283回 (箱根町) 塔ノ沢の阿弥陀寺と箱根湯本の早雲寺 11月27日(晴)

283回-01
小田急 箱根湯本駅
行く秋を惜しみ、塔ノ沢の秋景に涙しよう と箱根町を訪ねました。
小田急線の箱根湯本駅は絶好の秋日和、雲一つ無い秋空の下にありました。
まず向かったのは浄土宗 阿育王山放光明律院阿弥陀寺塔ノ峰の中腹にある寺院で、のぼること小一時間と聞き、駅前から車に分乗することにしました。

 

283回-02
阿弥陀寺参道
そのタクシーも途中までしか行かず、参道を歩くことしばし。荒れた日は大変でしょうが、私たちは好天に恵まれ、紅葉を見ながら歩くのは楽しいものでした。
途中にたくさんの石仏があります。このお地蔵様、年銘はありませんが、「施主 江戸神田鍋町 松屋徳兵衞」とあり、江戸時代に神田の徳兵衞さんが身内の者の供養のために建てたものでした。
ほかの石仏にも江戸の人が建てているものがありました。江戸時代は祈祷寺として知られていた阿弥陀寺の歴史をあらわしているようです。

283回-03
阿弥陀寺(箱根町塔之澤24)
大して疲れる間もなく、阿弥陀寺の境内に着きます。入口で六地蔵と青銅の阿弥陀様がお出迎えされていました。これが今回の参加者一同。

 

何にやら打ち合わせている私たちの話を如意輪観音が聞いておられました。
阿弥陀寺の草創は慶長10年(1605)といわれています(西海賢二著『漂泊の聖たち』27頁)。木食行者の弾誓上人(もくじきぎょうじゃのたんせいしょうにん)はその前の年に塔之澤に来て、洞窟に籠もり念仏三昧の修行を積んだそうです。その洞窟が寺の裏を200㍍のぼったところにあり、上人ゆかりの石造物なども残っていると聞いていましたので、期待していたのですが、道が通れず行くことができないと分かりました。
阿弥陀寺は木食聖(もくじきひじり)によって開かれた特異な歴史の寺院です。

283回-04
阿弥陀寺本堂
建物は豪壮な雰囲気です。
本堂の分厚い屋根は銅板で覆われていましたが、その中は藁葺きだと思われます。
「浄土宗神奈川教区青年会」のホームページに紹介されている阿弥陀寺の項には「本堂は天明4年頃に、今の小田原市久野の庄屋の家を移築したもので、民家造りとなっています。」とありました。天明4年は西暦1784年です。

283回-05
ご住職の琵琶の演奏
阿弥陀寺住職、水野賢世さんは琵琶の演奏家として知られていましたので事前にお願いしておきました。平家物語と皇女和宮を奏していただきました。琵琶の音色は聞いたことがなかったこともあり、一同いたく心を動かされました。

 

283回-06
本尊 木造阿弥陀三尊坐像
箱根町の文化財に指定されています。
『箱根の石仏』(澤地弘著かなしんブックス)に、「元禄年間に江戸本所の回向院の旧本尊であったものを回向院四世の喚霊によって寄附されたもの」とあります。短い一行ですが、この言葉の裏にどのような歴史があるのか、とても興味を引かれます。両国の回向院は江戸時代には、有名社寺がこぞって出開帳をしました。その回向院の本尊がどのような理由で阿弥陀寺にもたらされたのでしょうか。

283回-07
阿弥陀如来立像
『箱根の石仏』には、「芝増上寺にある黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像の御代仏として作られた仏像で、皇女和宮の念持仏だった。和宮と湯本温泉との関係から、和宮の七回忌に阿弥陀寺は増上寺の別院に昇格し、この御代仏がもたらされた」とあります。このことについても、もっと詳しい事情が知りたいものです。

 

283回-08
後生車
本堂入り口に大きな後生車(ごしょうくるま)が下がっています。大数珠がベルトのように掛けてあって、この数珠を引くことによって車を回すことができます。
また、入口の脇に漢文の「轉輪日課百萬遍記」が立てかけてあります。後生車にもこの厚板にも、「天明四年甲辰」とあります。西暦1784年です。
民俗行事の「百万遍数珠繰り」は、講中が集まって大数珠を回しながら願い事をしますが、ここに架かる車は、百万遍数珠繰りを一人ででも行うことができるように工夫されたものと考えることができます。
山北町世附にある神奈川県指定無形民俗文化財の「世附の百万遍念仏」と同じ仕組みです。
厚板の「轉輪日課百萬遍記」を読むと、これを回すことによって百万遍と同じ仏果が得られると書いてあります。

