外の違いは指の組み方です。向かって左の阿弥陀如来の印相が弥陀の定印で、他の二体は法界定印のように見えます。
鎌倉に多い衣の裾を台座の下まで長く垂らした「法衣垂下様式」で室町時代の作と言われています。

280回 2-03
観音鎌倉札所三十一番
曇華殿を、向かって左に回り込むと裏手に木造観音立像が祭ってあります。観音様の脇に板碑が立ててありました。

 

 

この観音様の頭上には木板の額が架かっていて、次のように書いてありました。
鎌倉札所第三十一番/山ノ内 浄智寺/観世音菩薩像/けふよりそ(ぞ) こかね(黄金)の/やまに入りにけり/きよきさとりの/ちゑをとりつゝ/東京深川木場/伊勢㐂店主/施主材木商/初代齋藤夘兵衞/安政三年三崎町西浜/大井家ニ生化齢七十三才
安政3年は西暦1856年です。

観音堂にはこのような額が架かっていました。
右から左に「◯◯殿」の「◯◯」が読めません。
境内を散策していますと、宝篋印塔や五輪塔に出会います。

 

280回 2-04
鎌倉時代から現代に続く墓地
本堂の裏手は鎌倉石の露頭で、そこにやぐらが穿たれています。やぐらの中も、その前にも現代の墓石が林立していて、この一角の墓地は鎌倉時代にさかのぼることを表しています。
現代の墓石が多いなか、江戸時代の供養塔もありました。3基の中の右側二つが古く、その向かって左は「元禄三庚午」(1690)、右は「寛文九乙酉」(1669)の年銘でした。庶民が墓石を建てるようになったころのものです。

280回 2-05
横井戸の跡
鎌倉石を掘った井戸跡がありました。説明板に、
「横井戸 山の水をためて用水に使うため、かなり古い時代に掘ったものとおもわれます。三十数年前まではコウモリのすみかになっていました。」と書いてありました。

 

280回 2-06
5月の風 渡る
境内に茅葺きの大きな建物があります。中に上がることはできませんが、玄関から眺めると畳の間を通して庭園の一角が広がっています。
このカメラアングルは多くの人の目を引いたらしく、ネット上にたくさんの画像が掲載されています。
浄智寺を辞するあたり、私たちも一枚!

 

280回 3-01
建長寺 境内図 (鎌倉市山ノ内8)
建長寺は鎌倉五山第一位です。
開基、北条時頼が、開山に蘭渓道隆(大覚禅師)を中国(宋)から迎えて建長5年(1253)に創建されました。禅宗寺院を模したもので、総門、三門(山門)、仏殿、法堂、方丈など主な建物が直線上に並ぶ、中国禅宗様式に基づいているそうです。
現在もほぼ直線をなしていて、三門、仏殿、法堂、唐門は国指定重要文化財、梵鐘は国宝です。

280回 3-02
三門(山門)
「三解脱門」の略で「三門」というと説明板にありました。この門をくぐることであらゆる執着から解き放されるそうです。
楼上に、釈迦如来、十六羅漢、五百羅漢の像が安置されていると説明板に書かれています。
安永4年(1775)に再建されたともありました。
楼上の巨大な額に「建長興/国禅寺」とあります。創建が建長5年、禅によって国の興隆をはかるという意味が込められています。
この門の下で、お賓頭盧(びんずる)様が参拝者を迎えておられます。手でなでられてツルツルです。
毎年7月15日に、この三門の下で施餓鬼会が行われています。このとき、梶原景時の亡魂も供養するそうです。

280回 3-03
柏槇(ビャクシン=柏樹)
禅宗寺院にはよくビャクシンが植えられています。禅問答の「庭前の柏樹子」の話に関係があるのでしょうか。あるいは、禅宗寺院に植えられることが多いから、この話が作られたのかもしれません。
開山蘭渓道隆が中国から持ってきた種子を創建の際に撒いたと伝えられているそうです。「かながわの名木百選」に選ばれ「鎌倉市指定保存樹木」になっています。

