第305回 史跡・文化財めぐり 茅ヶ崎市内の大山道を歩く③ 令和5年(2023)7月8日(土)実施

茅ヶ崎市の中央部分を「田村通り大山道」が東西に横切っています。
これを令和3 年から3回に分けて訪ねました。今回はその最終回で、さらに西に進むと寒川町になります。小雨の予報も出ていましたが、高曇りの一日で、全コースを無事に回ることができました。

円蔵地区と西久保地区
大山道は、その南側に江戸時代の円蔵村・西久保村が東西に並び、北側は香川村です。昔は江戸から大山に登る大勢の人たちが歩いた道です。
明治時代までは大山山頂への登拝は男性のみで、旧暦の6月27日から7月17日までのお盆を挟んで開かれていました。この期間は特に多くの「お導者」(参拝者)が大山を目指しました。今も、現行暦の7月27日に阿夫利神社境内で山開きが行われています。
その後、大山参りにこの道を使うことは少なくなりました。自動車の時代になっても道幅は変わらず、最近は東海道(国道一号)のバイパスが平行してできて景観が変わりました。
今回私たちは大山道を歩くことは止めて、円蔵・西久保地区に残る大山信仰の遺跡を訪ねました。

①円蔵地区の鎮守 神明大神(しんめいおおかみ) 円蔵2282
円蔵地区の鎮守です。

向拝の彫刻は、アマテラスオオミカミの岩戸開きの場面です。アメノウズメもタヂカラオノカミもトコヨノナガナキドリも、サルダヒコまでも登場しています。

  
『新編相模国風土記稿』(『風土記稿』と表記)円蔵村の項に、神社は「懐島権守居跡にあり」、「広さ七千坪、今なお堀の跡や馬場の跡があり、また岩見屋敷、近藤屋敷と呼ばれるところは懐島権守景能(ふところじまごんのかみかげよし)の御家人たちの住んだ跡と伝わる」、景能は「鎌倉の若宮大路に住んでいたが、疑いをこうむり、支配地であるこの地に蟄居し、疑いが晴れてもここに住み、卒年は承元4年(1210)、この地で亡くなったか」と記されています。

景能と鎮西八郎為朝の騎馬合戦
景能は右膝に矢傷を負っていました。『吾妻鏡』の建久2年(1191)8月1日の条に、その傷を受けたときの様子が記されています。

頼朝が鎌倉に入り、新造の大倉幕府の建物が完成し、この日は雨のために、景能は仲間と酒を飲みながら次の様な昔の話をした。
保元の乱で、自分は敵の鎮西八郎源為朝と向かい合った。お互い、馬に乗り弓を構えた。その時、自分は考えた。弓では為朝にはかなわない。しかし自分は東国武者だ。馬術では勝っている。為朝の馬手(めて=右手、つまり右側)に回ろうと。
そうしたら為朝は弓手(ゆんで=左手、つまり左側)に構えていた弓を、乗っている馬の頭を越して右側から矢を撃たざるを得なくなった。為朝が左側から射たなら自分は殺られたはずだ。この一瞬の判断で、矢は自分の右膝を貫いただ けだった。一同に言っておきたい。「勇士は騎馬に達すべき事なり」と。
加藤会員が主役の懐島景能となり、平野会員が為朝となって、景能の館跡と言われる神明大神の境内で、この一幕を再現してみたのです。山本会員は為朝が乗る馬の頭の役をしました。

②山王社 円蔵2228

境内に安永5年(1776)銘の双体道祖神と茅ヶ崎郷土会発足時からの大先輩、鶴田栄太郎氏の句碑があります。句は昭和27(1952)に行われた大山古道吟行の折に、別の場所で読まれたのですが、作者が円蔵の人であることと、こちらにも双体道祖神があることから、昭和54(1979)に郷土会によって建てられたものです。
また、大山講で阿夫利神社などから受けてきた御札が箱に収めて建ててありましたので写真を掲げておきます。昔、夏山期間中にここに大山灯篭が建てられていました。

