283回 (箱根町) 塔ノ沢の阿弥陀寺と箱根湯本の早雲寺 11月27日(晴)

283回-01
小田急 箱根湯本駅
行く秋を惜しみ、塔ノ沢の秋景に涙しよう と箱根町を訪ねました。
小田急線の箱根湯本駅は絶好の秋日和、雲一つ無い秋空の下にありました。
まず向かったのは浄土宗 阿育王山放光明律院阿弥陀寺塔ノ峰の中腹にある寺院で、のぼること小一時間と聞き、駅前から車に分乗することにしました。

 

283回-02
阿弥陀寺参道
そのタクシーも途中までしか行かず、参道を歩くことしばし。荒れた日は大変でしょうが、私たちは好天に恵まれ、紅葉を見ながら歩くのは楽しいものでした。
途中にたくさんの石仏があります。このお地蔵様、年銘はありませんが、「施主 江戸神田鍋町 松屋徳兵衞」とあり、江戸時代に神田の徳兵衞さんが身内の者の供養のために建てたものでした。
ほかの石仏にも江戸の人が建てているものがありました。江戸時代は祈祷寺として知られていた阿弥陀寺の歴史をあらわしているようです。

283回-03
阿弥陀寺(箱根町塔之澤24)
大して疲れる間もなく、阿弥陀寺の境内に着きます。入口で六地蔵と青銅の阿弥陀様がお出迎えされていました。これが今回の参加者一同。

 

何にやら打ち合わせている私たちの話を如意輪観音が聞いておられました。
阿弥陀寺の草創は慶長10年(1605)といわれています(西海賢二著『漂泊の聖たち』27頁)。木食行者の弾誓上人(もくじきぎょうじゃのたんせいしょうにん)はその前の年に塔之澤に来て、洞窟に籠もり念仏三昧の修行を積んだそうです。その洞窟が寺の裏を200㍍のぼったところにあり、上人ゆかりの石造物なども残っていると聞いていましたので、期待していたのですが、道が通れず行くことができないと分かりました。
阿弥陀寺は木食聖(もくじきひじり)によって開かれた特異な歴史の寺院です。

283回-04
阿弥陀寺本堂
建物は豪壮な雰囲気です。
本堂の分厚い屋根は銅板で覆われていましたが、その中は藁葺きだと思われます。
「浄土宗神奈川教区青年会」のホームページに紹介されている阿弥陀寺の項には「本堂は天明4年頃に、今の小田原市久野の庄屋の家を移築したもので、民家造りとなっています。」とありました。天明4年は西暦1784年です。

283回-05
ご住職の琵琶の演奏
阿弥陀寺住職、水野賢世さんは琵琶の演奏家として知られていましたので事前にお願いしておきました。平家物語と皇女和宮を奏していただきました。琵琶の音色は聞いたことがなかったこともあり、一同いたく心を動かされました。

 

283回-06
本尊 木造阿弥陀三尊坐像
箱根町の文化財に指定されています。
『箱根の石仏』(澤地弘著かなしんブックス)に、「元禄年間に江戸本所の回向院の旧本尊であったものを回向院四世の喚霊によって寄附されたもの」とあります。短い一行ですが、この言葉の裏にどのような歴史があるのか、とても興味を引かれます。両国の回向院は江戸時代には、有名社寺がこぞって出開帳をしました。その回向院の本尊がどのような理由で阿弥陀寺にもたらされたのでしょうか。

283回-07
阿弥陀如来立像
『箱根の石仏』には、「芝増上寺にある黒本尊と呼ばれる阿弥陀如来像の御代仏として作られた仏像で、皇女和宮の念持仏だった。和宮と湯本温泉との関係から、和宮の七回忌に阿弥陀寺は増上寺の別院に昇格し、この御代仏がもたらされた」とあります。このことについても、もっと詳しい事情が知りたいものです。

 

