茅ヶ崎を東西に横断する国道一号は、江戸時代の東海道をほぼそのままにたどっています。この道を、藤沢境の小和田地区(江戸時代には小和田村)から西に向かって、数回に分けてたどることにしました。
今回はその一回目です。小春日和の半日、楽しく無事に終えることができました。
それぞれの訪問地の詳しい説明は、この訪問記と一緒に、このHPにアップした文化財めぐりテキストに記しておきました。
こちらをクリックしてご覧下さい。
①明治天皇御小休所跡 小和田3-11-33地先
記念碑が国道一号沿いの東小和田の一画に建てられています。
慶応4年(1868)7月、江戸が東京と改称され、9月には明治と改元され、10月に江戸城が皇居に決まりました。
この間、明治天皇は京都と東京を往復しました。9月に20日に京を立ち、東京に10月13日に着き、復路は12月22日に京都に帰着。
茅ヶ崎を通ったのは往路が10月10日、復路は12月9日(御小休所碑の銘による)、往路の一行の総勢は5,6千人と藤間柳庵(江戸時代の文化人)は「太平年表録」に記しています(『茅ヶ崎市史』2-57頁)。
石碑には、新倉家の5代の名前があり、新倉家が篤志家とはかり建碑するとあります。建碑は昭和36年(1961)、協賛者の中に茅ヶ崎郷土会が名前を連ねています。
この場所は、その新倉家の畑だったと伝えられています。
②小和田本宿町で祭る道祖神(陽形双体道祖神) 小和田三丁目
西に進み、交差点を北に折れると何本かの小さな道路がゴチャゴチャと交わるところにこの道祖神(サイノカミ)立っています。
双体像の向かって右側に「昭和36年(1961)正月14日」、左側に「小和田本宿郷」と彫ってあります。
右横の写真は昭和52年(1977)に本会の町田会員が撮影したもので、付近が開発される前の様子です。
神奈川県は道祖神信仰が盛んだった地域で、市内には約100基の道祖神塔があります。その中で、この塔のような形はありません。他地方の形をモデルにしたものです。
茅ヶ崎郷土会発足(昭和28年:1953)の中心人物だった斎藤昌三さんは性神の研究家でもあったので、その指導があったのかもしれません。
〇移動の間にチョイと寄り道 茅ヶ崎市内の稲荷講
この日の下見を2月12日に行いました。
その日は稲荷様を祭る稲荷講の日で、②道祖神から③上正寺に向かう途中の旧家で屋敷稲荷様のお祭りを行っていました。祠が開かれていて昔ながらの供え物がしてあったので見せて貰いました。
小豆を入れて炊いた白米を藁ツトで包んだ「ツトッコ」や油揚げが供えてありました。
ツトッコを頂き、たいへんおいしかったです。
③浄土真宗 龍澤山龍徳院上正寺 小和田二丁目12-73
寺に伝わる「上正寺略縁起」(茅ヶ崎市史1-607頁)に次のように記されています。
推古天皇(在位-593~628年)のとき、聖徳太子がこの地で自刻の像を残した。
その後、村上天皇(在位-946~967年)の皇子、尊勝法親王のお告げで高座郡寺尾郷に広大な堂舎が建立され、親王は法主となった。
後寿永・文治のころ(1182~1190年)寺が兵火によって炎上したので小和田に移転した。しかし次第に衰退した。
嘉禄年中(1225~1227年)に、道円(了智坊、佐々木高綱)が宗旨を浄土真宗に、寺号を無上正覚寺に変えた。(寺では道円を開山としています。)二世智円を経て、三世覚如上人のとき寺名をさらに上正寺に変えた。
上正寺には太子自刻の像と伝えられる木造の聖徳太子立像(市指定重要文化財に指定)が祭られています。
また、上野の寛永寺にあった徳川将軍歴代墓地に、各藩主たちが奉納し、戦後、寛永寺から寺に移設された石灯籠も一基あり、市の重要文化財に指定されています。
境内墓地にる旗本(杉浦家・丸毛家)の墓石
小和田村の江戸時代の領主は、元和6年(1620)頃に杉浦正友が、寛永2年(1625)に杉浦親勝が命ぜられ、宝暦12年(1662)に幕府領に変わりました(茅ヶ崎市史5-583頁)。
杉浦正友の名を残す墓石と、茅ヶ崎村の領主で、上正寺の檀家だった丸毛利雄の墓石が境内の住職の墓域の中にあります。丸毛家の領地茅ヶ崎村も宝暦12年に幕府領に変わっています。
左が茅ヶ崎村領主の丸毛利雄の、右が小和田村領主の杉浦氏三人の墓石。
