土屋三郎宗遠は、相模のもののふの中では比較的に地味な存在のように思われます。
頼朝の旗挙げは、治承4年(1180)8月17日に伊豆国の目代、山木兼隆を襲撃することで幕を開けました。そして20日、頼朝は伊豆と相模国の御家人を率いて、伊豆を出て相模国の土肥の郷を目指します。『吾妻鏡』はこのときの一行46人の名前を列挙していますが、その中に土屋三郎宗遠の名前があります。
また、石橋山の合戦で破れた頼朝が房州に落ちる物語の、謡曲「七騎落」の中にもその名がありますが、謡曲の中では目立った働きはしていません。
平塚市土屋は緑の濃い丘陵の中に位置し、ここに土屋一族の墓所と、屋敷跡と伝える一角があります。また、この地にある真言宗芳盛寺と天台宗大乗院は、宗遠との関わりを伝えています。
土屋に住む方々は、宗遠をしのび、毎年墓前祭を続けています。私たち、茅ヶ崎郷土会の有志数人でこの墓前祭を訪れたところ、鎌倉時代のもののふ同士の付き合いを再現したかのように、墓前祭に、岡崎や真田をはじめ、各地から大勢の人たちが集まっておられ、私たちは驚いたものでした。
このコーナーでは土屋に残る宗遠の遺跡を紹介します。
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8-01
土屋宗遠(むねとお)の木像(平塚市土屋)
今年、平成29年5月8日、平塚市土屋で相模のもののふの一人、土屋一族の墓前祭が行われると聞いて、茅ヶ崎郷土会の有志数人と出かけた。
場所は神奈川大学の近くだった。まず土屋一族のものと伝えられる墓所で墓前祭が行われ、次に天台宗大乗院に移って供養の法要が行われた。
本堂には写真の土屋三郎宗遠の木像が祭ってあった。いつもは、土屋にある天台宗正蔵院に蔵しているそうである。
一族の墓地に立つ平塚市教育委員会の説明板「土屋の舘跡と土屋一族の墓」に、土屋宗遠について記してあった。
「平安時代後期、中村荘司宗平(なかむらのしょうじむねひら)の三男宗遠は相州土屋の地の領主として舘(やかた)を構えた。土屋宗遠は治承四年(1180)源頼朝の挙兵に参加、鎌倉幕府成立に貢献し、その子義清も「随兵役」を勤めるなど、頼朝の厚い信頼を受けた。以来、土屋氏は室町時代の応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱で敗走し所領が没収されるまで土屋の地を支配した。」
なお、宗平の嫡男は重平(しげひら)、次男は土肥実平(さねひら)、三男が土屋三郎宗遠、四男は二宮友平(ともひら)である。
8-02
土屋の郷を望む
土屋は平塚市の中で最も西に位置し、南は大磯町と二宮町、西は中井町に接している。全体が丘陵地で緑が豊かである。
北側に金目川が流れている。写真は、金目川のほとりから土屋を眺めたものである。
中村宗平が率いた中村荘(なかむらのしょう)は、現在の、中井町中村から小田原市中村原にかけて展開していたと考えられているので、土屋は近いのである。
8-03
土屋一族の墓所(平塚市土屋1167ー44)
二宮町、中井町から続く丘陵が、半島のように北東方向に伸びる先端近くの東側傾斜地の一角に、一族の墓所と伝える所がある。傾斜はかなり急で、下りきった低地を、金目川の支流の座禅川が北に向かって流れている。
墓所は、斜面を段々畑状に、横に長く切り開いて設けられている。鎌倉時代と思われるものもあるが、室町時代の五輪塔や宝篋印塔の残欠が崖にそって並んでいる。
墓地に、「土屋三郎宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板があって、
