相模のもののふたち (5)梶原景時(寒川町)

源氏と平家の争いが一ノ谷、壇ノ浦と所を移し、次第に平家方が退却していく中、義経と梶原景時の確執も激烈さを増していきました。この二人の確執は次第に頼朝と義経の対決に発展します。
平家が壇ノ浦で壊滅したあとの文治元年(1185)4月21日、九州から、源平合戦の次第を報告する景時の書状が鎌倉に到着したと『吾妻鏡』は記しています。その中に「御家人たちはともに頼朝を仰いで戦ったのに、判官殿は自分のための戦いと思っている。それを諫めた自分は罰を受けかねない有様だった」と訴えました。この頼朝への報告が、後に景時の讒言(ざんげん)の一つと数えられるのです。
正治元年(1199)1月、頼朝が亡くなり、新将軍に頼家が任じられました。その年の十月、結城朝光が「忠臣は二君につかえず」といったことを景時が頼家に伝えたことが、景時の讒訴(ざんそ)だと解され、景時排斥の動きが始まりました。12月18日、ついに鎌倉を追い出され一宮(ママ)(寒川町)に退きました。そして鎌倉の屋敷は破却されました。その後景時は一宮で急遽、防戦体制を整えましたが、年が改まり正治2年1月19日の夜、子息などを伴い、「ひそかに逃れ出ず」と20日の条にあります。「これ謀反を企て上洛するの聞こえあり」と。そして駿河国清見関(現静岡県静岡市)で待ち構えていた者たちによって、景時は子どもたちとともに命を落としました。
梶原景時に関する『吾妻鏡』の記事は、景時を策謀に長けた人物として、特に強調して描いているように思えます。作為を感じるのです。寒川町の隣の茅ヶ崎に住む者としては、実に残念です。そのような悲劇のもののふ、梶原景時の遺跡を紹介します。
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5-01
景時舘跡(寒川町一之宮八丁目6-6)

梶原景時の一之宮の舘は、『吾妻鏡』に、景時の悲劇の始まりの場面で出てくる。正治元年(1199)年1月13日、頼朝が亡くなる。結城朝光が口をすべらせたことを、景時が将軍頼家に密告したので朝光は誅されるという話が御家人間に広まった。同年10月のことである。朝光に同情する御家人たちは「また景時の讒言(ざんげん)か」と、舌打ちしながら景時糾弾の連判状を将軍に差し出した。連判状に目を通した頼家は、これを景時に渡し、「申し開きがあったら述べよ」という。そしてその翌日11月13日の条を『吾妻鏡』は次のように記している。
「梶原平三景時、かの訴状を下し給わるといえども陳謝に能わず(申し開きをしなかった)。子息親類などを相率して相模国一宮(ママ)に下向す。」
また、『新編相模国風土記稿』高座郡一之宮村(雄山閣版3巻296頁)の項には「梶原景時城跡 村の西方大山道のかたわらにあり、陸田二段八畝あまり、(景時の)屋敷内ととなう。その他の所を城の下ととなう。」とある。

5-02
舘跡の天満宮
館の跡といっても土地の高さは大山道とあまり変わらない。入口から入って奥の方に小さなお社の天満宮が祭ってある。舘跡にある、寒川町教育委員会が立てた説明板には次のように記してあった。
「天満宮の位置は梶原景時舘跡の一角で、当時(景時の時代)は物見(ものみ)の場所として一段高く構築したとも伝えられています。(略)物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。」

5-03
昭和3年撮影の天満宮の辺り
昭和3年に撮影したという天満宮辺りの風景写真が、現地の説明板に掲げてあった。現在の地形とどのように重なるのか、またその方角なども分からないが、小高くなっていたことは分かる。

5-04
景時舘跡の発掘調査
居館跡の遺跡名称は「梶原氏館址遺跡」となっている。寒川町のホームページには、この遺跡の説明が次のように掲載されている。
「梶原氏館址(かじわらしやかたあと)遺跡は、相模川左岸から1kmほど離れた氾濫平野から、自然堤防にあたる低地に立地していて、標高は7~8メートルほどです。平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した武将梶原景時の館があったと伝承されています。
平成13年に数カ所学術調査が実施され、中近世の溝や堀などは確認されたものの、直接梶原景時につながる遺構は確認されませんでした。」
平成13年に行われた発掘調査の結果を表す図が舘跡に示してあった。写真はその写しである。説明板にあるように、この発掘図から屋敷跡を読み取るのは困難である。

5-05
梶原景時木像
舘跡にある「梶原景時と一之宮舘跡」という説明板に景時の木像が掲げてある。写真はその複写画像である。烏帽子を被り、右手に笏を持つ写実的な像だが、制作されたのは古いことではないように見える。
「東京・馬込 萬福寺蔵」とあるので萬福寺をネットで調べてみた。東京都大田区南馬込一丁目49-1がその住所だった。
寺のホームページの「寺の概要」に次のようにあった。
「曹洞宗寺院である萬福寺は慈眼山無量院と号します。建久年間(1190~99)大井村丸山の地に密教寺院として創建されました。開基は梶原平三景時公であったと伝えられています。元応二年(1320)火災にあい、第六代の梶原掃部助景嗣が居城とともに馬込へ移転したと伝えられます。天文三年(1534)鎌倉の禅僧明堂文竜が曹洞宗に改め中興し、現在の萬福寺へと続いています。本尊は阿弥陀三尊を祀っております。」
景時を開基としているからその像を祭っていても不思議はないが、像の説明はない。なお、本尊は善光寺式阿弥陀三尊だそうである。