杉浦氏の中央の「龍徳院殿」は小和田村初代領主の正友の院号で、上正寺の院号になっています。
④真言宗 天応山神保寺千手院 代官町一丁目4
ご本尊は千手観音。境内に、江戸時代に作られたたくさんの石仏が置いてあります。その中で、回国供養に関して立てられた2基と、木食僧「観正」に関係する1基を紹介します。
なお、当日は本堂でご住職のお話を伺いました。
画像右側の六十六部供養塔には「享保20年(1735)」の銘があります。
摂津国は現在の大阪府と兵庫県にまたがっていました。
願主の念譽妙心が摂津の大坂を振り出しに、全国六十六か国をまわって法華経を供養する途中、当地にも訪れたときに作られたものです。念譽妙心のような民間宗教者を「六部(ろくぶ)」とも呼びます。
石塔一基を立てるには少なくない経費が必要です。この石塔建立に地元の協力があったことと思われます。おそらく千手院を会場として念譽妙心は何らかの宗教行事を行い、近在の人びとが出資したのではないでしょうか。
宝篋印塔は典型的な江戸時代の様式です。
塔身の四方の東面に不空成就如来、南面に阿閦如来、西面に宝生如来、北免に阿弥陀如来の種子がありますが、本来の形から90度左回りにずれています。いつの日か積み替えたときに変わったのでしょう。
基礎の
東面に「奉御経神社仏閣/西國坂東秩父[ ]」、
南面に「大願成就者[ ]/西国八十八ヶ所[ ]」、
西面に「奉納大乗妙典/回國山田栄玄」および「寶函印陀羅尼塔」の銘と宝篋印陀羅尼経の一部・「高座郡小和田邑/天應山千手院現住智明」、
北面に「日本六十六部一國三部」および元文2(1737)の年銘、「奉供養寶塔木食無□」、「武州/江戸」とあり13人の名が彫ってあります。
この塔の建立には木食僧が関わっています。一字読めませんがその名は「無□」、江戸の人物と思われます。「木食」とは修行として菜食を続けることです。
各部分に大勢の人名があります。建立時の千手院の住職は「智明」、その他は江戸講中の者と地元の人びとです。
この塔の特徴は、①百番観音霊場、西国八十八ヵ所、六十六ヵ所霊場巡拝が合わさっていること、②北面に名のある「木食無□」が巡拝の中心人物と思われること、③「無□」の講中は江戸の講中で、江戸から巡拝を始めているらしい事です。引用文献は 資料館叢書15『茅ヶ崎の石仏』3の276頁です。
画像右側の 木食観正の名のある南無大師遍照金剛塔には、その裏面に ①年銘「文政2年(1819)6月吉日」、②江戸講中13人の名前および「小和田村/上郷・下郷」、菱沼村(1名)、大庭村(4名)と世話人(8人)が彫られています。
この塔の建立にも「観正」という名の木食僧が関与しています。
年銘の文政2年は建塔の日でしょうから、その前に、観正が江戸講中と計って千手院を会場に近在の人びと向けに催しを行ない、その記念に建てた塔と思われます。市内にある観正の碑はこれのみですが、別の木食僧「徳本」の碑が市内各所に4基あります。
相模国準四国八十八ヶ所 第24番札所の石造弘法大師坐像
この八十八ヵ所霊場は、文政年間に、鵠沼村の浅場太郎右衛門が四国霊場を模して作ったもので、藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町・横浜市・鎌倉市域に展開しています。
千手院はその24番札所で、四国札所の24番最御崎寺(ほつみさきじ =東寺 高知県室戸市)になぞらえてあります。
四国札所にはそれぞれに御詠歌がありますが、当地の札所にも御詠歌がつくられています。
千手院「遠近の人の小和田につどえへるもほとけのみ手にまねかれてこそ」
最御崎寺「明星の出ぬる方の東寺暗き迷いはなどかあらまし」
弘法座の右側面に
「文政四年(1821)巳正月吉日/(9人の名前)」左側面に「(世話人4人の名前)/元祖 鵠沼村 境川大/ 土州 東寺/二十四番」とあります。
木造十王立像
以前は境内の焔魔堂に祭ってありましたが、今は本堂にあります。
『茅ヶ崎市史』3(考古民俗編)249頁に次のように記されています。
「閻魔十王といえば坐像が多いなかにあって、この一具の像はすべて立像である点は珍しい。近年彩色を改めてしまったために、まったく新造のようになってしまっているが江戸時代末期の作と思われる。奪衣婆像も同様である。これらのうちには、たいへん近代的な顔立ちのものもある。」
