この冬初めてのけあらし。
煮えたぎる 茅ヶ崎の海
ま冬なのに!
2019年2月2日 7:03撮影

photo:maeda会員
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煮えたぎる 茅ヶ崎の海
ま冬なのに!
2019年2月2日 7:03撮影

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平成31年1月31日夜
カラカラ続きの関東地方に久しぶりのお湿り。
朝の天気予報では夜には雪になるかも知れないといっていた。
しかし茅ヶ崎あたりの平地では雨だった。
箱根と大山は白くなっていた。


photo: 芹澤七十郎
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平成31年1月16日(水)
茅ヶ崎市南湖一丁目2-11にある高野山真言宗の金剛院で閻魔(えんま)様のお像と地獄極楽絵図(12幅)などがお開帳されました。
この日、茅ヶ崎郷土会会の尾高忠昭会員もお詣りしました。
眞柴辰明ご住職の特別のはからいによって写真撮影をさせて頂きましたのでその様子を掲載します。
金剛院は『新編相模国風土記稿』(茅ヶ崎村の項)に次のように記されています。
○金剛院 法林山と号す 円蔵寺末 僧文覚の創立する所という 本尊不動を置く △閻魔堂
また『南湖郷土誌』(資料館叢書11 平成7年茅ヶ崎市教育委員会刊)には、
金剛院で毎年1月16日と8月16日に閻魔さまのご開帳がおこなわれていた。戦前は、露店が並ぶ「閻魔さま」の縁日に家族連れで出かけるのが大変な楽しみであった。
子どもたちも、うそをつくと「閻魔さまに舌を抜かれるぞ」と聞かされ、恐るおそる閻魔大王を拝んだものである。ご開帳は今も行われているが、昔の賑わいは残念なことに昭和34、5年頃までだった。
と書いてあります(147頁)。1月と8月の16日は「地獄の釜の蓋があく日」といわれていました。
今年も8月にはお開帳が行われるそうです。普段は拝むことの出来ないお像や軸を、多くの方が参拝されることをおすすめいたします。


閻魔法王が罪人に罰を与えている場面です。
上段に閻魔法王。
中段の二人は司命(しみょう)と司録(しろく)。
「司命」は、連れてこられた者の生前の行いを閻魔法王の前で読み上げます。
それを聞いて閻魔法王が、行き先は地獄か極楽か決定し、その決定を「司録」が記録します。
下段の二人は地獄の獄卒です。
奪衣婆(だつえば)は地獄に落とされた者を三途の川のほとりで待っていて、着物ををはぐ。
その下は血の池地獄の図です。
昔は、これらの掛け軸を見せて、地獄の恐ろしさを説明し、悪いことをしてはいけないと教えていたものと思われます。

この日は長生殿もお開帳されて、閻魔法王をはじめ十王像や奪衣婆(だつえば)などを拝むことができました。
中央に閻魔法王の像。
その両脇に司命(向かって左側)と司録(右側)。
その下に獄卒の青鬼と赤鬼。
その脇に十王が五人ずつ座っておられます。
下のモノクロームの画像は『ふるさとの寺と仏像』(昭和52年 茅ヶ崎郷土会発行)に掲載されている金剛院の像です。
なお、『茅ヶ崎市史』3考古民俗編に、
閻魔法王像は元文4年(1739)銘で仏師良運作、十王像などは文久3年(1863)に作られたらしいとあります(212頁)。
photo:ODAKA会員
report:HIRANO会員
修験道は、江戸時代、幕府によって天台宗系の本山派と真言宗系の当山派にまとめられた。共に総本山は京都にあり、本山派は聖護院、当山派は醍醐寺三宝院で、各地には地方本山が置かれ、それぞれピラミッド型の二つの組織体制を幕府が監視した。
相模では、本山派は小田原の玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が大住郡や高座郡を中心に多くの末寺を抱えていたが、八菅修験集団は独立して聖護院の直末となった。貞享4年(1687) のことといわれている。
一方、当山派は相模本山が数多くあり、それぞれに末寺を抱えていた。
茅ヶ崎近辺にあった寺院をあげると、
高座郡遠藤村(現藤沢市)の大験寺、
同郡吉岡村(現綾瀬市)の龍岡寺が相模本山で、
後に紹介する西俣野(藤沢市)の神礼寺は前者の、茅ヶ崎市芹沢の宝沢寺は後者の末寺だった。
【画像をクリックすると大きな画像で見ることができます】