③天慶山地蔵院輪光寺 円蔵2238

ご本尊は木造の地蔵菩薩です。
茅ヶ崎を通る田村通り大山道には、円蔵・赤羽根境の鷺茶屋と、西久保・大曲境の間門(まかど)に茶屋があって、大山導者相手に商売をしていました。輪光寺のご本尊は鷺茶屋で出開帳したという話があります。
本堂でおまいりさせて頂きました。ご住職が制作された不動明王も祭ってありました。
また、本堂入口の扁額は、世界的に有名は書家、井上有一の筆跡から作られています。

書家 井上有一の筆跡の扁額

寛永17年(1640)銘の庚申塔と飯田九一の河童徳利の句碑

市内に約100基ほどある庚申塔で一番古い年号を持っています。また三猿を半肉彫りした同種の塔では日本でおそらく最古に位置するもので、昭和44年に市の重要文化財に指定されています。
石材も良質で、彫りもていねいですが、「相州宅良郡…」の行中の文字に疑念があります。
江戸時代には西久保村に伝わっていたかっぱ徳利が、静岡県に移されていて昭和42年に戻って来たことを記念して作られました。しかし、その後再び移されてしまいました。
「うたかたを 川の精霊(すだま)に おそまつり」 九一題

④了覚庵(りょうがくあん)跡  円蔵2178

了覚庵跡には、昔、庵として使われていた建物と、江戸時代の円蔵村の領主 大田氏の墓碑のほか、おそらく庵主たちのものと思われる墓碑、句碑などが残っています。 大田氏は代々松平家に仕え、吉正は天正18年(1590)、徳川家康の小田原の役に従い、翌19年5月3日、円蔵村の内に200石の地を宛がわれました。
吉正は寛永15年(1638)に亡くなり、三河国碧海郡(へきかいぐん)佐々木村の上宮寺に葬られました。

了覚庵跡に大田氏の墓碑は二基あり、向かって右の石塔には「大田善太夫吉次之墓」とあります。吉次(よしつぐ)は5代目で、『寛政重修諸家譜』に「延宝8年(1680)10月15日死す。年68。法名別道。相模國高座郡圓藏村に葬る」と記されています。『風土記稿』の円蔵村の項に「了覚庵、地頭大田善太夫吉次の菩提の為に建つ。吉次は諡(おくりな)を了覚院という。庵の側に墓碑あり。」と記されています。
吉次の墓碑に向かって左側の墓碑には、「元和5己未(1619)3月28日」、「法性院殿釋義空了禅居士 正定聚位」とありますが、『寛政譜』にはこれに相当する人物がなく、『風土記稿』にも記述がありません。この墓碑が誰のものなのかは今後の課題です。

了學法師の句碑と了察行者の参拝碑

「鴫たつや はや須磨寺の夕念仏」の作者は「法師了學」、碑の裏に「弘化4年(1847)4月5日寂 往年74歳」とあります。
了学法師がどのような人物だったかは分かっていません。わずかな資料ですが、塩原富男著『茅ヶ崎の記念碑』61頁に故山口金次の資料を引いて、次の様にあるのみです。
「了学法師、伊勢國産当所阿弥陀堂にて寂す、通名瓦石と言う、当寺にて引導、現住明恵代」
「当寺」とは、現在、了覚庵を管理している輪光寺のことです。
見事な文字で立派な碑ですが、句の意味も分かりません。

右の写真は、浅草観音と大山不動尊に33度お参りした行者了察が、満願記念のために寛政7年(1795)に立てたものです。
この碑が昔からここにあったとすれば、了察はこの了覚庵に住んでいたのかも知れません。