⑤真言宗 山王山観音院廣徳寺 代官町一丁目4
『ふるさとの歴史散歩』70頁に次の様に記されています。
「山王山観音院と号し、高野山真言宗。開山を慶海といい、元和五年(1619)の草創と伝える。本尊は千手観音。境内に伊勢参りの講中が造立したという六地蔵(弘化3年1846)などがある。
明治6~11年(1873~78)の間に行われた大区・小区制のとき、市域が含まれた第18大区の区務所がここに置かれた。」
廣徳寺も相模国準四国八十八ヶ所に組まれていて、弘法大師像が祭ってあります。また、江戸時代に作られた六地蔵があります。
文政年間に鵠沼村の浅場太郎右衛門親子が作った準四国八十八ヶ所の8番札所になっています。弘法大師石像の弘法座には沓と水飲み(実は水瓶)の絵、銘は「四国八拾八所之内八番阿州国熊谷寺写/文政三(1820)庚辰秋九月/施主 檀中/當寺一代宥□造立之」とあり、石像が作られた年が分かります。
御詠歌は「たがはずに親のおしへをまもる子のゆくすゑひろきのりの庭かな」。
元になっている熊谷寺(くまだにじ)は徳島県阿波市土成町にあり、四国霊場の8番札所です。
御詠歌は「薪とり水くむ谷の寺に来て難行するも後の世のため」
六地蔵
六体揃っていますが、石質が違うものもあり、寄せられているようです。
弘化3年(1846)の銘が地蔵が立っている竿石に彫ってあります。竿石も他の竿石が混じっている可能性があります。
しかし、市内の六地蔵の多くは、神仏分離のときに首が折られていますが、こちらは傷みが少ないようです。
幕末に村の伊勢講で伊勢参りをして、その余ったお金で建てたという話が伝えられています。
⑥熊野神社 小和田二丁目3-66
境内の「姥神社」に祭られている姥神(うばがみ)様と、本殿横に集めてある石仏が見所です。
市内では三ヶ所に姥神が祭られています。また、昔は姥神だったが今は厄一皇子社という小さな神社に変わったところもあります。
三ヶ所の姥神はいずれも石造の坐像、その中の芹沢のものは「寛文〇〇」(1661~1673)の、石仏としては古い年号銘を持っています。3基とも、子どもが風邪をひいたとき、お茶を供えて平癒を祈ったそうです。
熊野神社の姥神は丸彫りでなく、石祠の奥の壁に半肉彫りです。年号銘はありません。
以前は小字の長町という所にありましたが、こちらに移されました。明治のころのことでしょう。
茅ヶ崎の沖に姥島という岩礁があり、そこから移されたという話もありますが、これは「姥島」・「姥神」の両者が似た名前であることから生じた伝説です。
姥神は市外他の土地にも祭られています。そして謎の多い民間信仰です。
姥島に関係する石碑を二例紹介します。
「姥島神社・八雲神社・八大龍王」と書かれた碑があります。碑の裏に明治22年(1889)とあり、この石碑を建てた年、つまり他所にあったものをここにまとめた年と思われます。八雲神社と八大龍王は元の地が分かっていますが、姥島神社は不明です。姥神を姥島から移設したという伝説は信じている人が多いように、それと同類の、伝説上の神社ではないでしょうか。
姥島の歌碑 この歌碑は文政13年(1830)の文献に、村内の尾根明神にあったと記されています。尾根明神が無くなった時にここに移されたようです。「小和田が浦の姥島…」とあるところから、姥島は伊豆のものという言いがかりを打ち破ることができたという伝説がついています。
大和市福田の蓮慶寺に、同市指定文化財の「木造優婆尊尼坐像」という像があり、「相模なる福田ヶ原の山姥は いつにいつまで夫(つま)や待つらむ」という歌が付随していることを、茅ヶ崎郷土会の先輩、樋田豊広さんが報告しています(『郷土ちがさき』23号)。茅ヶ崎の姥神の伝説が大和市へつながっているのです。
姥島をめぐって伊豆の漁師と持ち分争いをしたという話は、歌の文句を元にしてできた伝説です。
藤間柳庵の筆になる二つの石碑
市内柳島村に、幕末から明治にかけて活躍した藤間柳庵(とうまりゅうあん)という人がいました。回船業を営む村の名主で、時の記録を書き残し、書にも長けていました。その柳庵の筆跡になる、「御嶽山」と「富士・大山」の信仰に関わる碑です。
左が御嶽山の、右が富士・大山の碑です。