283回-09
葵の御堂
本堂の脇にある御堂は「葵の御堂 皇女和宮香華院」といわれています。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は脚気を患い、箱根塔ノ沢の「環翠楼」で湯治をしていましたが、明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去したそうです(Wikipedia)。阿弥陀寺には和宮の念持仏だったといわれる阿弥陀如来像(先に紹介した、芝の増上寺からもたらされた御代仏)があり、位牌もあるそうですが、和宮と阿弥陀寺との関係はまだ調べておりません。

283回-10
潮信院殿尊前の手水鉢
境内にある手水鉢に「潮信院殿尊前 元禄九年九月六日」の銘と、11人の武士の名前が彫ってありました。元禄9年は西暦1696年です。
調べてみると「潮信院殿」は小田原藩主稲葉美濃守正則の戒名でした。「尊前」とありますから、正則を供養する塔か何かが別にあって、その前に置かれていたものでしょう。あるいは阿弥陀寺に正則の霊を祭ってあるのでしょうか。年銘は正則の命日です。
側面の家紋は「折敷に三文字」といわれる稲葉家のものでした。

283回-11
馬頭観音
阿弥陀寺に別れを告げて、参道を下る途中にもたくさんの石仏があります。
これは三面八臂(3面の顔と8本の腕)の馬頭観音です。頭の上の動物の頭はネズミか何かのように見えますが、馬頭でしょう。『箱根の石仏』には、参道のこの部分を「馬道」というと書いてあります。

 

283回-12
石仏を見ながら下る
参道沿いにある石塔・石仏のほとんどは個人の供養塔でした。その中でも、この画像にある自然石の供養塔には「寛永五戊子年正月七日」とありますので、最も古いものではないかと思われます。西暦1628年です。「◯◯禅定門、◯◯禅定尼」とある夫婦の供養塔です。阿弥陀寺が開かれてから20数年後に建てられていますから、ごく初期の信者だったのでしょう。
弾誓上人は慶長16年(1611)に京都で入定していますので、この供養塔が建てられたときは阿弥陀寺にはいませんでした。

283回-13
山門
さらに参道を下ると山門がありました。
「阿育王山」は阿弥陀寺の山号です。
ネット情報によると、阿育王山という山が、中国の浙江省にあるそうです。
古代インドで仏教を擁護したアショーカ王は、中国で阿育王と表記され尊ばれました。仏教の日本への伝来と共に、アショーカ王信仰も伝来し、ゆかりの阿育王山の名を山号にする寺が現れますが、その事例の一つです。

283回-14
三尊仏の石龕(せきがん)
山門の下、進行方向右側に入ったところにあります。
大きな自然石を堀くぼめて三体のほとけを半肉彫りしてあります。
この三体の仏像を『箱根の石仏』は32ページに「中央は阿弥陀如来、右側は薬師如来、左側は観音菩薩」としていますが、
中央の阿弥陀如来はよしとして、
その右像(向かって左)は蓮台を持つ観音菩薩、
左像(向かって右)は地蔵菩薩
のように見えます。
また、三像の頭の上に種子(しゅじ・しゅうじ)があり、阿弥陀キリク、右像の上はサ(この二つは明確です)、左像はカと見えます。つまり阿弥陀三尊の勢至菩薩が地蔵菩薩に変わった変形だと考えられます。
年銘は二か所にあって地蔵の右に「□□癸酉□月四日」(元禄六年 1693)、三尊龕の向かって左の小さな龕に「元禄五年□月□日/施主 秋山弥五□□」とあります。
『風土記稿』は塔之澤の項(雄山閣版2巻128頁)に、塔之澤温泉の始まりは諸説あるとし、その一つに「阿弥陀寺開山弾誓(たんせい)、慶長中(1596-1615)秋山道伯(元湯彌五兵衞の祖)と謀りて、起立せし」という話を載せ、この話は阿弥陀寺に伝わる念光という僧が書いた手帳に「慶長十年(1605)9月、弾誓上人が病者のために流れに従って山谷を下り、岩を杖で突いて湯を湧出させ、道伯に与えたという記述による」としています。「元湯彌五兵衞」の「元湯」とは塔之澤温泉の環翠楼の前身です。
つまり、塔之澤温泉の始まりは「元湯ー環翠楼」にあることを、「道伯ー彌五兵衞」を阿弥陀寺の開祖である弾誓上人に結びつけて説くもので、各地にある弘法の湯伝説の域を出るものではないようです。
以上の話も含めて、この石龕は興味深いと思いました。