 

280回 3-04
仏殿
巨大な木造建築です。説明板に、「創建当初より4代目のもので、芝の増上寺あった徳川秀忠夫人お江の方の御霊屋を移築した。建長寺の本尊、地蔵菩薩を安置する」とありました。
格天井と上方の小壁に絵と彫刻があります。当初は見事なできばえだったと思われますが、たいへん痛んでいて、特に絵は何が描かれているかはっきりしません。
いくつかある彫刻の中から迦陵頻伽(がりょうびんが)の画像を載せておきます。極楽浄土に住むといい、上半身ヒト、下半身鳥だそうです。この彫刻ではわかりにくいですが、顔がヒトになっていて、蓮華を持って飛んでいます。

280回 3-05
法堂
説明板によると江戸時代の文化11(1814)に再建とありました。元は建長寺全体の修行道場として使われていたそうです。
本尊として千手観音が祭られています。
その前には苦行中のお釈迦様の坐像があります。確認しませんでしたが、パキスタンで作られたものと書いてあったとのことです。
天井の雲龍図は建長寺の創建750年を記念して描かれたのだそうです。

280回 3-06
唐門
金色のピカピカの建物です。説明板に「寛永5(1628)に芝の増上寺に、徳川二代将軍秀忠夫人の御霊屋の門として作られたもので、正保4(1647)に仏殿などと共に建長寺にもたらされた。いまは方丈(龍王殿)の正門として使われている」とありました。
ピカピカなのは平成23年に解体修理を済ませたからです。
紹介しませんでしたが、円覚寺にも唐門があります。彫刻がすばらしく、素木の落ち着いた感じの建物です。彫刻師の名があるかとしきりにさがしましたが見当たりませんでした。

280回 3-07
庭園
方丈から見ることができます。方丈はいつも解放されているようです。
建長寺開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 大覚禅師)の作庭だそうです。
寺の創建750年を記念して、平成15年に大改修されたとありました。国の史跡指定を受けています。

 

280回 3-08
半僧坊に登る
方丈の横を先に進むとやがて上り坂になります。この坂を上ったところに半僧坊があります。

 

 

 

280回 3-09
烏天狗の群れが迎えます

 

 

半僧坊本殿
「半僧坊縁起」という説明板が壁に掛けてありました。それによると、
「今から五代前の住職あおぞら貫道老師が半僧半俗の老人に山中で会い、自分を清浄の地に祭るならいよいよ栄え、ありがたい事が絶えることなしという夢を見た。その老人こそ建長寺の鎮守にふさわしいと、静岡県浜松市の方広寺を訪ね、分霊を勧請し、建長寺内で最も見晴らしの良い現地に御堂を建てて祭った。明治23年5月のことだった。当時は一都二十数県に広まり信者は5万人を数えた」
と書いてあります。
浜松市の方広寺は臨済宗方広寺派大本山を名乗り、鎮守として「奥山半僧坊大権現」を祭っています。寺のHP詳しく掲載してあります。

280回 3-10
半僧坊の御利益
烏天狗が登場し、山の高いところに社殿を構えていること、現世利益をうたうところなどから、半僧坊信仰は、修験系の山岳信仰に基づくものでしょう。

 

 

280回 3-11
建長寺の梵鐘
半僧坊の山を下って、国宝の梵鐘を見学し、建長寺を後にしました。
重さは2.7トンだそうです。平成28年の建長寺の施餓鬼を訪ねたとき、この梵鐘の音が重く響き渡りました。
説明板に、
「開基の北条時頼の発願によって広く施主をつのり、開山の大覚禅師(蘭渓道隆)の銘文、鋳物師の物部重光によって建長7(1255)に鋳造された。この梵鐘の奥に、大覚禅師を祭る塔頭(たっちゅう)の西来庵がある」とあります。