両方とも碑の裏に「万延元年(1860)庚申秋」とあります。
境内には、長野県の御嶽山信仰につながる碑が2基、明治12年(1879)と大正14(1925)があり、かつて当地は御嶽山詣りの講中の活動が盛んだったことを表しています。
右は富士信仰と大山信仰(不動・石尊)の碑です。昔は村ごとに大山講があって夏山登拝を行っていました。片詣りを忌んで、大山と富士の両方を詣るものとされていました。
新田 信(にったのぶ)の句碑
境内にはほかにたくさんの石仏、石碑がありますが、最後に2基の句碑を紹介します。
句の作者は新田 信。大正末期から昭和初期にかけて茅ヶ崎町の町長として町政の刷新に努めたことで知られています。俳句をたしなみました。
左の句碑の表面には「道祖神」と彫ってあります。新宿(あらじゅく)チョウナイで祭る道祖神の裏面が句碑になっているのです。「濤哉(とうさい)」は俳号です。
右の句碑の裏面には「昭和三〇年二月六日建」とあります。
姥島には、高くせり上がって「ジンジ」と呼ばる岩と、その横に背が低く、丸まった「バンバ」と呼ばれる岩があります。ジンジは今では烏帽子岩と呼ぶ人が多いのですが、この句では「尉(じょう)」と表現されています。バンバ(婆)からの連想でしょう。
先に紹介した歌碑「小和田の浦の宇婆嶋は誰を待つやら…」はバンバを表したものです。
濤哉(新田)はこの碑ができた4年後になくなりました。
移動の途中でチョイと寄り道
熊野神社から国道に沿って西に進みました。
その途中、国道の北側に、道路より高く砂が積もっている所がありました。東海道は、特に市内の東側では砂丘の上を通っています。道路より高いということは砂丘の頂上が残っているということです。他のところは、これを削って住宅が建っているので、砂丘であることが分かりにくくなっています。
また、その先の東海道の北側に、レトロな交番がありましたので、写真を載せておきます。
⑦⑧牡丹餅立場と七里役所跡
東海道の茅ヶ崎部分、藤沢宿から平塚宿までは藤沢宿の領分でした。二つの宿場の間に当たるので「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれて、東海道を通る旅人相手に、四ツ谷立場(藤沢市内、田村通り大山道の分岐点)・牡丹餅立場(ぼたもちたてば)・南湖立場・八幡立場(平塚市内)が開かれていました。
立場(たてば)は、荷物の取り次ぎをせず、原則、旅人の宿泊には応ぜず、旅人らが休憩する茶屋が開かれていました。牡丹餅立場は菱沼村分にあり、ぼたもちを売っていたと伝えられていて、「牡丹餅茶屋」とも呼ばれていました。
茶屋の近くに、紀州藩が自藩のために設けた「七里役所」がありました。
江戸から自藩まで、東海道の七里毎に役所を設け、役人を置き、往復する紀州藩の用人の世話と情報の取り次ぎをしていました。
牡丹餅立場も七里役所も、今は現地に残されたものはなく、説明板が建てられているだけです。
説明板にも掲げてある「東海道分間絵図」の同じ部分を載せておきます。
⑨郷境道(ごうざかいみち)
最後の見学地に着きました。
市内の東海道を小和田~菱沼とたどってきました。その先は江戸期の茅ヶ崎村本村(ほんそん)へと続きます。菱沼村と茅ヶ崎村との境は、海岸まで通じている一本の直線道路となっていて、郷境(ごうざかい)と呼ばれています。
江戸時代初期に、姥島近くの漁場をめぐって茅ヶ崎村と小和田村が争いました。寛文4年(1664)、幕府の裁定が行われ、手白塚から「祖母嶋(姥島)の中央にある大石(烏帽子岩)を見通し」、図面上に引いた線を「境目たるべし…」としました。この「線」を現地で「道」としました。そのために直線道路になっていて、先を見通すと烏帽子岩がそびえています。
郷境道は、本村二丁目にあるTOYO茅ヶ崎工場の東側から、東海道本線を越えて海岸まで続く道路として今も使われています。
おわりに
茅ヶ崎郷土会の第308回史跡・文化財めぐりは現地で解散して無事に終了しました。
今回の参加者の記念写真。
当日配布した説明資料集はこちらから見ることができます。
なお、下のコメント欄にご感想をいただけるとありがたく、今後の参考にさせていただきます。
◎ report hirano
◎ photo maedaおよび hirano