3 秋葉山量覚院 ―小田原市

京都の聖護院を総本山とする本山修験宗(本山派)寺院。小田原市板橋にある。
火防(ひぶせ)の信仰で知られる秋葉山大権現は、養老元年(717)遠州(静岡県)秋葉山上に泰澄大師の開創といわれている。小田原城主大久保氏は代々その秋葉権現を信仰し、城主となった慶長元年(1596)に當所に勧請したと『新編相模国風土記稿』にある。
江戸時代に、量覚院はこの秋葉社の別当寺で、本山派相模本山の小田原の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)霞下だった。毎年12月6日に催される火祭りには各地の山伏が参加し、火渡りの荒行などが行われ、火難消滅や無病息災を祈願する。茅ヶ崎郷土会は、平成27年この火祭りを見学し、たくさんの画像を記録した。
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3-01 火祭り開始前の本殿参拝

俗にいう修験の火祭りは、本山派修験(天台宗系)では採燈護摩供養、当山派修験(真言宗系)では柴燈護摩供養(共に「さいとうごまくよう」)という。護摩供養は真言宗などで盛んに行われ、神聖な火炎で罪穢れを焼き尽くし、新しい力の復活を祈り、現世の利益を祈るものであり、修験道では特に力を入れて取り組んでいる。なお、量覚院は本山派に属している。
祭事を始めるにあたって、秋葉大権現に参拝する。量覚院は、神仏分離以前にはこの秋葉山大権現の別当寺であった。なお、秋葉信仰の本山の静岡県秋葉山も修験道の霊地だった。

3-02 山伏登場

ホラ貝を吹き鳴らしながら山伏が祭場に登場する。
ネット情報によれば、山伏は何事かの合図のために(例えば神事や戦闘の開始、退却など)ホラ貝を吹き、その吹き方にも決まりがあるというが、道中で吹き鳴らす場合は、その音によって道々の魔を払うという意味もあると考えられる。

3-03 祭場のしつらえ

頭上に張ったしめ縄はこの場所が神聖な範囲として区切られていることを表している。細かくはさみを入れた独特の形の紙垂(しで)を垂らしてあって、その形が美しい。祭場の中央には竹の先を六つに割って、それぞれに黄色、赤、緑、紫、青、白の色紙の紙垂を垂らす。山梨県内(例えば北杜市)などの道祖神祭の際に、これによく似たものを作ってヤナギなどと呼んでいる。サイノカミのサイト焼きと称する火祭りは修験の火祭りに共通するところがあるといわれている。
祭壇の中央には、山伏が神霊などを運ぶ、笈(おい)が置いてある。

3-04 祭礼の始めにまず修祓(しゅばつ お祓いのこと)

神道の祭事では、携わる人たちの穢れを払うお祓い(修祓)を最初に行うが、修験道でも同じである。ただ、手にするものが神道では、紙垂(しで)と麻苧(あさお)で作る大幣(おおぬさ 大麻ともいう)だが、ここで修験者が振っているのは植物の枝先か葉先のようだ。
頭につけているのは頭襟(ときん)、着ている法衣は鈴懸(すずかけ)、背中にボンボン状のものが二つ見えるが、胸にも四つ付いていて帯で繋がっている。結袈裟(ゆいげさ)と呼ばれる。これらは山伏独特のこしらえで、密教的な解釈がなされている。

3-05 献餅を搗く

お供えの餅を搗(つ)く。この間にも、修験者は数珠を繰りながら読経を続ける。
祭壇に向かって腰掛けている修験者が頭にかぶっているものは何と呼ぶものか分からないが、修験道の祖 役 小角(えんのおづぬ)がかぶっている頭巾と同じもののようだ。身に付けるものの違いが、修験者の位の違いを表しているようだ。

3-06 献餅をいただく

搗き上がった持ちを祭壇に供え、集まった人たちにも振る舞う。これも神道の神社祭礼でもよく行われることである。お供えを神様が頂かれたあと、祭に参加する全員で頂き、その御加護を願い、新たな霊力を増そうという意味がある。 