「三郎宗遠は中村宗平の三男として大治三年(1128)、相模国大住郡中村に生まれた。(略)鎌倉幕府樹立に貢献した。幾多の功績を残し、阿弥陀寺(現芳盛寺)を創建し、又大乗院を再建するなど善行に励み、建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。
8-04
土屋いろはかるた 「土屋一族の墓」
墓地にある平塚市教育委員会の説明板に、「ふるさと土屋いろはかるた」の、五輪塔と墓前祭と土屋氏の舘跡(やかたあと)の三枚の読み札と絵札が印刷してあった。
絵はどれも、子どもたちが描いたものと思われる。
まず、五輪塔かるた。
読み札は「つ」で始まる。 土屋氏の 一族ねむる 五輪塔
絵札の絵は、たくさん並んでいる石塔の中央の比較的大型の五輪塔を描いてある。
8-05
土屋一族の墓前祭
墓前祭を指導されるのは大乗院のご住職。地元で宗遠公を顕彰している会の方々と岡崎、真田、中井など、鎌倉時代の中村党に関係する各地の方々が参加されていた。
中村宗平の子どもたちは各地に散って土着した。また三浦一族から出て岡崎に定着した義実(よしざね)は中村の娘を妻としている。このような関係が、今の時代まで引き継がれているのである。驚いた。
8-06
土屋いろはかるた 「墓前祭」
「く」 供養する 五月八日の墓前祭
8-07
熱心に祈る 茅ヶ崎郷土会の会員
おそらく、土屋三郎宗遠公をしのび、土屋の発展と、我が茅ヶ崎市の進展と、茅ヶ崎郷土会の邁進と、世界の平和と、自らとご一族の安泰と健康を祈っておられたものと思う。
8-08
土屋いろはかるた 「土屋宗遠の館跡」
「も」 武士(もののふ)が 住みし土屋の 館跡(やかたあと)
『新編相模国風土記稿』大住郡糟屋庄土屋村(雄山閣版3巻70頁から)の項に「土屋三郎宗遠居跡 宗憲寺境内なりという、その辺(あたり)の字(あざ)に、下屋敷、屋敷内などの唱えあるのみ、遺形と覚(おぼ)しき所なし」とある。宗憲寺は神仏分離の折に廃寺になっている。
風土記稿にいう宗憲寺はその位置が分からないが、現在は一族の墓所のすぐ下を屋敷跡と伝えている。『平塚と相模の城館』(29頁 平塚市博物館刊)をみても、発掘調査は行われていないようである。
墓所があり、館跡(やかたあと)といわれる一角は、小字(こあざ)を「大庭」と書く。『平塚市郷土誌事典』(91頁)はこれを「おおにわ」と読んでおり、「宗憲寺という寺院があったともいわれている」とする。館(やかた)の庭が地名となって残ったということも考えられるが、発掘調査が待たれるところである。
8-09
土屋いろはかるた 「高神山」
「お」 丘の上 土屋城址の 高神山(こうじんやま)
小字(こあざ)の「大庭」に隣接して「高神山」という小字がある。大庭より一段高くなった平場である。「高神山」は「高陣山とも書くようである。「ふるさと土屋いろはかるた実行委員会」が立てた「土屋城址と高神山(高陣山)」の説明板には
「土屋一族は、鎌倉~室町時代にかけて地の利を生かし、館(やかた)の裏山一帯を要害として、土屋城(陣地)を築いていたということから、この一帯を高陣山といいます。」とある。
昔は尾根状の地形だったらしいが『平塚と相模の城館』(平塚市博物館)に「尾根は土取り工事によって消滅しており、かつての景観を知る由もない」(29頁)とある。
8-10
天台宗 大乗院 (平塚市土屋200)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項(雄山閣版3巻72頁)には「星光山弘宣寺と号す。天台宗。古碑一基、土屋彌三郎宗遠(ママ)が墓碑と言い伝う」とある。
環境庁と神奈川県連名の説明板には次のように記してあった。