283回-08
後生車
本堂入り口に大きな後生車(ごしょうくるま)が下がっています。大数珠がベルトのように掛けてあって、この数珠を引くことによって車を回すことができます。
また、入口の脇に漢文の「轉輪日課百萬遍記」が立てかけてあります。後生車にもこの厚板にも、「天明四年甲辰」とあります。西暦1784年です。
民俗行事の「百万遍数珠繰り」は、講中が集まって大数珠を回しながら願い事をしますが、ここに架かる車は、百万遍数珠繰りを一人ででも行うことができるように工夫されたものと考えることができます。
山北町世附にある神奈川県指定無形民俗文化財の「世附の百万遍念仏」と同じ仕組みです。
厚板の「轉輪日課百萬遍記」を読むと、これを回すことによって百万遍と同じ仏果が得られると書いてあります。

283回-09
葵の御堂
本堂の脇にある御堂は「葵の御堂 皇女和宮香華院」といわれています。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は脚気を患い、箱根塔ノ沢の「環翠楼」で湯治をしていましたが、明治10年9月2日、脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去したそうです(Wikipedia)。阿弥陀寺には和宮の念持仏だったといわれる阿弥陀如来像(先に紹介した、芝の増上寺からもたらされた御代仏)があり、位牌もあるそうですが、和宮と阿弥陀寺との関係はまだ調べておりません。

283回-10
潮信院殿尊前の手水鉢
境内にある手水鉢に「潮信院殿尊前 元禄九年九月六日」の銘と、11人の武士の名前が彫ってありました。元禄9年は西暦1696年です。
調べてみると「潮信院殿」は小田原藩主稲葉美濃守正則の戒名でした。「尊前」とありますから、正則を供養する塔か何かが別にあって、その前に置かれていたものでしょう。あるいは阿弥陀寺に正則の霊を祭ってあるのでしょうか。年銘は正則の命日です。
側面の家紋は「折敷に三文字」といわれる稲葉家のものでした。

283回-11
馬頭観音
阿弥陀寺に別れを告げて、参道を下る途中にもたくさんの石仏があります。
これは三面八臂(3面の顔と8本の腕)の馬頭観音です。頭の上の動物の頭はネズミか何かのように見えますが、馬頭でしょう。『箱根の石仏』には、参道のこの部分を「馬道」というと書いてあります。

 

283回-12
石仏を見ながら下る
参道沿いにある石塔・石仏のほとんどは個人の供養塔でした。その中でも、この画像にある自然石の供養塔には「寛永五戊子年正月七日」とありますので、最も古いものではないかと思われます。西暦1628年です。「◯◯禅定門、◯◯禅定尼」とある夫婦の供養塔です。阿弥陀寺が開かれてから20数年後に建てられていますから、ごく初期の信者だったのでしょう。
弾誓上人は慶長16年(1611)に京都で入定していますので、この供養塔が建てられたときは阿弥陀寺にはいませんでした。

283回-13
山門
さらに参道を下ると山門がありました。
「阿育王山」は阿弥陀寺の山号です。
ネット情報によると、阿育王山という山が、中国の浙江省にあるそうです。
古代インドで仏教を擁護したアショーカ王は、中国で阿育王と表記され尊ばれました。仏教の日本への伝来と共に、アショーカ王信仰も伝来し、ゆかりの阿育王山の名を山号にする寺が現れますが、その事例の一つです。