この分布図は松村雄介著『相模の石仏』(昭和56年木耳社刊)に掲載されているもので、江戸時代末期の相模国内にあった修験道寺院を、本山派(天台宗系)と当山派(真言宗系)に分けて、それぞれ地図に落としてある。『新編相模国風土記稿』に基づいて作成し、寺院数は約150ヶ寺にのぼるとある。三浦半島と現在の横浜市戸塚区・泉区などに当山派の偏りがみられるものの、その他の地域では両派の分布は重なっている。茅ヶ崎市内では、芹沢に宝沢寺(ほうたくじ)、香川に普賢寺(ふげんじ)の当山派修験の2寺があった。
『八菅周辺の歴史と信仰』―愛川町郷土博物館展示基礎調査会報告書 第4集―(愛川町教育委員会1997年刊)に掲載されている。『新編相模国風土記稿』を元に、相模国内の修験寺院を、郡ごとにまとめた一覧表。修験寺院の本末関係も明記してあり、便利に使うことができる。分量があるので、ここでは同書を紹介するにとどめる。
『新編相模国風土記稿』には、江戸時代に今の茅ヶ崎市内にあった芹沢村の宝沢寺(ほうたくじ)は吉岡村(綾瀬市)にあった瀧岡寺の触下とあるが、香川村にあった普賢寺(ふげんじ)の本寺の記述は欠けている。
同じく『八菅周辺の歴史と信仰』に掲載されている、相模国内修験寺院の本末関係の一覧。本山派修験では小田原にあった玉瀧坊(ぎょくりゅうぼう)が多くの末寺を抱えていた。
しかし愛甲郡内で51ヶ寺が聖護院の直末となっているのは、玉瀧坊から分離した八菅修験のことである。これに対して、当山派は総本山の醍醐三宝院の直末寺院をはじめ、本寺の数が多く、それぞれに末寺を抱えており、複雑な本末関係にあったと記してある。
江戸時代には相模国高座郡西俣野村(現藤沢市)に当山派修験の神礼寺(じんれいじ)があり地神坊(じじんぼう)と呼ばれていた。地神坊と呼ばれたのは、特徴ある地神(じじん)の絵像を頒布していたからである。絵像は、左手に花を盛った器(これを「盛花器」という)を、右手に矛(ほこ)を持ち立ち姿の武神で、人々はこれを掛け軸に仕立てて地神講の礼拝本尊としたり、石に彫って地神塔として立てた。
当地方の地神信仰には修験の神礼寺が係わっていたと考えられている。その影響は相模国に限らず、隣接する、現在の町田市、横浜市、川崎市にもおよんでいる。
明治政府の神仏分離令(神仏判然令 1868年)が出されるまで日本では長い間神仏習合が続いていた。村々の鎮守は、特定の寺院が管理しており、そのような寺を別当寺という。別当寺は、管理する神社の近くにあることが多かった。
今は藤沢市内の西俣野村は、御嶽神社(みたけじんじゃ)が村鎮守で、別当寺は当山派修験の神礼寺だった。御嶽神社は今も残っているが、神礼寺は神仏分離令後、明治5年の修験宗廃止令で痕跡を失った。修験道そのものが存在を認められなかったからである。
地神とは、農作物の豊穣を願って農民が祭った神で、これを祭るには、地神講という講をなし、石で地神を表す塔を建てた。地神講は春秋に催され、地神の像や文字でそれと表した掛け軸を掛けて飲食をした。神奈川県内は全国的に見て地神の信仰が盛んな土地だった。
神礼寺像には「相州高座郡西俣野村神禮寺堅牢地神」と書かれている。堅牢地神(けんろうじじん)とは『金光明経』の「堅牢地神品」に基づく呼び方で、地神の由来を仏教の天部に求めたものである。
藤沢市獺郷にある曹洞宗東陽院は修験寺院ではないが、十八世の輝外良準和尚は絵が堪能で、肉筆の地神像図を残している(『御所見の今昔』平成9年)。
その絵を比べると西俣野の神礼寺の地神像を手本にしたものであることが分かる。藤沢市宮原の百石講中が所有しているそうである。
正面左右に「御嶽大権現」「堅牢地神供」とある。作られた年は、右側面に「文化三丙寅十一月」とある。文化3年は1806年で、約200年前のものである。「大権現」という言い方は神仏習合に基づくもので、神仏分離で禁止される。また、「堅牢地神供」とあるのは、別当寺の神礼寺が地神の信仰の発信源になっていたことを表している。村人の日常生活に強く結びついて、その現世利益成就にかかわった修験の、かつての姿を今に残す水鉢である。