了覚庵と道路を挟んで共同墓地があり、円蔵村のもう一人の領主だった横山氏の墓碑が並んでいます。

⑤西久保地区の北向き地蔵 西久保572

旧道から分かれて宝生寺に向かうところにあり、北を向いているので「北向き地蔵」と呼ばれています。
竿石の右側面に「文久2(1862)戌年11月21日再建」とあります。
正面には、地蔵に向かって右に進むと萩園の子の権現(日蓮宗常顕寺内)へ、北に進むと一之宮(寒川町)へ、左へ進むと南湖へと彫ってあります。
左面には「相州高座郡西久保村念仏講中」とあり、基礎には村人22人の名前があります。

宝生寺にある初代の北向き地蔵

初代北向き地蔵の竿石
初代北向き地蔵

北向き地蔵の前を進むとすぐに宝生寺です。
境内に、再建前の地蔵の竿石だったと思われる石柱があります。
正面に「右 子之権現道」「左 南湖道」と、右側面に「宝暦7丁丑歳(1757)11月11日 地蔵講中」とあります。
今ある北向き地蔵より107年前に作られていますが、その時建立したのは「地蔵講中」でした。
また、寺の山門の外に初代北向き地蔵の塔身と思われる坐像があります。
この像には銘はありません。
 

道の辻に立つ3基の石仏

北向き地蔵のそばは三叉路になっていて、3基の石仏があります。
右端から(1)相対道祖神、(2)六臂の青面金剛像の庚申塔、(3)道祖神の文字塔です。(1)は安永(1772~81)年間、江戸中期の双体像で、この頃から文字塔に変わっていきます。 (2)は「万延元年(1860)庚申九月」「此方南湖道」とあり、庚申の年に道標を兼ねて建てられています。 (3)は明治33年(1899)銘の文字塔です。
この3基は、時代による石仏の形態の変化をよく表しています。

⑥真言宗 懐島山宝生寺 西久保546

茅ヶ崎市で唯一の国指定重要文化財があるお寺。
銅造阿弥陀三尊像

長野県の善光寺の本尊を模したと伝えられている善光寺式阿弥陀三尊のお姿。
善光寺式が、一般の阿弥陀三尊像と違っている部分を白い線で囲んでみました。(1)中尊の左手の印相、 (2)両脇侍の冠、 (3)両脇侍の印相。
『茅ヶ崎市史』3の223頁には鎌倉時代末期の13世紀末ころの制作としています。
昭和34年に国の重要文化財に指定されています。

左の画像は阿弥陀三尊像が納められている収蔵庫。
当日は、この収蔵庫を開いていただき、直前から拝むことができました。

右は、収蔵庫の扉の前で、阿弥陀三尊像が善光寺にもたらされた道中を描いた軸を、加藤会員が説明している様子です。

⑦西久保地区の鎮守 日吉神社 西久保466

狛犬は昭和16年に奉納されています。太平洋戦争が始まった年です。
この頃、各地の神社に狛犬が奉納されますが、この姿のように勇ましい形が多く見られます。

道の画像は、神社の近くの三叉路にある石仏です。
一番右は、「右大〇〇…」と2文字だけ読むことができます。
「右大山道」とあったものでしょう。この神社のすぐ北側を大山道が通っています。道沿いにあったものをこちらに移したものです。
傷みがありますが、元の形ではこの上に不動明王の坐像が乗っていたと思われます。大山道沿いに見られる形ですが、茅ヶ崎では唯一の大山道標です。

中央は、「寛政6年(1794)」銘の文字塔の道祖神です。右側面にひげ題目があり、日蓮宗の人たちが建てたもののようです。
左は、「延宝8年(1680)」銘の古い形式の庚申塔です。

⑧河童徳利ひろば 西久保1649-1

寒川町との境にある河童徳利ひろばの看板。
小出川に架かる大曲橋(間門橋)のたもとにある。
川は画像の右から左へと流れている。
自動車が通っている道路は拡幅された大山道。
向こうが西で、大山に向かう。
ひろばには河童徳利の伝説の説明板があった。

カッパ徳利のはなしは、カッパから貰った酌めども尽きない徳利で酒浸りになった五郎兵衛が、ある日、反省して立ち直るという教訓譚になっていますが、これは昭和の初めに、鶴嶺小学校が作った紙芝居による筋書きです。