283回-14
三尊仏の石龕(せきがん)
山門の下、進行方向右側に入ったところにあります。
大きな自然石を堀くぼめて三体のほとけを半肉彫りしてあります。
この三体の仏像を『箱根の石仏』は32ページに「中央は阿弥陀如来、右側は薬師如来、左側は観音菩薩」としていますが、
中央の阿弥陀如来はよしとして、
その右像(向かって左)は蓮台を持つ観音菩薩、
左像(向かって右)は地蔵菩薩
のように見えます。
また、三像の頭の上に種子(しゅじ・しゅうじ)があり、阿弥陀キリク、右像の上はサ(この二つは明確です)、左像はカと見えます。つまり阿弥陀三尊の勢至菩薩が地蔵菩薩に変わった変形だと考えられます。
年銘は二か所にあって地蔵の右に「□□癸酉□月四日」(元禄六年 1693)、三尊龕の向かって左の小さな龕に「元禄五年□月□日/施主 秋山弥五□□」とあります。
『風土記稿』は塔之澤の項(雄山閣版2巻128頁)に、塔之澤温泉の始まりは諸説あるとし、その一つに「阿弥陀寺開山弾誓(たんせい)、慶長中(1596-1615)秋山道伯(元湯彌五兵衞の祖)と謀りて、起立せし」という話を載せ、この話は阿弥陀寺に伝わる念光という僧が書いた手帳に「慶長十年(1605)9月、弾誓上人が病者のために流れに従って山谷を下り、岩を杖で突いて湯を湧出させ、道伯に与えたという記述による」としています。「元湯彌五兵衞」の「元湯」とは塔之澤温泉の環翠楼の前身です。
つまり、塔之澤温泉の始まりは「元湯ー環翠楼」にあることを、「道伯ー彌五兵衞」を阿弥陀寺の開祖である弾誓上人に結びつけて説くもので、各地にある弘法の湯伝説の域を出るものではないようです。
以上の話も含めて、この石龕は興味深いと思いました。

283回-15
梅村美誠夫婦の墓
石龕三尊像の隣奥にあります。
梅村美誠氏は塔ノ沢の温泉宿環翠楼の2代目楼主で、湯本村の村長も務め、村の発展に寄与しました。
和宮が療養していた宿がのちに環翠楼と名乗ります。

 

283回-16
紅葉
参道を下りきったところの紅葉がきれいでした。

 

 

 

283回-17
昼食は「山そば」
箱根湯本駅のそばのソバ屋「山そば」に予約を入れておきました。
月曜日だったにもかかわらず店内は混んでいました。
観光地の食堂は大したことないことが多いですが、ここの蕎麦はおいしかった。ビールも最高でした。もっとも、長い山道を歩いた後でもあったのですが。

 

283回-18
早雲寺に登る急な坂道
昼食のあとは旧東海道沿いの早雲寺を訪ねます。早川を渡り、湯本富士屋ホテルの脇を抜けると急な坂道です。
この日は80歳代の参加者もありましたが、皆さん大変お元気でした。
この坂道がかなり続くのですが、一気に登り切りました。
茅ヶ崎郷土会の史跡・文化財めぐりは健康維持に効果絶大です。
百歳まで生きる人が多くなった昨今、運動と頭の体操は欠かせません。
皆さん! 茅ヶ崎郷土会に入ると長生きしますよ。

283回19
早雲寺遠景
晩秋の日の落ちは早い。谷あいにある湯本は、午前中の日差しを失ってきました。

 

 

 

283回-20
早雲寺の始まり 看板(箱根町湯本405)
この看板が寺の歴史を語っています。
臨済宗大徳寺派。金湯山早雲寺。
「新編相模国風土記稿」湯本村の項に「北条氏綱、早雲庵宗瑞の遺言にまかせて建立。大永元年落成す。ゆえに早雲をもって開基と称す」とあります。

 

283回-21
開山堂
早雲寺の開山は以天宗清(いてんそうせい)という臨済宗の僧。
説明板には「生まれは文明4年(1472)、京都。北条早雲、氏綱、氏康の帰依を受けて早雲寺の創建に係わる。天文23年(1554)死去」とあります。

 

 