280回 3-12
建長寺の四方鎮守 第六天(鎌倉市山ノ内1523)
建長寺には四方鎮守というものがあるそうです。
寺を後にして、鎌倉街道を北鎌倉駅方面に戻る途中、進行方向左手の崖の上に、その一つの第六天が祭ってありました。
社殿は急な石段の参道の上で、見えません。
参道入口にある説明板に次のように書いてありました。
「四方鎮守は、中央に五大尊、東に八幡、北に熊野、西に子神、南に第六天。これらは江戸時代の記録に出てくる。第六天は、棟札によって社殿建立と修復再建は宝永4年(1707)、天保2(1831)と分かる。社殿内に江戸時代作の第六天像、四天王が安置されている。四方鎮守の中で、今も明らかなのはこの第六天だけである。」
この第六天は、鎌倉市山ノ内の上町町内会で祭っているそうです。

280回 4-01
岩船地蔵堂(鎌倉市扇ガ谷3丁目3)
第六天の先数十㍍の所を進行方向左に折れると亀ヶ谷坂の細道になります。この道をたどって寿福寺を目指しました。
やがて横須賀線の線路に出会いますが、この三叉路に岩船地蔵堂があります。
栃木県岩舟町にある天台宗岩船山光勝寺は本尊に地蔵菩薩を祭る古刹です。
江戸時代に、この光勝寺の地蔵信仰が広まりました。各地に、お地蔵様が船に乗っている姿の石仏が作られています。茅ヶ崎にはありませんが、藤沢市などで見ることができます。
その一つがここ、扇ガ谷にもあり、海蔵寺が管理しているようです。

閉扉してあり参拝することができません。
御堂の横に説明板があって、次のように書いてあります。
堂内に木造と石像の地蔵尊が祭ってある。石像を本仏とし木仏を御前立とする。木仏には体内銘があり「頼朝の息女、大姫の守り本尊だった。元禄3年(1690)に堂を建て、本像を造立した」旨が書かれていた。
しかしこの説明板、文字が薄れていてほとんど読めないのです。
扉の隙間から覗くと、御前立の地蔵様が見えました。

280回 5-01
寿福寺 外門(扇ガ谷1丁目17−7)
亀谷山(きこくさん)寿福寺金剛禅寺。臨済宗建長寺派。
頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、頼朝夫人政子が、明庵栄西を開山として創建しました。鎌倉五山の第三位。
「此地は、もと源頼朝の父、義朝の館があったといわれている。治承4年(1180)鎌倉入りした頼朝はここに館を構えようとしたが、すでに岡崎義実が義朝の菩提を弔うために御堂を建てていたのでやめたといわれている」と説明板にあります。
亀谷山の額
外門に架かる額です。

 

 

 

280回 5-02
参道を歩く郷土会の一行
境内は国指定の史跡になっています。
外門から山門に至る敷石道です。

 

 

280回 5-03
境内の柏槇(ビャクシン)
仏殿の前に4株のビャクシンがあります。

 

 

 

280回 5-04
墓地
寺の裏手は鎌倉石の岩盤で、それを穿って鎌倉時代からやぐらが作られてきました。今も墓地として使われています。

 

 

280回 5-05
政子の墓
三代将軍実朝と政子の墓と伝えられる五輪塔がやぐらのなかに安置してあります。写真は政子のものといわれている方です。
五輪塔は形もよく、鎌倉時代のものと思われます。

 

 

280回 5-06
双体像の墓石
苔むしているので像も銘もはっきりとは見えませんが、双体道祖神の初期の形によく似た石塔を見つけました。個人墓地の中にあったものです。
中井町あたりにはサイノカミ(道祖神)像の初期のものがあります。それらは双体僧形の立像です。
また時に、墓石のなかに双体僧形の供養塔を見ることがあります。サイノカミの石仏は、この形の供養塔をモデルにしているのではないかと思うほど、形が似てるのです。
私たちは寿福寺を後にして、この年5月15日に開館したばかりの鎌倉歴史文化交流館(鎌倉市扇ガ谷1丁目5−1)を見学して鎌倉駅に出て解散しました。

この日の説明・案内 山本会員
Photo 前田会員 平野会員
Report 山本会員 平野会員

 

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