第305回 史跡・文化財めぐり 茅ヶ崎市内の大山道を歩く③ 令和5年(2023)7月8日(土)実施

茅ヶ崎市の中央部分を「田村通り大山道」が東西に横切っています。
これを令和3 年から3回に分けて訪ねました。今回はその最終回で、さらに西に進むと寒川町になります。小雨の予報も出ていましたが、高曇りの一日で、全コースを無事に回ることができました。

円蔵地区と西久保地区
大山道は、その南側に江戸時代の円蔵村・西久保村が東西に並び、北側は香川村です。昔は江戸から大山に登る大勢の人たちが歩いた道です。
明治時代までは大山山頂への登拝は男性のみで、旧暦の6月27日から7月17日までのお盆を挟んで開かれていました。この期間は特に多くの「お導者」(参拝者)が大山を目指しました。今も、現行暦の7月27日に阿夫利神社境内で山開きが行われています。
その後、大山参りにこの道を使うことは少なくなりました。自動車の時代になっても道幅は変わらず、最近は東海道(国道一号)のバイパスが平行してできて景観が変わりました。
今回私たちは大山道を歩くことは止めて、円蔵・西久保地区に残る大山信仰の遺跡を訪ねました。

①円蔵地区の鎮守 神明大神(しんめいおおかみ) 円蔵2282
円蔵地区の鎮守です。

向拝の彫刻は、アマテラスオオミカミの岩戸開きの場面です。アメノウズメもタヂカラオノカミもトコヨノナガナキドリも、サルダヒコまでも登場しています。

  
『新編相模国風土記稿』(『風土記稿』と表記)円蔵村の項に、神社は「懐島権守居跡にあり」、「広さ七千坪、今なお堀の跡や馬場の跡があり、また岩見屋敷、近藤屋敷と呼ばれるところは懐島権守景能(ふところじまごんのかみかげよし)の御家人たちの住んだ跡と伝わる」、景能は「鎌倉の若宮大路に住んでいたが、疑いをこうむり、支配地であるこの地に蟄居し、疑いが晴れてもここに住み、卒年は承元4年(1210)、この地で亡くなったか」と記されています。

景能と鎮西八郎為朝の騎馬合戦
景能は右膝に矢傷を負っていました。『吾妻鏡』の建久2年(1191)8月1日の条に、その傷を受けたときの様子が記されています。

頼朝が鎌倉に入り、新造の大倉幕府の建物が完成し、この日は雨のために、景能は仲間と酒を飲みながら次の様な昔の話をした。
保元の乱で、自分は敵の鎮西八郎源為朝と向かい合った。お互い、馬に乗り弓を構えた。その時、自分は考えた。弓では為朝にはかなわない。しかし自分は東国武者だ。馬術では勝っている。為朝の馬手(めて=右手、つまり右側)に回ろうと。
そうしたら為朝は弓手(ゆんで=左手、つまり左側)に構えていた弓を、乗っている馬の頭を越して右側から矢を撃たざるを得なくなった。為朝が左側から射たなら自分は殺られたはずだ。この一瞬の判断で、矢は自分の右膝を貫いただ けだった。一同に言っておきたい。「勇士は騎馬に達すべき事なり」と。
加藤会員が主役の懐島景能となり、平野会員が為朝となって、景能の館跡と言われる神明大神の境内で、この一幕を再現してみたのです。山本会員は為朝が乗る馬の頭の役をしました。

②山王社 円蔵2228

境内に安永5年(1776)銘の双体道祖神と茅ヶ崎郷土会発足時からの大先輩、鶴田栄太郎氏の句碑があります。句は昭和27(1952)に行われた大山古道吟行の折に、別の場所で読まれたのですが、作者が円蔵の人であることと、こちらにも双体道祖神があることから、昭和54(1979)に郷土会によって建てられたものです。
また、大山講で阿夫利神社などから受けてきた御札が箱に収めて建ててありましたので写真を掲げておきます。昔、夏山期間中にここに大山灯篭が建てられていました。