283回-22
北条五代の墓
本堂の裏手にあります。
説明板に「天正18年(1590)4月5日、豊臣秀吉は小田原城を攻めるために早雲寺を本陣とした。6月に一夜城が完成するとそちらに移り、早雲寺に火を放ち、寺は灰燼に帰した。7月、北条氏降伏。氏政、氏照は切腹、氏直は高野山へ追放となったが一門の氏規、氏勝が家系を伝えた。江戸時代の寛永に寺の再建がはじまる。北条五代の墓は、氏規の子孫によって寛文12年(1672)に供養塔として建立された」とありました。
向かって右から早雲長氏、氏綱、氏康、氏政、氏直と並んでいます。

283回-23
梵鐘 神奈川県指定重要文化財
現地で確認しませんでしたが、元徳2年(1330)の銘があるそうです。この梵鐘とは関係の無いことですが、3年後の正慶3年(1333)に鎌倉北条氏が滅びます。
豊臣秀吉が小田原を責めたとき、三島の寺にあったこの鐘を一夜城に運び、戦の鐘として使った。その後早雲寺にもたらされたといわれています。

 

283回-24
飯尾宗祇の歌碑(昭和8年建立)と墓碑 
世に婦るは 更にしぐれの やどりかな
本堂の前に連歌師 飯尾宗祇の歌碑があります。
「飯尾宗祇(いいおそうぎ)は旅の途中、文亀2年(1502)7月30日、箱根湯本で客死した。享年82。」と説明板にありました。
本堂の裏手に墓があります。
説明板には「宗祇の遺骸は弟子たちによって静岡県裾野市桃園の定輪寺(じょうりんじ)に埋葬された。早雲寺の墓は供養塔である」とも書いてありました。

283回-25
白山神社と神明社(箱根町湯本431)
早雲寺の山門を出て、旧東海道沿いに白山社があります。
『風土記稿』に「白山社、当村(湯本村)および湯本茶屋の鎮守なり、例祭正月十九日、村持」と書いてあります。
境内にはこのような巨岩がいくつかありました。磐座(いわくら)なのかもしれません。

このあと、神明社を通過して小田急の箱根湯本駅に戻り解散しました。

 

 

 

Photo 前田会員 平野会員
Report 前田会員

 

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郷土ちがさき 143号(2018年9月1日発行)

内容

  • 表紙 「ワクワクしますか?」
  • 特集 二十三ヶ村調査勉強会 中島村 (調査勉強会参加者一同)
  • 特集1 『中島の歴史』 構成案
  • 特集2 中島 地名の由来 (平野文明)
  • 特集3 馬入の渡 その位地 (平野文明)
  • 特集4 中島の政治家 (羽切信夫)
  • 特集5 中島親水公園 (羽切信夫)
  • 「むら」を知る手がかり (小川正恭)
  • 史跡・文化財めぐり「市内の別荘跡を歩く」
  • 第287回ー高砂緑地から中海岸へー (源 邦章)
  • 第288回ー共恵から南湖方面へー (源 邦章)
  • 〈別荘跡を歩く関連論文〉南湖院 高田畊安の人物関係図 (源 邦章)
  • 風(自由投稿欄)
  • 浜降祭と海辺(中島幸子)
  • 民俗資料館 旧藤間家住宅の紹介 (社会教育嘱託員 富永富士雄)

    馬入の渡の図

    • 編集後記
    • (画像をクリックすると、PDFファイルが開きます)

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    郷土会 Study Room 山本俊雄さん 源 邦章さん「 鎌倉北条氏と小田原北条氏」 2018.7.17(火)

    今年度3回目の郷土歴史民俗勉強会
    山本俊雄さんによる「鎌倉北条氏」
    源 邦章さんによる「小田原北条氏」
    のお話でした。
    この催しは「ちがさき丸ごと発見博物館の会」との協働事業です。

    ほぼ毎月、第3火曜日の午前中に開きます。
    場所は福祉会館を使うことが多いのですが、この日は祝日の翌日で休館だったため、市役所のコミュニティーホールA会議室を確保して行いました。
    会員ではない方も参加できます。
    資料作成・会場費などのために、会員は200円、会員外は300円の負担をお願いしています。「参加できます」(上から目線のようですみません)と書きましたが、実はなるべく多くの方に来て頂きたいのが本音です。