3-07 火をつける直前

量覚院の火祭りは師走6日の夜に行われている。寒い季節だが、夜の火祭りは何とも言えない雰囲気を漂わせていた。暗くなるのを待って聖なる火がつけられた。

3-08 祭場巡回

火がつくと、10人ほどの山伏がその回りを回る。先頭の数人はホラ貝を吹く。その音(ね)で魔を祓い、祭場を清める意味がある。

3-09 宝剣式舞

日本刀を振り、魔を祓い、祭場を清める。その後ろで腰掛けている修験者の姿は、まるで役 小角(えんのうづぬ)のようだ。

3-10 火踊り


頭巾をかぶり、腰掛けて控えていた山伏が、二本の松明(たいまつ)を手に登場。これを火踊りといっていいかどうか分からないが、まるで踊りのように演劇化されている。どのような意味が込められているのか、聞いてみたい気がする。この火踊りの場面は、この日のクライマックスの一つである。

3-11 火渡り

火祭りのもう一つのクライマックスは火渡りである。山伏全員が裸足になって炎が収まった炭火の上を渡る。我が身を聖なる火炎で焼くことによって、罪穢れを焼却させ、命と力を復活させる意味が込められている。
このあと、希望する一般の参加者も火を渡った。

3-12 屋台店

儀式の一つひとつに、私たち庶民にはうかがい知れない深い意味が込められているのだろう。
一方、私たちにとって祭りの魅力は別の所にある。その一つが屋台店。プラスチックの刀、ブリキの自動車、真っ赤に着色されたりんご飴、甘ったるい焼きイカ、お好み焼。屋台店独特の品々が、なんとも言えない雰囲気で私たちを呼ぶ。
息を吹き込むとくるくる巻かれていたセロファンの袋が長く伸びて、口から離すと「ビー」と音を立てて戻る。あのビーという音がいくつも重なる屋台店。

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会員の青木昭三さん、藤間家について大いに語る 18/1/27(土) 晴

柳島の藤間家といえば茅ヶ崎では知らない人はいないくらいに有名です。
柳島に藤間姓は多いですが、幕末~明治の文化人藤間柳庵(とうまりゅうあん)の藤間家のことです。
敷地の一部をはじめ、家屋、所蔵されていた美術品や民俗資料、柳庵の手になる文書などが、2017年7月に茅ヶ崎市に寄贈されました。「敷地の一部」と言っても広い面積です。
今、市教育委員会社会教育課によって、公開と活用の検討が進められています。
そのような流れの中で、藤間家を語る催しが行われました。
題して藤間家文化財寄付記念講演会「藤間家と柳島地区の歴史と自然」
茅ヶ崎市教育委員会主催
場所 市立図書館第1会議室 13時30分~16時30分
お話とテーマは
・「史跡から見る藤間家と柳島」 富永富士雄氏(社会教育課)
・「古文書から見る藤間家と藤間柳庵」藤城憲児氏(茅ヶ崎市史編さん委員・茅ヶ崎古文書を読む会)
・「藤間家とその周辺の自然」 岸 一弘氏(社会教育課)
・「ちょっと前の柳島を語る」 青木昭三氏(茅ヶ崎郷土会)

青木昭三さんは茅ヶ崎郷土会の前会長です。柳島に住んで、2008年から2017年5月まで会長をつとめられました。
藤間家を身近に知る生き証人としてこの日の講師にまさに適役。話の構想を練る青木前会長青木さん 大いに語る青木さんはエンコロ節の歌い手でもあります エンコロ節を画像で紹介

藤間家との関りや子供の頃の思い出を次のように話されました。
・電気の球が切れると藤間さんの家に交換してもらった。金額は忘れたが、50践とか1円とか、そんな金額だったと思う。藤間家は特別な家で、悪ガキどもには敷居が高かった。
・ニッキの樹の根っこを掘ってはよく叱られた記憶がある。(藤間家の庭に、巨大なニッキの木があるのです)
・藤間家の北側、一段低い場所は池になっていた。ドジョウなどをとった。
・近くに天然ガスが出ていて、藤間家でも櫓(やぐら)を組んで、掘削工事を始めたが戦争のために中断した。
・藤間家の西側の道路は藤間温泉や精米所や商店が並び「銀座通り」と言われていた。

この講演会、募集人員の50名を大幅に上回り、大盛況でした。
より知りたいと詰めかけた参加者の欲求を十分に満たしてくれるものでした。続編を期待するものです。

photo & report 前田会員