相模のもののふたち (2)三ヶ所の鎌倉幕府あと(鎌倉市)

鎌倉時代の幕開けを私たちは1192(イイクニ)、建久三年と覚えてきましたが、最近はこれより数年早まるといういくつかの説があるようです。新説を取っても、滅亡は1333(元弘3)年ですから、鎌倉幕府は150年間ほど続いたことになります。
頼朝は石橋山で大庭景親軍に破れ、船で房総に逃れます。しかしすぐに勢力を回復して鎌倉に入ります。1180(治承4)年10月6日でした。鎌倉に入る様子を『吾妻鏡』は「従う軍士は幾千万、舘(やかた)の準備が間に合わず民屋を御宿舘とした」と記します。次いで9日「大庭平太景能を奉行として御亭の作事を始めらる」とあります。まず必要だったのは自分の住まいと、仕事場としての建物だったのでしょう。
建物はその年の12月に完成しました。新造の建物に移る様子を『吾妻鏡』は、「十二日晴 建物は大蔵郷(大倉郷)に作られた。隊列を組んで上総広常の宅を出発した中に和田義盛、北条時政、義時、土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠などがいた。新邸に出仕した者三百十人。時を同じくして御家人たちも居館を構えた。田舎だった鎌倉に家屋が並び立ち、門扉が軒を巡らすようになった」と記しています。「大倉幕府」の始まりです。
「大倉幕府」、「宇都宮辻子(うつのみやずし)幕府」、「若宮大路幕府」を「三ヶ所の鎌倉幕府」と言いますが、将軍の邸宅を兼ねた幕府の政庁のことです。150年間に三ヶ所、移動しました。
このコーナーでは、三ヶ所の幕府政庁の位置や、頼朝とその関係者たちが登場する現代の祭礼などを紹介します。
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2-01
大倉(蔵)幕府政庁あと(現 清泉小学校 鎌倉市雪ノ下三丁目)
鶴岡八幡宮の東側に隣接した幕府政庁のあとには、現在、清泉小学校ができている。頼朝の家屋敷が鎌倉幕府の政庁を兼ねていて、1180年の頼朝の鎌倉入り直後から機能しはじめ、頼朝、頼家、実朝三代の将軍が政務を執り、実朝亡き後も存続し、1225年に、三代執権北条泰時のとき廃されて、宇都宮辻子幕府政庁に移った。

 

2-02
「大蔵幕府舊(旧)跡」の碑(鎌倉市雪ノ下三町目11の一角)
 鎌倉の史跡を訪ねていると、黒っぽい板状の石で作られた史跡案内の碑が目につく。これらは史跡や文化財の保護、案内のために、鎌倉青年会と鎌倉同人会が建てたもので、青年会建立が77基、同人会が6基、その他3基、最も古いものは大正6年、最新は平成26年であることが分かっている。(岸本昌良「鎌倉-史蹟案内碑とは何か」28年3月20日相模民俗学会例会での発表資料)
清泉小学校の西側のはずれの四つ辻にある「大藏幕府舊蹟」碑は青年会が大正6年に建てたものの一つで、この地が大倉(蔵)幕府(大倉の地にあった鎌倉幕府の政庁)跡であることを示している。

2-03
清泉小学校の生徒たちが作った大倉幕府の説明板
大倉幕府跡の碑の後に、小学生の史跡委員が作った説明板がある。朱字のタイトルは先生が書いたものらしいが、その次に、子どもたちが、碑面の文章を写し、これを口語訳している。さらに「鎌倉幕府は何故鎌倉に出来たか」の考えを頼朝系図とともにのせている。
小学生たちの手書き文字が輝いている。このようなものに出会えるのも史跡めぐりの楽しさである。

2-04
清泉小学校の生徒たちが作った大倉幕府東御門(ひがしみかど)の説明板
「三ヶ所の鎌倉幕府政庁跡」の地図をもう一度見て貰いたい。清泉小学校の東西に、東御門(ひがしみかど)と西御門(にしみかど)の碑の位置が示されている。大倉幕府の東門と西門の位置とされている。
説明板には「西御門の地名だけが残っている」とある。現在は、清泉小学校・鎌倉八幡宮の北側一帯が「西御門」と住居表示されていて、江戸時代の西御門村の範囲と重なる。
大倉幕府跡は現在の鎌倉市雪ノ下三丁目の一角で、江戸時代は雪ノ下村に含まれていた。ということから、「東御門」は地名としては残っていないのである。

2-05
東御門(ひがしみかど)の碑(鎌倉市西御門二丁目の一角)

大正15年に鎌倉町青年団によって建てられた碑。「大蔵(倉)幕府には東西南北の四ヶ所の門があった」と書かれている。また「東御門は法華堂の東方一帯の地名」ともあるが、法華堂の東側の地名は”西御門(にしみかど)”で、そのさらに東は”二階堂”、西御門の南隣は”雪ノ下”なので、清泉小学校の史跡委員が言うように、”東御門(ひがしみかど)”という地名は無かったようだ。

 

 