③天慶山地蔵院輪光寺 円蔵2238

ご本尊は木造の地蔵菩薩です。
茅ヶ崎を通る田村通り大山道には、円蔵・赤羽根境の鷺茶屋と、西久保・大曲境の間門(まかど)に茶屋があって、大山導者相手に商売をしていました。輪光寺のご本尊は鷺茶屋で出開帳したという話があります。
本堂でおまいりさせて頂きました。ご住職が制作された不動明王も祭ってありました。
また、本堂入口の扁額は、世界的に有名は書家、井上有一の筆跡から作られています。

書家 井上有一の筆跡の扁額

寛永17年(1640)銘の庚申塔と飯田九一の河童徳利の句碑

市内に約100基ほどある庚申塔で一番古い年号を持っています。また三猿を半肉彫りした同種の塔では日本でおそらく最古に位置するもので、昭和44年に市の重要文化財に指定されています。
石材も良質で、彫りもていねいですが、「相州宅良郡…」の行中の文字に疑念があります。
江戸時代には西久保村に伝わっていたかっぱ徳利が、静岡県に移されていて昭和42年に戻って来たことを記念して作られました。しかし、その後再び移されてしまいました。
「うたかたを 川の精霊(すだま)に おそまつり」 九一題

④了覚庵(りょうがくあん)跡  円蔵2178

了覚庵跡には、昔、庵として使われていた建物と、江戸時代の円蔵村の領主 大田氏の墓碑のほか、おそらく庵主たちのものと思われる墓碑、句碑などが残っています。 大田氏は代々松平家に仕え、吉正は天正18年(1590)、徳川家康の小田原の役に従い、翌19年5月3日、円蔵村の内に200石の地を宛がわれました。
吉正は寛永15年(1638)に亡くなり、三河国碧海郡(へきかいぐん)佐々木村の上宮寺に葬られました。

了覚庵跡に大田氏の墓碑は二基あり、向かって右の石塔には「大田善太夫吉次之墓」とあります。吉次(よしつぐ)は5代目で、『寛政重修諸家譜』に「延宝8年(1680)10月15日死す。年68。法名別道。相模國高座郡圓藏村に葬る」と記されています。『風土記稿』の円蔵村の項に「了覚庵、地頭大田善太夫吉次の菩提の為に建つ。吉次は諡(おくりな)を了覚院という。庵の側に墓碑あり。」と記されています。
吉次の墓碑に向かって左側の墓碑には、「元和5己未(1619)3月28日」、「法性院殿釋義空了禅居士 正定聚位」とありますが、『寛政譜』にはこれに相当する人物がなく、『風土記稿』にも記述がありません。この墓碑が誰のものなのかは今後の課題です。

了學法師の句碑と了察行者の参拝碑

「鴫たつや はや須磨寺の夕念仏」の作者は「法師了學」、碑の裏に「弘化4年(1847)4月5日寂 往年74歳」とあります。
了学法師がどのような人物だったかは分かっていません。わずかな資料ですが、塩原富男著『茅ヶ崎の記念碑』61頁に故山口金次の資料を引いて、次の様にあるのみです。
「了学法師、伊勢國産当所阿弥陀堂にて寂す、通名瓦石と言う、当寺にて引導、現住明恵代」
「当寺」とは、現在、了覚庵を管理している輪光寺のことです。
見事な文字で立派な碑ですが、句の意味も分かりません。

右の写真は、浅草観音と大山不動尊に33度お参りした行者了察が、満願記念のために寛政7年(1795)に立てたものです。
この碑が昔からここにあったとすれば、了察はこの了覚庵に住んでいたのかも知れません。

了覚庵と道路を挟んで共同墓地があり、円蔵村のもう一人の領主だった横山氏の墓碑が並んでいます。

⑤西久保地区の北向き地蔵 西久保572

旧道から分かれて宝生寺に向かうところにあり、北を向いているので「北向き地蔵」と呼ばれています。
竿石の右側面に「文久2(1862)戌年11月21日再建」とあります。
正面には、地蔵に向かって右に進むと萩園の子の権現(日蓮宗常顕寺内)へ、北に進むと一之宮(寒川町)へ、左へ進むと南湖へと彫ってあります。
左面には「相州高座郡西久保村念仏講中」とあり、基礎には村人22人の名前があります。