茅ヶ崎市近辺の市町にある地神塔をいくつか紹介しよう。石で作られ、路傍などに立っている地神塔は、地神の像を彫ったものと、文字でそれと表したものがあり、前者から後者へと時代と共に変化したと考えられている。
像を彫るものには、神礼寺の掛け軸にある絵に基づくものと、「堅牢地神品」に記す女神像があるが、ここでは修験道がテーマであるから神礼寺型を取り上げることとする。
寒川町田端の路傍にある。安永(1779)の銘があり、比較的初期のもの。頭髪の形が違うほかは神礼寺の神像と同じである。
享和(1803)の年銘を持つ。
地神講を行うのは春、秋の社日(しゃにち)だった。社日とは、春分と秋分に(春分の日、秋分の日)に最も近い戊(つちのえ)の日をいう。「つちのえ」の「つち」が「土」を連想させるところから、農作物の豊穣祈願に結びついたものと考えられる。
この地神塔には、年銘の次に「二月吉日」とある。つまり、春の社日に近いある日に立てられたものである。
文化9年(1812)の年銘を持つ。この塔をはじめとして、その4・5は同じ材質の石を使っているようだ。緻密な赤茶色の石材。彫刻が細かく施されている割に摩滅や薄利が少ない。石質は固いようだ。
像は磐座(いわざ)に立ち、右手に矛、左手に花を盛った器を抱える。広がった袖先、火炎の様な頭髪、鎧にある青海波の彫刻は精緻になされている。地神の表情はリアルである。
頭の周りの頭光に火炎が三つ付いている。像のバランスも良く、かなり腕の立つ石工の手になるものだろう。
文政13年(1830)の年銘を持つ。
像はいささか寸が詰まっていて、身長の割に頭が大きいが、頭光を含む全体のバランスは悪くない。両足の下に敷くものは蓮の葉と思われる。三つの火炎をつけた頭光があるところはその3と同じ。
顔の表情と全体の彫刻の有り様にも共通するものがある。おそらく同じ石工になるものと思われる。これも地神塔の優品である。
天保3年(1832)の年銘を持つ。
先の3例とは石材が違うようだ。また、像を刻んだ石柱が笠を被り、形態も異なる。しかし頭光と顔の表情、袖先の表し方、両足の下の蓮の葉と思われるものなど、その3・5に共通するところがある。同じ石工になるものではなかろうか。
天保7年(1836)の年銘を持つ。
石の質はその4と同じであるように写真では見える。頭髪の様子、大雑把で粗い鎧の表現、ぬめっとした感じの袖先、肩のライン、花を盛る器の持ち方や首からその器までの表し方などに共通点があり、その4と7は同じ石工になるものと思われる。
明治政府の修験道廃止令によって廃寺となった藤沢市遠藤の大験寺(だいけんじ)は相模の当山派地方本山の一つで、高座郡内に吉祥院(現寒川町小谷)・感応院(相模原市上溝)・神礼寺(藤沢市西俣野)・最勝寺(藤沢市石川)・金剛院(藤沢市打戻)・正明院(相模原市田名)の末寺6寺を抱えていた。また、遠藤村(現藤沢市)の村鎮守である御嶽神社の別当寺でもあった。
その場所は御嶽神社のそばだと思われるが、神社を訪ねてみても痕跡は何も残っていない。この有様はほかの修験寺院の跡でも同じである。修験廃止令は徹底して行われた模様である。
茅ヶ崎市内には、かつて二つの修験道寺院があった。香川の普賢寺(ふげんじ)と芹沢の宝沢寺(ほうたくじ)である。共に当山派(真言宗系)に属した。
普賢寺は香川村の鎮守の諏訪神社の別当寺で、宝沢寺は芹沢村の鎮守の腰掛神社(こしかけじんじゃ)の別当寺だった。ともに明治5年の修験道廃止令によって廃寺となった。修験道の廃止は明治初年の神仏分離令に続くもので、神仏分離では次の様なことが行われた。
◯神社名の変更 仏語を神号とする神社はその名称を変更した。八王子権現は八王子神社に、牛頭天王(ごずてんのう)は八雲神社あるいは八坂神社に、山王権現は日枝神社、日吉神社などに。