    昨年度、29年度の茅ヶ崎郷土会の史跡めぐりは鎌倉市と小田原市でした。
    その様子は、当ホームページの<今まで行った史跡めぐり>に一部掲載してあります。

    この鎌倉・小田原史跡めぐりに関連して、両地の北条氏をテーマに取り上げ、それぞれを会員の山本俊雄さんと、源 邦章さんが語って下さいました。
    山本さんのお話は、伊豆での北条氏の出自から元弘3年(1333)に北条氏が滅び、鎌倉幕府が消滅するまでの中で、並びいる有力御家人を次々と倒していく事例を紹介されました。
    正治元年(1199)梶原氏、建仁3年(1203)比企氏、元久2年(1205)畠山氏、建保元年(1213)和田義盛、承久元年(1219)実朝(裏に北条氏)、承久3年(1221)後鳥羽上皇など(承久の乱)、宝治元年(1247)三浦氏、弘安3年(1285)安達氏、永仁元年(1293)平 頼綱等々が潰えていきました。
    この折々に、北条氏は味方をする御家人たちと共にあり、一方潰える方は孤独な戦いを強いられており、北条氏のそのような策略・戦法がなぜ可能だったのかという問題に大きな興味を引かれると、講師の山本さんは語っておられました。

    続いて、小田原北条氏について源 邦章さんのお話。

    備中国(現 岡山県)出身の伊勢宗瑞(いせそうずい)は、山城(京都)、駿河(静岡県)、伊豆(静岡県)を経た後に、小田原を本拠にして相模国と伊豆国を領する戦国大名となりました。
    二代氏綱、三代氏康と代数を重ねるごとに関東に領地を拡張し、四代氏政、五代氏直時代には上野国(群馬県)、下野国(栃木県)まで勢力を伸ばしましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めに、氏政は自刃し、氏直は高野山へ追放となり、小田原北条氏は潰えました。
    源流の小田原北条五代記を語って下さいました。

    8月の郷土歴史民俗勉強会
    8月21日(火)
    「伊勢参り」 お話は平野文明会員
    長く続いた伊勢信仰の話も、伊勢参りで終了します。
    場所 茅ヶ崎福祉会館集会室6
    時間 10時~12時
    資料代など 会員200円 会員外300円

    (photo・report 平野会員)

    平成30年 茅ヶ崎海岸浜降祭 18/07/16 晴天

    7月の海の日、茅ヶ崎は浜降祭一色に染まります。平成30年は、寒川町にある寒川神社と茅ヶ崎市の鶴嶺八幡社をはじめ、子供神輿も含めて各神社のお神輿、約40基が茅ヶ崎の海岸に集まって、みそぎ祓いの神事が行われました。

    神事の最後に、関係者によって玉串の奉奠が行われます。茅ヶ崎郷土会も以前から玉串を捧げる一員になっています。
    レポーターは、今年はたまたま芹沢にある腰掛神社の役員を仰せつかりましたので、準備段階から浜降祭に携わりました。
    玉串奉奠が行われるとき、腰掛神社をちょいと抜けて、郷土会会員として玉串を捧げてきました。
    準備段階から写真を撮りましたので、今年の浜降祭の流れを紹介しようと思います。

    お神輿と一緒に大勢の担ぎ手が海岸に行きます。その担ぎ手が神事の間に休む場所を確保しなければなりません。場所取りに、祭りの前々日の14日夕方、だいたい決められているその場所に杭を打ってテープをめぐらし「ここは腰掛神社の休憩所だよ」のしるしをします。