283回-15
梅村美誠夫婦の墓
石龕三尊像の隣奥にあります。
梅村美誠氏は塔ノ沢の温泉宿環翠楼の2代目楼主で、湯本村の村長も務め、村の発展に寄与しました。
和宮が療養していた宿がのちに環翠楼と名乗ります。

 

283回-16
紅葉
参道を下りきったところの紅葉がきれいでした。

 

 

 

283回-17
昼食は「山そば」
箱根湯本駅のそばのソバ屋「山そば」に予約を入れておきました。
月曜日だったにもかかわらず店内は混んでいました。
観光地の食堂は大したことないことが多いですが、ここの蕎麦はおいしかった。ビールも最高でした。もっとも、長い山道を歩いた後でもあったのですが。

 

283回-18
早雲寺に登る急な坂道
昼食のあとは旧東海道沿いの早雲寺を訪ねます。早川を渡り、湯本富士屋ホテルの脇を抜けると急な坂道です。
この日は80歳代の参加者もありましたが、皆さん大変お元気でした。
この坂道がかなり続くのですが、一気に登り切りました。
茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりは健康維持に効果絶大です。
百歳まで生きる人が多くなった昨今、運動と頭の体操は欠かせません。
皆さん! 茅ヶ崎郷土会に入ると長生きしますよ。

283回19
早雲寺遠景
晩秋の日の落ちは早い。谷あいにある湯本は、午前中の日差しを失ってきました。

 

 

 

283回-20
早雲寺の始まり 看板(箱根町湯本405)
この看板が寺の歴史を語っています。
臨済宗大徳寺派。金湯山早雲寺。
「新編相模国風土記稿」湯本村の項に「北条氏綱、早雲庵宗瑞の遺言にまかせて建立。大永元年落成す。ゆえに早雲をもって開基と称す」とあります。

 

283回-21
開山堂
早雲寺の開山は以天宗清(いてんそうせい)という臨済宗の僧。
説明板には「生まれは文明4年(1472)、京都。北条早雲、氏綱、氏康の帰依を受けて早雲寺の創建に係わる。天文23年(1554)死去」とあります。

 

 

283回-22
北条五代の墓
本堂の裏手にあります。
説明板に「天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城を攻めるために早雲寺を本陣とした。6月に一夜城が完成するとそちらに移り、早雲寺に火を放ち、寺は灰燼に帰した。7月、北条氏降伏。氏政、氏照は切腹、氏直は高野山へ追放となったが一門の氏規、氏勝が家系を伝えた。江戸時代の寛永に寺の再建がはじまる。北条五代の墓は、氏規の子孫によって寛文12年(1672)に供養塔として建立された」とありました。
向かって右から早雲長氏、氏綱、氏康、氏政、氏直と並んでいます。

283回-23
梵鐘 神奈川県指定重要文化財
現地で確認しませんでしたが、元徳2年(1330)の銘があるそうです。この梵鐘とは関係の無いことですが、3年後の正慶3年(1333)に鎌倉北条氏が滅びます。
豊臣秀吉が小田原を責めたとき、三島の寺にあったこの鐘を一夜城に運び、戦の鐘として使った。その後早雲寺にもたらされたといわれています。

 

283回-24
飯尾宗祇の歌碑(昭和8年建立)と墓碑 
世に婦るは 更にしぐれの やどりかな
本堂の前に連歌師 飯尾宗祇の歌碑があります。
「飯尾宗祇(いいおそうぎ)は旅の途中、文亀2年(1502)7月30日、箱根湯本で客死した。享年82。」と説明板にありました。
本堂の裏手に墓があります。
説明板には「宗祇の遺骸は弟子たちによって静岡県裾野市桃園の定輪寺(じょうりんじ)に埋葬された。早雲寺の墓は供養塔である」とも書いてありました。

283回-25
白山神社と神明社(箱根町湯本431)
早雲寺の山門を出て、旧東海道沿いに白山社があります。
『風土記稿』に「白山社、当村(湯本村)および湯本茶屋の鎮守なり、例祭正月十九日、村持」と書いてあります。
境内にはこのような巨岩がいくつかありました。磐座(いわくら)なのかもしれません。