5-06
梶原景季(かじわらかげすえ)と箙(えびら)の梅
舘跡に、板状の石に「箙(えびら)の梅」と題し、甲冑姿の武人と横を向く女性を描いた不思議な絵がある。
絵の下にある説明文を読むと、武人は梶原源太景季(かげすえ)とあるが、女性については何も記していない。景季は、ここにあった舘の主、景時の長男である。景季は源氏軍が平家群を追い詰めた一ノ谷の合戦の折、花を付けた梅の枝を自分の箙(えびら)(矢を入れて背負う道具)に差して戦った。この事が以後、物語となり、演劇となり、画題となった。舘跡の近くにある一之宮八幡大神の屋台の彫刻の絵柄ともなっており、この不思議な絵は、その屋台の彫刻を写したものと、説明文に書いてある。

5-07
伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
御影石の築石壇(つきいしだん)の上に並んでいる石塔は、江戸時代のものもあるが、室町時代末期(16世紀後半)の五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の各部である。地元ではこれらを「梶原一族の郎党(七士)の墓」と称している。そばに立ててある説明板に次のように記してあった。
「次のような言い伝えがある。正治二年(1200)、景時一族と郎党が一宮(ママ)の舘を出発し上洛の途中、清見関(きよみがせき)(静岡市清水区)で討ち死にしてしまったので、舘の留守居役だった家族、家臣等が弔(とむら)った。また、景時親子が討ち死にしてから景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七士が、鎌倉に来て主人の復権と所領安堵を願ったが許されず、その場で自害したのでそれを祭ったもの。」

5-08
建長寺三門(山門)で行われる施餓鬼会 (鎌倉市山ノ内8)
毎年7月15日に行われるという建長寺の施餓鬼会の折に梶原景時の霊の供養も一緒に催されると聞いて、撮影するために出かけた。
施餓鬼会に、なぜ景時の霊の供養が加わったのかが知りたくて、建長寺の公式ホームページを見てみたが触れられていない。
施餓鬼会は朝8時から三門(山門)で始められた。

5-09
施餓鬼会の読経
机に位牌を3基据えて、生花、果物を供え、香を焚いて読経が始まった。僧侶は30人ほどおられただろうか。
卓上に据えてある3基の位牌を望遠レンズで覗いてみたが、江戸時代の年号があり、どこかの僧侶の位牌のようだった。景時の位牌が出ているのか期待したが、はずれた。
施餓鬼会とは、餓鬼となって六道輪廻で苦しんでいる霊を供養する儀式である。

5-10
施餓鬼会の精霊棚(しょうりょうだな)
お盆には、家庭で、帰ってこられるご先祖の霊(オショロさん=お精霊さん)を祭る。このとき、先祖の霊は屋内の盆棚で祭り、祭り手がない餓鬼は、盆棚の下や、屋外で祭る。神奈川県では、屋敷の入口に砂や土を小さく盛って、その上にキュウリやナスで作った馬を置き、少しばかりの供え物をして、これを「砂盛り」とか「塚」といっている。これは餓鬼を供養する屋外の盆棚と解される。
建長寺では三門から10メートルほど離れたところに棚を組んで、そこに大きな位牌のようなもの1基を据え、供え物がしてあった。施餓鬼供養はこの棚に向かって行われていた。

5-11
精霊棚の位牌
施餓鬼棚にある位牌のようなものの近接画像である。表側に「六道四生三界萬霊有縁無縁」と書いてあった。
「六道四生」とは餓鬼道・地獄道・畜生道・修羅道・人間道・天道にある、時間を越えた全ての生き物という意味、「三界萬霊」とは、これも仏教で説く時間を越えた全ての世界にある霊という意味、「有縁無縁」も仏教に縁あって救われている人、縁なくて救われていない人、つまり時間を越えた全ての人という意味で、煎じ詰めれば、無機質のものを除く全てのものという意味だろう。
この位牌状のものに向かって、全ての霊的存在を仏教の救いにすくい取るというのが建長寺の施餓鬼供養であるらしい。

5-12
梶原施餓鬼と瀬名の梶原会
『新編鎌倉志』建長寺山門の項に梶原施餓鬼のことが出ている(雄山閣版6巻48頁)。開山在世の時、一人の武者が来て、すでに施餓鬼会が終わったのを見て落胆する。僧が理由を聞くと「自分は梶原景時の霊だが、施餓鬼会に間に合わなくて残念」というので、もう一度景時のために施餓鬼会を行ったという話である。般若心経を梵音(梵字の発音で)で称しながら行道すると書いてある。この日も参加の大勢の僧侶によってこの行道が行われた。今も梶原施餓鬼は行われているのである。
瀬名梶原会の方々が大勢見えていた。静岡市に梶原山という丘陵があり、梶原一族終焉の地といわれている。梶原会は、景時の顕彰と梶原山の清掃などを行っているそうである。

5-13
施餓鬼会に響く国宝の梵鐘の音
建長寺の梵鐘は国宝に指定されている。説明板によると、1255年(建長7)に鋳造されたとある。建長寺は1253年(建長5)創建で、開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。この梵鐘は、寺の開設とほぼ同時に作られたものである。
鎌倉時代の梵鐘が、施餓鬼供養の始まる前に、鎌倉時代の音色を重低音で響かせた。私は生まれて始めて、鎌倉時代の音を直(じか)に聞いたのである。760年間ほどの間に、数え切れない人たちが、この鎌倉時代の鐘の音を聞いている。私もその数え切れない人たちの一人に加わったのだ。

photo & report 平野会員

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