「天台宗延暦寺派の名刹。土屋三郎宗遠が堂塔を再建したと伝える。往時は多くの末寺をもつ大寺だったが、建物は第二次大戦(昭和20年)のとき焼失した。再建後の本堂には、瑞光をはなったといわれる阿弥陀如来が難を免れて安置されている。相模新西国二十九番観音霊場。」
8-11 土屋いろはかるた
「大乗院」
「れ」 歴史ある 土屋の古刹 大乗院
8-12
大乗院の本堂で土屋一族の供養
墓前祭が終わると、本堂に場所を移して供養の法事が行われた。
法事が終わると懇親会となった。茅ヶ崎から参加した私たち一行も末席に連なった。土屋で宗遠公を顕彰しておられる方々や、各地で、その地のもののふをそれぞれ顕彰しておられる方と話をすることができた。土屋一族の墓前祭は、以前は8月5日に行っていたとのことだった。そう言えば、墓地にあった「宗遠公遺跡保存会」が昭和63年に立てた説明板には、「建保六年(1218)八月五日、九十歳でこの世を去った」とあった。かつてタバコの収穫で忙しい時に、5月8日に変えたのだそうだ。5と8を入れ替えて日を定めたのだろうか。
またこの席上で、平塚市真田の「与一顕彰会」の方から、与一公墓前祭が8月23日にあることを聞いたことが、真田にも足を伸ばすきっかけとなったのである。
8-13
宗遠詠む歌と言われているが、実は源実朝の歌
道とほし 腰はふたへにかがまりて 杖にすがりてここまでも来る
歌人であった実朝の歌を集めた『金槐和歌集』にある歌。
「相州の土屋という所に九十歳になるくち法師(朽ち法師)があり、自ら鎌倉まで来て自分と昔語りなどする中に、もう身の立ち居も思うようにならなくなったといい、泣く泣く帰ったときに詠んだ歌」
という前書きのもとに並ぶ五首の歌の中の一首である。
この歌碑が一族の墓所にある。
土屋宗遠が亡くなったという建保6年8月5日の記事は『吾妻鏡』にはない。しかし、90歳まで生きていたというのは本当のことだったようだ。
宗遠に関係する寺社としては、現在も土屋にある芳盛寺を挙げない訳にはいかない。風土記稿は芳盛寺について「土屋山無量寿院と号す、古義真言宗…(略)開基 土屋彌三郎宗遠(ママ) 建保元年(1213)八月五日卒、年九十、法名 阿弥陀寺殿空阿」と記している。宗遠の卒年月日の出典はこれだろうか。
また、『平塚市郷土誌事典』に「宗遠の法名により阿弥陀寺と称したが、大森芳盛の庇護を受け芳盛寺と改めた」とある。
8-14
一族の墓地で、調査と記録に励む茅ヶ崎郷土会の会員
写真は実朝の歌碑の裏面である。歌が作られたいきさつが彫ってある。その内容は前記した。
下調べすること、現地を訪ねること、歩き回ること、汗水を垂らすこと、写すこと、撮すこと、そして書くこと、残すこと。
これは茅ヶ崎郷土会の鉄則である。
8-15
土屋の鎮守 熊野神社 (平塚市土屋227)
『新編相模国風土記稿』土屋村の項に「村の鎮守なり、神体木像、例祭九月二十九日、神木の杉、回り一丈二尺(3㍍60㌢)、別当持宝院…」とあるが、土屋一族との関係はなにも書かれていない。
この熊野神社は、社殿を飾る彫刻がすばらしい。向拝(ごはい)の水引虹梁(みずひきこうりょう)の上には龍が乗り、菟毛通(うのけとおし)は翼を広げた飛龍、向拝柱(ごはいばしら)などの木鼻(きばな)も龍である。また、屋根の四隅は二重の扇垂木(おうぎたるき)で、これも珍しい。向拝の龍の裏側を子細に眺めたが作者銘は見つけられなかった。一見の価値は十分にある建物である。
8-16
土屋いろはかるた 「熊野神社」
「な」 名高きは 小熊(こおま)に鎮座の お熊さん
「小熊」は「こおま」と読み、熊野神社や大乗院のある地の小字(こあざ)の名である。
このかるたをもって、土屋三郎宗遠ゆかりの土屋の紹介を終わろう。
photo & report 平野会員