天保2年(1831)の『宝暦現来集』に、元になっている話があり、それは、五郎左衛門が、助けたカッパから酒の尽きない徳利を貰ったというカッパ報恩譚です。
その徳利が「カッパ徳利」と呼ばれて、かつて地元の間門(まかど)に伝えられていました。
間門には大山参りの導者相手の茶屋もありましたので、徳利を見せてよろこばれていたものと思われます。

カッパ徳利の絵

新しく作られたカッパ徳利もあるが、伝えられてきた方のカッパ徳利。
カッパがくれた酒の肴と徳利

通算305回 茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりは、「河童徳利ひろば」までとし、バスで茅ヶ崎駅に帰りました。

・305回で使った説明テキストはここをクリックすると見ることができます。
・ご感想、ご意見など 下のコメント欄でお送りいただけると今後の参考にさせていただきます。

・photo maeda hirano
・report hirano

今までの史跡・文化財めぐり一覧
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第308回 茅ヶ崎市内の東海道を歩く① -小和田から菱沼- 2024(R6).3.9(土)実施

最初の見学地 明治天皇御小休所跡

茅ヶ崎を東西に横断する国道一号は、江戸時代の東海道をほぼそのままにたどっています。この道を、藤沢境の小和田地区(江戸時代には小和田村)から西に向かって、数回に分けてたどることにしました。
今回はその一回目です。小春日和の半日、楽しく無事に終えることができました。

それぞれの訪問地の詳しい説明は、この訪問記と一緒に、このHPにアップした文化財めぐりテキストに記しておきました。
こちらをクリックしてご覧下さい。

①明治天皇御小休所跡 小和田3-11-33地先

 記念碑が国道一号沿いの東小和田の一画に建てられています。

慶応4年(1868)7月、江戸が東京と改称され、9月には明治と改元され、10月に江戸城が皇居に決まりました。
この間、明治天皇は京都と東京を往復しました。9月に20日に京を立ち、東京に10月13日に着き、復路は12月22日に京都に帰着。

茅ヶ崎を通ったのは往路が10月10日、復路は12月9日(御小休所碑の銘による)、往路の一行の総勢は5,6千人と藤間柳庵(江戸時代の文化人)は「太平年表録」に記しています(『茅ヶ崎市史』2-57頁)。

石碑には、新倉家の5代の名前があり、新倉家が篤志家とはかり建碑するとあります。建碑は昭和36年(1961)、協賛者の中に茅ヶ崎郷土会が名前を連ねています。

この場所は、その新倉家の畑だったと伝えられています。

 

②小和田本宿町で祭る道祖神(陽形双体道祖神) 小和田三丁目

西に進み、交差点を北に折れると何本かの小さな道路がゴチャゴチャと交わるところにこの道祖神(サイノカミ)立っています。
双体像の向かって右側に「昭和36年(1961)正月14日」、左側に「小和田本宿郷」と彫ってあります。
右横の写真は昭和52年(1977)に本会の町田会員が撮影したもので、付近が開発される前の様子です。

神奈川県は道祖神信仰が盛んだった地域で、市内には約100基の道祖神塔があります。その中で、この塔のような形はありません。他地方の形をモデルにしたものです。
茅ヶ崎郷土会発足(昭和28年:1953)の中心人物だった斎藤昌三さんは性神の研究家でもあったので、その指導があったのかもしれません。

〇移動の間にチョイと寄り道 茅ヶ崎市内の稲荷講

この日の下見を2月12日に行いました。
その日は稲荷様を祭る稲荷講の日で、②道祖神から③上正寺に向かう途中の旧家で屋敷稲荷様のお祭りを行っていました。祠が開かれていて昔ながらの供え物がしてあったので見せて貰いました。
小豆を入れて炊いた白米を藁ツトで包んだ「ツトッコ」や油揚げが供えてありました。
ツトッコを頂き、たいへんおいしかったです。