宝生寺にある初代の北向き地蔵

初代北向き地蔵の竿石
初代北向き地蔵

北向き地蔵の前を進むとすぐに宝生寺です。
境内に、再建前の地蔵の竿石だったと思われる石柱があります。
正面に「右 子之権現道」「左 南湖道」と、右側面に「宝暦7丁丑歳(1757)11月11日 地蔵講中」とあります。
今ある北向き地蔵より107年前に作られていますが、その時建立したのは「地蔵講中」でした。
また、寺の山門の外に初代北向き地蔵の塔身と思われる坐像があります。
この像には銘はありません。
 

道の辻に立つ3基の石仏

北向き地蔵のそばは三叉路になっていて、3基の石仏があります。
右端から(1)相対道祖神、(2)六臂の青面金剛像の庚申塔、(3)道祖神の文字塔です。(1)は安永(1772~81)年間、江戸中期の双体像で、この頃から文字塔に変わっていきます。 (2)は「万延元年(1860)庚申九月」「此方南湖道」とあり、庚申の年に道標を兼ねて建てられています。 (3)は明治33年(1899)銘の文字塔です。
この3基は、時代による石仏の形態の変化をよく表しています。

⑥真言宗 懐島山宝生寺 西久保546

茅ヶ崎市で唯一の国指定重要文化財があるお寺。
銅造阿弥陀三尊像

長野県の善光寺の本尊を模したと伝えられている善光寺式阿弥陀三尊のお姿。
善光寺式が、一般の阿弥陀三尊像と違っている部分を白い線で囲んでみました。(1)中尊の左手の印相、 (2)両脇侍の冠、 (3)両脇侍の印相。
『茅ヶ崎市史』3の223頁には鎌倉時代末期の13世紀末ころの制作としています。
昭和34年に国の重要文化財に指定されています。

左の画像は阿弥陀三尊像が納められている収蔵庫。
当日は、この収蔵庫を開いていただき、直前から拝むことができました。

右は、収蔵庫の扉の前で、阿弥陀三尊像が善光寺にもたらされた道中を描いた軸を、加藤会員が説明している様子です。

⑦西久保地区の鎮守 日吉神社 西久保466

狛犬は昭和16年に奉納されています。太平洋戦争が始まった年です。
この頃、各地の神社に狛犬が奉納されますが、この姿のように勇ましい形が多く見られます。

道の画像は、神社の近くの三叉路にある石仏です。
一番右は、「右大〇〇…」と2文字だけ読むことができます。
「右大山道」とあったものでしょう。この神社のすぐ北側を大山道が通っています。道沿いにあったものをこちらに移したものです。
傷みがありますが、元の形ではこの上に不動明王の坐像が乗っていたと思われます。大山道沿いに見られる形ですが、茅ヶ崎では唯一の大山道標です。

中央は、「寛政6年(1794)」銘の文字塔の道祖神です。右側面にひげ題目があり、日蓮宗の人たちが建てたもののようです。
左は、「延宝8年(1680)」銘の古い形式の庚申塔です。

⑧河童徳利ひろば 西久保1649-1

寒川町との境にある河童徳利ひろばの看板。
小出川に架かる大曲橋(間門橋)のたもとにある。
川は画像の右から左へと流れている。
自動車が通っている道路は拡幅された大山道。
向こうが西で、大山に向かう。
ひろばには河童徳利の伝説の説明板があった。

カッパ徳利のはなしは、カッパから貰った酌めども尽きない徳利で酒浸りになった五郎兵衛が、ある日、反省して立ち直るという教訓譚になっていますが、これは昭和の初めに、鶴嶺小学校が作った紙芝居による筋書きです。

天保2年(1831)の『宝暦現来集』に、元になっている話があり、それは、五郎左衛門が、助けたカッパから酒の尽きない徳利を貰ったというカッパ報恩譚です。
その徳利が「カッパ徳利」と呼ばれて、かつて地元の間門(まかど)に伝えられていました。
間門には大山参りの導者相手の茶屋もありましたので、徳利を見せてよろこばれていたものと思われます。

カッパ徳利の絵

新しく作られたカッパ徳利もあるが、伝えられてきた方のカッパ徳利。
カッパがくれた酒の肴と徳利

通算305回 茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりは、「河童徳利ひろば」までとし、バスで茅ヶ崎駅に帰りました。

・305回で使った説明テキストはここをクリックすると見ることができます。
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・photo maeda hirano
・report hirano

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