このあと、神明社を通過して小田急の箱根湯本駅に戻り解散しました。

 

 

 

Photo 前田会員 平野会員
Report 前田会員

 

今までおこなった史跡・文化財の調査一覧へ
フロントページへ

7 箱根神社(箱根町)と松原神社(小田原市)

箱根 芦ノ湖 冬の景

箱根神社の歴史は天平宝字元年(757)箱根に入った万巻上人(まんがんしょうにん)が寺院と霊廟を建立し、箱根三所権現として祭った事から始まった。
鎌倉時代になると源頼朝を中心とする鎌倉政権の援助により関東武士の鎮護神となった。この傾向は小田原北条氏にも引き継がれ、僧兵を擁して豊臣秀吉の小田原攻めに対抗した。廃仏毀釈運動で打撃をうけ、その際多くの宝物類を失った。
小田原市内にある松原神社は現在は修験を表すものは全くないが、神仏習合時代には、本山派修験の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が別当として神社を管理、運営していた。玉瀧坊は大住郡や高座郡を中心に、相模国43カ寺の末寺を抱える地方本山で、相模国本山派の中心的存在だった。

7-1-01
箱根を開いた万巻上人

箱根神社蔵

箱根を開いたのは万巻上人といわれている。
彼は山岳修行僧で、天平勝宝元年(749)に鹿島神宮寺を建立したあと、箱根に来たと伝えられている。
箱根に本格的な堂宇が建立されたのは上人が来山してからで、天平宝字元年(757)、霊夢の告げによって三所権現を勧請した。上人は養老年中(717-724)、洛邑(平城京)に生まれ、成長して修行僧となった。
『方広経』1万巻を看閲することを日課とするという願を立てたので、万巻上人と称されたという。(KL-NETの『箱根神社大系』の説明から)。
箱根神社には万巻上人の坐像が伝えられていて、国指定の重要文化財になっている

7-1-02
箱根神社
『新編相模国風土記稿』(大日本地誌大系本 風土記稿第2巻 79頁)に、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花開耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)とあり、「各坐像にて萬巻上人の作という、秘して別当といえども拝することなし」とある。また、別当は古義真言宗の東福寺とある。
神仏分離以前は箱根三所権現(はこねさんしょごんげん)と呼ばれて女体、俗体、法体を祭るものであった(五来重著『山の宗教―修験道案内」(角川ソフィア文庫 122頁)。この三体がニニギノミコトなどになぞらえられていたのだろう。今も三柱のミコトを祭神とする。
かつての修験道の痕跡を見ることは出来ないが、『新編相模国風土記稿』87頁の箱根神社の項に、6月の例祭時、「先達・山伏、神木登(志伎濃保利=しきのぼり)ということをつとむ」とある記述が、そのありさまの一端を示している。

7-1-03
九頭龍神社
箱根神社の境内にも九頭龍神社があるが、本来のものは箱根園の中にある。境内の神社はこの箱根園中の神社を勧請したものである。
『新編相模国風土記稿』箱根三所権現社の項(87頁)に「六月十二日の夜、湖水にて龍神の祭禮あり」とある。また、五来重『山の宗教』に、九頭龍神社は箱根の水の神様で、金剛院という山伏が支配していたとある。
『筥根山縁起并序』に、人々を苦しめる芦ノ湖の龍が万巻上人によって調伏され、後に神として祭られたとある。写真は神社境内にある九頭龍神社。

7-2-01
松原神社
小田原市本町にある。
『新編相模国風土記稿』第2巻8頁の小田原宿宮前町の項には松原明神社として載っている。祭神は日本武尊とある。古くは鶴森明神といったが、海中から金の十一面観音が松原に出現し、その託宣によって、この社に移し本地仏としたことから社号を改めたとある。
小田原北条氏や大久保氏の庇護をうけた。

7-2-02
神社の社額
江戸時代に松原明神社の別当は本山派修験の玉瀧坊だった。
『新編相模国風土記稿』(第2巻11頁)に、山城国(現京都)聖護院宮末で「先達奉行職なり。豆相二州及武州都筑(つづき)、久良岐(くらき)、多摩三郡を支配す、鶴松山玉流寺成就院と号す、当城主の祈祷所なり」とある。


今までおこなった史跡・文化財の調査一覧へ
フロントページへ