③浄土真宗 龍澤山龍徳院上正寺 小和田二丁目12-73 

寺に伝わる「上正寺略縁起」(茅ヶ崎市史1-607頁)に次のように記されています。
推古天皇(在位-593~628年)のとき、聖徳太子がこの地で自刻の像を残した。
その後、村上天皇(在位-946~967年)の皇子、尊勝法親王のお告げで高座郡寺尾郷に広大な堂舎が建立され、親王は法主となった。
後寿永・文治のころ(1182~1190年)寺が兵火によって炎上したので小和田に移転した。しかし次第に衰退した。
嘉禄年中(1225~1227年)に、道円(了智坊、佐々木高綱)が宗旨を浄土真宗に、寺号を無上正覚寺に変えた。(寺では道円を開山としています。)二世智円を経て、三世覚如上人のとき寺名をさらに上正寺に変えた。

上正寺には太子自刻の像と伝えられる木造の聖徳太子立像(市指定重要文化財に指定)が祭られています。

また、上野の寛永寺にあった徳川将軍歴代墓地に、各藩主たちが奉納し、戦後、寛永寺から寺に移設された石灯籠も一基あり、市の重要文化財に指定されています。

境内墓地にる旗本(杉浦家・丸毛家)の墓石

小和田村の江戸時代の領主は、元和6年(1620)頃に杉浦正友が、寛永2年(1625)に杉浦親勝が命ぜられ、宝暦12年(1662)に幕府領に変わりました(茅ヶ崎市史5-583頁)。

杉浦正友の名を残す墓石と、茅ヶ崎村の領主で、上正寺の檀家だった丸毛利雄の墓石が境内の住職の墓域の中にあります。丸毛家の領地茅ヶ崎村も宝暦12年に幕府領に変わっています。

 
 

左が茅ヶ崎村領主の丸毛利雄の、右が小和田村領主の杉浦氏三人の墓石。
杉浦氏の中央の「龍徳院殿」は小和田村初代領主の正友の院号で、上正寺の院号になっています。

④真言宗 天応山神保寺千手院 代官町一丁目4

ご本尊は千手観音。境内に、江戸時代に作られたたくさんの石仏が置いてあります。その中で、回国供養に関して立てられた2基と、木食僧「観正」に関係する1基を紹介します。
なお、当日は本堂でご住職のお話を伺いました。

千手院
六十六部供養塔(享保20年1735銘)

画像右側の六十六部供養塔には「享保20年(1735)」の銘があります。
摂津国は現在の大阪府と兵庫県にまたがっていました。
願主の念譽妙心が摂津の大坂を振り出しに、全国六十六か国をまわって法華経を供養する途中、当地にも訪れたときに作られたものです。念譽妙心のような民間宗教者を「六部(ろくぶ)」とも呼びます。
石塔一基を立てるには少なくない経費が必要です。この石塔建立に地元の協力があったことと思われます。おそらく千手院を会場として念譽妙心は何らかの宗教行事を行い、近在の人びとが出資したのではないでしょうか。

宝篋印塔(元文2年:1737銘)
木食観正の名がある供養塔(文政2年:1819銘)

宝篋印塔は典型的な江戸時代の様式です。
塔身の四方の東面に不空成就如来、南面に阿閦如来、西面に宝生如来、北免に阿弥陀如来の種子がありますが、本来の形から90度左回りにずれています。いつの日か積み替えたときに変わったのでしょう。

基礎の
東面に「奉御経神社仏閣/西國坂東秩父[ ]」、
南面に「大願成就者[ ]/西国八十八ヶ所[ ]」、
西面に「奉納大乗妙典/回國山田栄玄」および「寶函印陀羅尼塔」の銘と宝篋印陀羅尼経の一部・「高座郡小和田邑/天應山千手院現住智明」、
北面に「日本六十六部一國三部」および元文2(1737)の年銘、「奉供養寶塔木食無□」、「武州/江戸」とあり13人の名が彫ってあります。
この塔の建立には木食僧が関わっています。一字読めませんがその名は「無□」、江戸の人物と思われます。「木食」とは修行として菜食を続けることです。
各部分に大勢の人名があります。建立時の千手院の住職は「智明」、その他は江戸講中の者と地元の人びとです。