    前日にはお神輿を納める場所を整える仕事があります。この場所も事前に決められています。腰掛神社のお神輿は以前から寒川神社の隣に納めることになっていて、向かってその左側です。
    竹竿の先にサカキの枝を指し、神社名を書いた幟を立てておきます。幟を竹竿に巻き付けてあるのが、腰掛神社の場所です。
    この日は海風の強い日で、竹竿を立てるに苦労しました。

    寒川神社の場所は、2~30㎝ほど砂を盛って高くしてあり、そこにハマゴウの小枝と海藻が敷いてありました。浜降祭の始まりを語る話の中で、海から拾い上げられたお神輿を砂浜に置くのは恐れ多いことなので、これらを敷いた上に据えたということになっています。

    各地のお神輿は、夜中の2時、3時にそれぞれの神社を出立します。海岸に着く頃ようやく夜明けです。
    腰掛神社の神輿は大型トラックに乗せられて、比較的早く到着しました。担ぎ手はチャーターした2台のバスに乗りました。各神社のトラックとバスが続々と集まりますので、国道134号は規制されます。
    トラックから降ろされたお神輿は海岸を目指します。

    前々日に用意した休憩所にも次第に人が集まります。
    そのすぐそばには屋台店が列をなし、順次店を開けていきます。



    次第に休憩所も満員状態になります。
    屋台店からは良いにおいが漂ってきます。




    明るくなるに従ってお神輿の数も増えます。見物の人たちもどんどん増えてきます。






    芹沢は、茅ヶ崎市の一番北の端に位置しています。朝の2時に宮立ちした腰掛神社の神輿振りです。




    広い海岸を、あっちに行ったりこっちに来たりしながら、お神輿が決められた場所に納められると、神事が始まります。40基ほどのお神輿がすべて着座するのに3時間ほどかかりました。
    神事は予定どおりに7時から始まりました。
    神社ごとに海のもの、山のもの、お神酒が供えられます。



    やがて祝詞が読み上げられます。祝詞奏状は寒川神社の宮司さんです。
    祝詞が終わると、参加神社や関係者が玉串を供えます。
    神事が始まってここまでに約1時間かかりました。
    砂浜を真夏の太陽が遠慮会釈なく照りつけます。
    その間ずっと立って神事を行う神職の皆さんも大変でしょうが、椅子は用意してあるものの、参列している方も大変でした。
    帽子は持っていましたが、神事の間は被っている訳にはいきません。
    年々薄くなる頭髪は太陽光線をさえぎる力もなく、脳みそが煮えるようでした。
    茅ヶ崎郷土会としましては玉串奉奠の画像が欲しかったのですが、カメラを構えるのも遠慮しましたので、肝心の画像は無いのです。

    photo & report 芹澤七十郎

     

    23ヶ村調査 中島の現地探索 2018/07/03  快晴

    今年の1月9日に続く久しぶりの中島探索でした。
    梅雨明けと真夏日が重なった猛暑の中、何ヵ所かを確認しながら歩きました。

    まず、①馬入の渡し場跡
    相模川の下流を馬入川(ばにゅうがわ)といい、川を渡って西に向かうに、江戸時代までは馬入の渡しを船で渡っていました。

    しかしその場所がどこだったのかは決め手がありません。
    中島を昔の東海道(今は国道一号)が東西に横切っています。この道路の位置が変わっていないとすれば、道はどこかで川に突き当たり、そこに川の東側(相模川左岸)の渡し場があったはずですが、明治時代以降、相模川は大きく流路を変えていますので、渡し場跡の位置を特定することは難しいのです。

    流路が変わったために、川の東側にも平塚市分の土地があります。いまある馬入橋は平塚市内に位置します。渡し場も平塚市分にあったのかも知れません。
    今は、馬入橋の南側(下流)に東海道本線の二本の鉄橋が馬入橋と平行するように架かっています。その様子を写真に撮ってきました。
    画像の右側の橋が国道一号(東海道)の馬入橋です。渡しはこの橋の下にあったのでしょうか。