2-06
西御門(にしみかど)の碑
鶴岡八幡宮の東隣にある横浜国立大学付属小中学校校庭の東北隅の道路脇に立っている。
鎌倉時代には、今の付属小中学校の敷地は、八幡宮の一角だったのか、大倉幕府政庁の一角だったのは分からないが、どちらにしても幕府政庁と八幡宮は隣り合っていたことになる。頼朝は八幡宮を篤く信仰していたので、隣同士にある両者の関係が密接だったことを示している。

 

 

 

2-07
辻堂の諏訪神社の祭礼
新しい武家政権を打ち立てて、鎌倉に幕府を置いたのは源頼朝である。頼朝は全国区としての人気を誇るが、我が神奈川県ではことに好まれ、いろいろの場面に登場する。
辻堂元町三丁目の諏訪神社は江戸時代の辻堂村の鎮守で、今に続く神社である。七月下旬に行われる例祭には東・西・南・北の四町内から人形山車が出る。向かって左が東町の頼朝人形、右は南町の武内宿禰(たけしうちのすくね)人形。

2-08
東町の頼朝人形
右手に扇、左手に太刀を持ち、直衣(のうし)を着し、立(たて)烏帽子(えぼし)を被った頼朝。直衣は貴族の日常着だったそうであるから、武家である頼朝は着ることが出来なかったようで、建久元年(1190)11月、京都で後白河法皇に会う際には、特に直衣の着用の許可を受けなければならなかった(『吾妻鏡』による)。
実に写実的な頼朝人形である。

 

 

2-09
藤沢市辻堂の諏訪神社 (藤沢市辻堂元町三町目15-15)
おそらく長野県の諏訪湖のほとりにある諏訪大社を勧請した神社で、祭神は建(たけ)御名方(みなかたの)神(かみ)とその妻と伝えられる八坂刀売(やさかとめの)神(かみ)。
祭礼に登場する人形山車4台は藤沢市指定有形民俗文化財である。指定年は平成5年11月、辻堂諏訪神社人形山車保存連合会の所有、管理となっている。

 

2-10
藤沢市鵠沼の皇大神宮の祭礼(藤沢市鵠沼神明二丁目11-5)
皇大神宮は、社伝では平安時代初期の創建、平安時代末期には伊勢神宮領大庭御厨の総鎮守であったという。(神奈川県神社庁、神社紹介のホームページ中、皇大神宮)
8月に行われる例祭に、9台の人形山車が繰り出す。その中で、もののふでは頼朝、義経、奈須の与一が登場する。
人形山車9台は、昭和63年12月に藤沢市有形民俗文化財に指定されている。

 

2-11
上村町の頼朝人形

鎧(よろい)の上に陣羽織を羽織った頼朝が、左手をかざして遠方を眺めている。若々しい顔つきの人形である。

 

 

 

 

 

2-12
宿庭町の義経人形

鎧(よろい)を付け、兜をかぶり、太刀を佩き、右手に扇、左手に弓を持つ、戦陣に望む姿の義経人形。

 

 

 

 

 

2-13
宮之前町の那須与一人形

鎧(よろい)姿(すがた)で弓を持ち、馬を駆る那須与一人形。
「寿永3年(1184)、那須与一宗高は屋島にて扇の的を射た弓一張と残りの矢を奉納、併せて所領の那須野百石を寄進した」と社伝にある。(神奈川県神社庁、神社紹介のホームページ中、皇大神宮)

 

 

 

2-14
「宇都宮(うつのみや)辻(つじ)幕府舊蹟」の碑(鎌倉市小町二丁目15-19)

稲荷社の境内に鎌倉町青年会が建てた史跡案内碑がある。その碑面には「宇都宮辻幕府」とあるが、今は「宇都宮(うつのみや)辻子(ずし)幕府」といわれ、辻子(ずし)とは小道のことという。
三代執権北条泰時は次第に頭角をあらわし、源氏三代が終わったあと合議制の執権政治体制をめざした。そして政子が薨じた1225(嘉禄元)年に大倉幕府政庁をこの地に移した。翌1226年、若い藤原頼経はこの御所で元服し、四代将軍となった。

 

 

2-15
宇都宮辻子幕府あとの稲荷社(鎌倉市小町2丁目15−19)

若宮大路の二ノ鳥居東側で、八幡宮に向かって右にある路地に入り、すぐの所で北に進んだところ、小町二丁目の一角に赤い幟を立てた稲荷社がある。幟には「宇都宮稲荷大明神」とある。この稲荷社の名前は、鎌倉時代にこの付近にあった宇都宮幕府庁舎(この時代の鎌倉幕府を宇都宮幕府という)に基づいている。

 

2-16
「若宮大路幕府舊蹟」の碑(鎌倉市雪ノ下一丁目13-26)
1236(嘉禎2)年、執権泰時は宇都宮辻子幕府政庁をそのすぐ北隣に移した。新政庁は若宮大路幕府と呼ばれる。宇都宮幕府政庁

を拡幅したものとか、若宮大路に面していたことがその名の由来だという説があるそうである。
以来鎌倉幕府の政務はこの若宮大路幕府政庁で行われ、1333(元弘3)年の新田義貞の鎌倉攻めによって鎌倉幕府が壊滅するとともに終焉を迎えた。(Wikipediaから引用)

 

 

photo & report 平野会員

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