この塔の特徴は、①百番観音霊場、西国八十八ヵ所、六十六ヵ所霊場巡拝が合わさっていること、②北面に名のある「木食無□」が巡拝の中心人物と思われること、③「無□」の講中は江戸の講中で、江戸から巡拝を始めているらしい事です。引用文献は 資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏』3の276頁です。

画像右側の 木食観正の名のある南無大師遍照金剛塔には、その裏面に ①年銘「文政2年(1819)6月吉日」、②江戸講中13人の名前および「小和田村/上郷・下郷」、菱沼村(1名)、大庭村(4名)と世話人(8人)が彫られています。
この塔の建立にも「観正」という名の木食僧が関与しています。
年銘の文政2年は建塔の日でしょうから、その前に、観正が江戸講中と計って千手院を会場に近在の人びと向けに催しを行ない、その記念に建てた塔と思われます。市内にある観正の碑はこれのみですが、別の木食僧「徳本」の碑が市内各所に4基あります。

準四国八十八ヶ所 第24番札所の弘法大師像



相模国準四国八十八ヶ所 第24番札所の石造弘法大師坐像
この八十八ヵ所霊場は、文政年間に、鵠沼村の浅場太郎右衛門が四国霊場を模して作ったもので、藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町・横浜市・鎌倉市域に展開しています。
千手院はその24番札所で、四国札所の24番最御崎寺(ほつみさきじ =東寺 高知県室戸市)になぞらえてあります。
四国札所にはそれぞれに御詠歌がありますが、当地の札所にも御詠歌がつくられています。
千手院「遠近の人の小和田につどえへるもほとけのみ手にまねかれてこそ」
最御崎寺「明星の出ぬる方の東寺暗き迷いはなどかあらまし」

弘法座の右側面に
「文政四年(1821)巳正月吉日/(9人の名前)」左側面に「(世話人4人の名前)/元祖 鵠沼村 境川大/ 土州 東寺/二十四番」とあります。

木造十王立像
以前は境内の焔魔堂に祭ってありましたが、今は本堂にあります。
『茅ヶ崎市史』3(考古民俗編)249頁に次のように記されています。 
「閻魔十王といえば坐像が多いなかにあって、この一具の像はすべて立像である点は珍しい。近年彩色を改めてしまったために、まったく新造のようになってしまっているが江戸時代末期の作と思われる。奪衣婆像も同様である。これらのうちには、たいへん近代的な顔立ちのものもある。」

⑤真言宗 山王山観音院廣徳寺 代官町一丁目4

『ふるさとの歴史散歩』70頁に次の様に記されています。
「山王山観音院と号し、高野山真言宗。開山を慶海といい、元和五年(1619)の草創と伝える。本尊は千手観音。境内に伊勢参りの講中が造立したという六地蔵(弘化3年1846)などがある。
明治6~11年(1873~78)の間に行われた大区・小区制のとき、市域が含まれた第18大区の区務所がここに置かれた。」

廣徳寺も相模国準四国八十八ヶ所に組まれていて、弘法大師像が祭ってあります。また、江戸時代に作られた六地蔵があります。

第8番札所となっている弘法大師の像
江戸時代、伊勢講のお伊勢参りの残金で建てた六地蔵

文政年間に鵠沼村の浅場太郎右衛門親子が作った準四国八十八ヶ所の8番札所になっています。弘法大師石像の弘法座には沓と水飲み(実は水瓶)の絵、銘は「四国八拾八所之内八番阿州国熊谷寺写/文政三(1820)庚辰秋九月/施主 檀中/當寺一代宥□造立之」とあり、石像が作られた年が分かります。
御詠歌は「たがはずに親のおしへをまもる子のゆくすゑひろきのりの庭かな」。
元になっている熊谷寺(くまだにじ)は徳島県阿波市土成町にあり、四国霊場の8番札所です。
御詠歌は「薪とり水くむ谷の寺に来て難行するも後の世のため」