    ②松山橋跡
    中島村は昔から相模川の水害を受けてきました。
    明治9年に、地元の村々が神奈川県に出した堤防設置の願い書に「堤防の端は松山橋」までと書いてあります。この橋がどこにあったのかがはっきりしません。
    中島を囲むように、相模川に沿って南北に延びる堤防が築かれていて、川に面した土地は湘南シーサイドカントリー倶楽部というゴルフ場に取り囲まれています。ゴルフ場の一角に、大きな松が何本かあり、土地の人たちはそこを松山と呼んでいます。
    昔、この地がゴルフ場になる前、ここに村から相模川に向かう小さな流れがあったといいます。
    そこに橋があったとすると、それが松山橋ではなかったろうかと私たちは思っているのです。

    ③大堤防の一角です。画像の左側の土手は堤防ではなく、ゴルフ場との境です。道路が堤防です。堤防の両側にゴルフ場が広がっています。
    明治19年の「国史下調」に、明治19年11月、498間(約896メートル)高さ・幅4尺(約120㎝)の相模川洪水除堤を作ったとあります。
    その洪水除堤と今、歩いている大堤防とがどのような関係にあるのか、まだ分からないのです。

    相模川河畔スポーツ公園
    今年3月25日、柳島に新しいスポーツ施設がオープンし、長年市民に親しまれたスポーツ公園は肩の荷を下ろしました。
    このスポーツ公園の横を真っ直ぐな道路が南北にあります。この道路も一段と高くなっているので、堤防だろうと思われます。途中からゴルフ場の中に取り込まれていて立ち入り禁止となっています。その先は相模川河口近くの小出川まで続いています。

    ⑥中島中学校
    学校のホームページに、昭和51年4月1日開校とあります。
    明治のころの地図を見ると、東海道本線の線路の脇から始まる低湿地が南に下って中島中学校の辺りまで来ており、水も流れていて大川と呼ばれていました。
    この大川に沿う所は大川淵という小字になっています。江戸時代にはもっと大きな流れだったと思われます。
    大川は、中島中学校とその東側にある柳島小学校の辺りで当時の相模川の支流に流れ落ちていました。
    中学校ができるまで、この辺りは低い土地だったようです。

    介護老人保健施設 ふれあいの渚
    中島には二つの老人福祉施設があります。
    ふれあいの渚と湘南ベルサイドです。
    茅ヶ崎郷土会の会員も高齢化して、7~80代が多くなりました。
    今は元気でも、何時何時要介護となるかしれません。
    各地の施設を研究調査しておくことも必要だと思います。

    浄林寺の施餓鬼
    この日は、浄林寺でお施餓鬼が行われていました。
    山門に変わった旗が立ててあったので調べてみましたところ、仏旗(ぶっき)というものだとネット情報にありました。
    日本仏教協会に加盟している寺院や仏教各派が仏事を営むときに掲げるのだそうです。外国で始まったもので、日本の仏教界でも取り入れたのだそうです。家庭用もあるようです。

    浄林寺さんの本堂の裏にある墓地の一角に、無縁になった墓石などが集めてあり、その中にひときわ立派な石塔があります。
    元和九癸亥[    ]
    阿弥陀三尊種子 □誉善心禅定門霊位
    九(八?)日[   ]
    と読めます。
    元和九年は西暦1623年です。「□誉善心」の歿年日と思われますが、今から395年も昔のものです。
    おそらく年号のはっきりしたものでは、中島で最古のものでしょう。
    中島の宝物の一つだといえるでしょう。

    ファミリーマート中島店
    最近のコンビニには、店で買ったものを食べるスペースが設けられています。
    猛暑の中を歩いた私たちには大変ありがたく、中島めぐりの後はよく利用させていただいております。
    缶ビールのうまかったこと!
    店員さんたちも感じがよく、みなさん親切です。

    report photo 平野会員