◯祭神の変更 牛頭天王の8人の御子はアマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた8柱の御子神に。
修験道寺院も本末寺制度で系統化され、江戸幕府の管理を受けていたので、末寺は地方本寺に、地方本寺は総本山に抱えられていた。相模国の中のその系統図は『新編相模国風土記稿』でたどることができるが、香川の普賢寺は本寺が記されていない。 神仏分離まで鎮守の諏訪神社は普賢寺が別当寺だった。
拝殿の向拝にケヤキの一枚板で出来ている社額があり「諏訪大神/明治丁酉(ひのととり)孟冬/十二竹子書」と書かれている。明治丁酉は明治30年(1897)。今の社殿は昭和3年に建て替えられたそうである。この社額は旧社殿にあったもので、12歳の竹子さんが書いたと『香川の歩み』(昭和53年香川自治会発行)に出ている。
茅ヶ崎市内にあった二つ目の修験寺院、宝沢寺も今はその跡をとどめていない。腰掛神社まだ農村風景が広がる茅ヶ崎北部の丘陵の中にあって、緑の樹林に囲まれている。その樹林は市の天然記念物の指定を受けている。雪の腰掛神社。
腰掛神社の名前は普通にない名前である。境内の社殿の前に大石が一つ置かれていて、そばに立っている説明板には「日本武尊、東征のとき腰掛けられた石」と書いてある。神社の名前はこの石に由来する。
また『新編相模国風土記稿』には「大庭の神 腰を掛し旧蹟といい伝う」とある。「大庭の神」とは何なのか分からないが、この腰掛石は、ここに神が出現したことを伝える影向石(ようごういし)と呼ばれる霊石の一つである。
茅ヶ崎郷土会は、平成27年度に県内各地の修験道の関係する史跡をめぐったが、修験道の跡をとどめる所は少なかった。修験道寺院が建っていたその土地を確認することさえ十分には出来なかった。
そういう中で、宝沢寺跡地は腰掛神社の脇にあり、今は樹木が茂っているが関東大震災まで建物があったという。今でも井戸が残っている。
一段低くなっていて、木々が茂っているところが廃寺の跡地である。宝沢寺は当山派(真言宗系)に属し、高座郡吉岡村(現綾瀬市内)の瀧岡寺の触下だった。
修験寺院宝沢寺でも地神の刷り物の画像を発行していた。図柄は、右手に矛を、左手に花を盛った器を抱える武神像で、いわゆる神礼寺型の地神像である。ただ、神礼寺の画像と違う点は、神礼寺は堅牢地神としていたことに対して、宝沢寺では「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」としている点である。「埴(はに)」は粘土、つまり「土」のことで、土の神、すなわち豊作を祈る神、地神ということになる。
画像には「石腰神主」とあるので、宝沢寺がなくなったあと腰掛神社で発行したものである。
photo 坂井会員
report 平野会員
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気嵐(けあらし)について、ネット情報の「コトバンク」には次のように解説してあります。
海、河川、湖などの水面から湯気のように霧が立ち上る現象。「気嵐」と書く。
夜間に放射冷却によって冷やされた陸上の空気が暖かい海上などに流れ出し、水面の水蒸気を冷やすことによって発生する。気温が最も低くなる早朝に発生し、昼前には消散する場合が多い。主に冬の北日本で発生する。
1月26日に柳島の海上で見られた霧は気嵐だったようです。
次の3枚の写真はその様子です。
同日7時22分撮影



(photo:maeda会員)
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