六地蔵
六体揃っていますが、石質が違うものもあり、寄せられているようです。
弘化3年(1846)の銘が地蔵が立っている竿石に彫ってあります。竿石も他の竿石が混じっている可能性があります。
しかし、市内の六地蔵の多くは、神仏分離のときに首が折られていますが、こちらは傷みが少ないようです。
幕末に村の伊勢講で伊勢参りをして、その余ったお金で建てたという話が伝えられています。

⑥熊野神社 小和田二丁目3-66

境内の「姥神社」に祭られている姥神(うばがみ)様と、本殿横に集めてある石仏が見所です。

市内では三ヶ所に姥神が祭られています。また、昔は姥神だったが今は厄一皇子社という小さな神社に変わったところもあります。
三ヶ所の姥神はいずれも石造の坐像、その中の芹沢のものは「寛文〇〇」(1661~1673)の、石仏としては古い年号銘を持っています。3基とも、子どもが風邪をひいたとき、お茶を供えて平癒を祈ったそうです。
熊野神社の姥神は丸彫りでなく、石祠の奥の壁に半肉彫りです。年号銘はありません。
以前は小字の長町という所にありましたが、こちらに移されました。明治のころのことでしょう。
茅ヶ崎の沖に姥島という岩礁があり、そこから移されたという話もありますが、これは「姥島」・「姥神」の両者が似た名前であることから生じた伝説です。
姥神は市外他の土地にも祭られています。そして謎の多い民間信仰です。

姥島に関係する石碑を二例紹介します。
姥島神社・八雲神社・八大龍王」と書かれた碑があります。碑の裏に明治22年(1889)とあり、この石碑を建てた年、つまり他所にあったものをここにまとめた年と思われます。八雲神社と八大龍王は元の地が分かっていますが、姥島神社は不明です。姥神を姥島から移設したという伝説は信じている人が多いように、それと同類の、伝説上の神社ではないでしょうか。

姥島の歌碑 この歌碑は文政13年(1830)の文献に、村内の尾根明神にあったと記されています。尾根明神が無くなった時にここに移されたようです。「小和田が浦の姥島…」とあるところから、姥島は伊豆のものという言いがかりを打ち破ることができたという伝説がついています。
大和市福田の蓮慶寺に、同市指定文化財の「木造優婆尊尼坐像」という像があり、「相模なる福田ヶ原の山姥は いつにいつまで夫(つま)や待つらむ」という歌が付随していることを、茅ヶ崎郷土会の先輩、樋田豊広さんが報告しています(『郷土ちがさき』23号)。茅ヶ崎の姥神の伝説が大和市へつながっているのです。
姥島をめぐって伊豆の漁師と持ち分争いをしたという話は、歌の文句を元にしてできた伝説です。

藤間柳庵の筆になる二つの石碑

市内柳島村に、幕末から明治にかけて活躍した藤間柳庵(とうまりゅうあん)という人がいました。回船業を営む村の名主で、時の記録を書き残し、書にも長けていました。その柳庵の筆跡になる、「御嶽山」と「富士・大山」の信仰に関わる碑です。

左が御嶽山の、右が富士・大山の碑です。
両方とも碑の裏に「万延元年(1860)庚申秋」とあります。
境内には、長野県の御嶽山信仰につながる碑が2基、明治12年(1879)と大正14(1925)があり、かつて当地は御嶽山詣りの講中の活動が盛んだったことを表しています。
右は富士信仰と大山信仰(不動・石尊)の碑です。昔は村ごとに大山講があって夏山登拝を行っていました。片詣りを忌んで、大山と富士の両方を詣るものとされていました。

新田 信(にったのぶ)の句碑

境内にはほかにたくさんの石仏、石碑がありますが、最後に2基の句碑を紹介します。
句の作者は新田 信。大正末期から昭和初期にかけて茅ヶ崎町の町長として町政の刷新に努めたことで知られています。俳句をたしなみました。

左の句碑の表面には「道祖神」と彫ってあります。新宿(あらじゅく)チョウナイで祭る道祖神の裏面が句碑になっているのです。「濤哉(とうさい)」は俳号です。

右の句碑の裏面には「昭和三〇年二月六日建」とあります。
姥島には、高くせり上がって「ジンジ」と呼ばる岩と、その横に背が低く、丸まった「バンバ」と呼ばれる岩があります。ジンジは今では烏帽子岩と呼ぶ人が多いのですが、この句では「尉(じょう)」と表現されています。バンバ(婆)からの連想でしょう。
先に紹介した歌碑「小和田の浦の宇婆嶋は誰を待つやら…」はバンバを表したものです。

濤哉(新田)はこの碑ができた4年後になくなりました。

移動の途中でチョイと寄り道

熊野神社から国道に沿って西に進みました。
その途中、国道の北側に、道路より高く砂が積もっている所がありました。東海道は、特に市内の東側では砂丘の上を通っています。道路より高いということは砂丘の頂上が残っているということです。他のところは、これを削って住宅が建っているので、砂丘であることが分かりにくくなっています。

また、その先の東海道の北側に、レトロな交番がありましたので、写真を載せておきます。

顔を出している砂丘 道路の北側 西を向いて撮影
レトロな交番 道路の北側 東を向いて撮影

⑦⑧牡丹餅立場と七里役所跡

東海道の茅ヶ崎部分、藤沢宿から平塚宿までは藤沢宿の領分でした。二つの宿場の間に当たるので「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれて、東海道を通る旅人相手に、四ツ谷立場(藤沢市内、田村通り大山道の分岐点)・牡丹餅立場(ぼたもちたてば)・南湖立場・八幡立場(平塚市内)が開かれていました。

立場(たてば)は、荷物の取り次ぎをせず、原則、旅人の宿泊には応ぜず、旅人らが休憩する茶屋が開かれていました。牡丹餅立場は菱沼村分にあり、ぼたもちを売っていたと伝えられていて、「牡丹餅茶屋」とも呼ばれていました。

茶屋の近くに、紀州藩が自藩のために設けた「七里役所」がありました。
江戸から自藩まで、東海道の七里毎に役所を設け、役人を置き、往復する紀州藩の用人の世話と情報の取り次ぎをしていました。

牡丹餅立場も七里役所も、今は現地に残されたものはなく、説明板が建てられているだけです。

ぼたもち茶屋の説明板

説明板にも掲げてある「東海道分間絵図」の同じ部分を載せておきます。

⑨郷境道(ごうざかいみち)

最後の見学地に着きました。
市内の東海道を小和田~菱沼とたどってきました。その先は江戸期の茅ヶ崎村本村(ほんそん)へと続きます。菱沼村と茅ヶ崎村との境は、海岸まで通じている一本の直線道路となっていて、郷境(ごうざかい)と呼ばれています。
江戸時代初期に、姥島近くの漁場をめぐって茅ヶ崎村と小和田村が争いました。寛文4年(1664)、幕府の裁定が行われ、手白塚から「祖母嶋(姥島)の中央にある大石(烏帽子岩)を見通し」、図面上に引いた線を「境目たるべし…」としました。この「線」を現地で「道」としました。そのために直線道路になっていて、先を見通すと烏帽子岩がそびえています。
郷境道は、本村二丁目にあるTOYO茅ヶ崎工場の東側から、東海道本線を越えて海岸まで続く道路として今も使われています。

おわりに

茅ヶ崎郷土会の第308回史跡・文化財めぐりは現地で解散して無事に終了しました。
今回の参加者の記念写真。

当日配布した説明資料集はこちらから見ることができます。
なお、下のコメント欄にご感想をいただけるとありがたく、今後の参考にさせていただきます。

◎ report hirano
◎ photo maedaおよび hirano

今までおこなった史跡・文化財めぐり一覧
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